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前回記事:『うつせみ』を中心にキム・ギドク的主題を読み直すこと
キム・ギドク監督『アーメン/Amen(原題)』(2011)は、不思議な映画です。 観賞したのは二年ほど前、良い視聴環境ではありませんでした。動画投稿サイトで当然日本語字幕なしのものをノートブックで観賞したわけですが、字幕について言えば、後の『メビウス』(Moebius 2013)同様セリフはほぼありませんので全く問題なく、手持ちカメラによるビデオ映像や風防さえ無さそうな録音も含めて、そうした作りの粗さはサイトの動画品質で十分どころか、むしろ相応しいかもしれないと感じられたことは幸いです。 作品そのものについて言えば、そうした手法のあざとさは拭えないものの、ある種のライヴ感をもって流れる風景(パリやアヴィニョン)の中に、エトランゼとしてのヒロインの身体を前景にクッキリと浮かび上がらせることに成功していると感じましたし、彼女が恋人の名前を叫ぶ唯一のセリフが、要所要所の風景をピンで留めるのも実に効果的でした。 あらすじは次のようなものです。恋人を訪ねて欧州を訪れたヒロイン(キム・イェナ≒高岡早紀ソックリ)。寝台車で寝ている間に謎の男(ギドク本人がガスマスクを被って怪しげに演じます)にレイプされた彼女は、心ならずも妊娠します。その後も影のように付き纏い続ける謎の男は、(妊娠した子)を産んでほしいと彼女に懇願するのでした。 さて、"不思議な映画"と書きましたが、あらすじどおり摩訶不思議に捻じれた筋書きらしきものについて言えば、メロドラマによる復活を勝手に期待していた私の希望を裏切るものだとは言え、これまでのキム・ギドクのフィルモグラフィーに接する中で何度も驚いたり呆れたりしてきた私たちファンが、いまさら不思議がったりするほどの捻じれ具合ではないはずです。 ここには、『アリラン』(Arirang 2011)の隠遁から下山後のキム・ギドクが、本格的な復帰に向けて、(わざわざ)受胎告知という大袈裟なセレモニーを自らお膳立てするという大時代的な文脈が見え隠れします。 ならば、ヒロインが身に宿したものは、後続するはずの本格的な劇映画復帰作品であるでしょう。かつそれは、ギドク自身の復活再臨に他ならないわけで、それが困難を伴うこと、不条理な難産であることが、捻じれた筋書きとして示唆されていると言えます。 しかしまた一方で、「誰でも映画を作ることができるんだ」という本作に係る監督本人のメッセージからも分かるように、自ら監督・脚本・撮影・録音・編集・音響・出演をこなしつつ、製作期間たった2週間(カンヌ映画際渡欧中)、「製作費は寝台車のチケット代くらい」というスペックによって、自ら選択した土俵である映画製作というものの、本質的な簡便さ(簡便であるはず)や軽やかさ(軽やかであるべき)をも体現した作品でもあります。 総じて本作の70分という時間の中には、産声をあげる作品をめぐって、必要以上の儀礼的な深刻さ(難産)と、必要以上の創作的簡便さ(安産)とが同居しているという、そんな不思議さが感じられるわけです。そして、私にとっては、安産も難産も、自己正当化の身ぶりのように感じられる。大袈裟なジェスチュアとして、また、回りくどいエクスキューズのようなものとして。 まず、安産の身ぶりについて言えば、驚くべき上記の早撮りスペックは、これまでのギドクの早撮り・低予算ぶりを十分に知る私たちファンをも唸らせるものとして、かなり戦略的に強調されたものだと言えます。そこで目配せされているのは、プリプロダクションの段階から同時多発的に話題を呼んでいた同胞たちのスペックアップ、ステージチェンジ(米資本・英語映画)にあるでしょう。言うまでもなくそれはパク・チャヌク(『イノセント・ガーデン』)であり、ポン・ジュノ(『スノーピアサー』)であり、キム・ジウン(『ラスト・スタンド』)らです。 前回のギドクについてまとまった記事でも触れたように、こうしたキム・ギドクの創作手法は、私はそれをことさら賛美はしないけれど、韓国内におけるキャリアパスの多様性を保つものとしていちおう高く評価しておきましたし、今もそう思っています。しかしここでは、堅持するポリシーや哲学を強化バックアップするものとして、露骨に仮想敵を想定しているとも言えるでしょう。 次に難産の身ぶりについて言えば、『アリラン』における隠遁が、実際にあのような映像として残されていることからも明らかなように、隠遁の本気度が問われてしかるべきという前提に拘った上で、聖霊と天使ガブリエルと受精卵とを自ら同時に兼ねつつ、申し訳なさそうに「産んでくれ」と懇願した上で再降を果たそうとする『アーメン』の手続きは、監督本人以外にとっての必要性が極めて希薄な、呆れるほど大仰なエクスキューズではないか。 しかし、隠遁の本気度が問われるなら、ギドクの病状の度合い、その重度も問われるべきです。つまり、呆れるほど大仰なエクスキューズを用意するキム・ギドクに、『アリラン』から脈々と続く単なる自己正当化だけを見て済ませてしまうのではなく、引き続き病状が重症であることを認識しておくことが重要だろうということ。 同じ処女懐胎でも、ミリアム・ルーセル(『ゴダールのマリア』)には、ゴダールの欲望に貫かれている分かり易い構図があります。ゴダールは健全なのです。 一方キム・ギドクは、ヒロインに対して極めて依存的だと言えます。こうした関係は、その瞬間ヒロインの子宮内膜に着床したであろう『嘆きのピエタ』(Pieta 2012)や『メビウス』の中で執拗に描かれる情緒的近親姦にも繋がるものだと感じます。 要するに、ファンとして見慣れたゲリラ的早撮りや捻じれた筋立てを捉えて、「ギドク相変わらずじゃん!」と安心したり呆れたりするよりも、上述してきた文脈から、自己への執着と陶酔、つまり、自己愛性のパーソナリティ障害がますます進行している事態を見ておくべきだし、それを正当化する手続きが長編映画としてギリギリの体勢を保った『アーメン』の中に凝縮されているだろうということです。 すでに『嘆きのピエタ』や『メビウス』に接した現時点から振り返って書いているので、いくぶん後出しジャンケン感が拭えません。また、すでにヴェネチアやフィルメックスで上映された最新作『One On One』(2014)が新機軸を打ち出していると言われている以上、ここで書いたことは"持続する"キム・ギドクにとっての、過去のある瞬間をムリヤリ記述したにすぎません。 しかし、分析というものは静止状態においてしか記述し得ないことを言い訳にしつつ、リハビリを兼ねた小さい実験作程度の理解で済ませて良いはずの通過点について、あえてイジワルな詮索をしてみました。 言いがかりのような内容ながら、むしろ自分としては、『嘆きのピエタ』や『メビウス』の流れに正直疲労を感じながら、それでも引き続きマジカル・ギドクから目を離すことはできない、くらいの意味合いで書いたつもりです。 #
by hychk126
| 2015-03-26 08:57
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ラース・フォン・トリアー監督『ニンフォマニアック』(Nymphomanic :Vol.I, Vol.II 2014) について、私が物足りなく退屈に感じられた理由を下記の二点に集約して、簡単に触れておこうと思います。
以下の私のネガティヴな意見は、(今回に限って言えば、)意外にも多かった比較的高評価な意見に対して積極的に反論したり、賛同を得るために他人を説得したいといった類のものではありません。 ご一読いただければ分かるように、悪しきファンの典型として、過去のラース・フォン・トリアー監督の作品に自分が惹かれた部分とのギャップによる不満を並べただけであり、『ニンフォマニアック』そのものの価値を問うものになっていません。(そのものの価値もあまり高く見ていませんがここでは細部に踏み込みません) 不満1.過激な売られ方に反する健全さ この映画は、ヒロインの社会適応性とその処方をめぐる冒険と学びの物語です。彼女は過去の罪の女たちと時空を超えて繋がることもなく、異端審問の場に立つことも、不条理な受難と成就をトレードすることもありません。ここにあるのはオドロオドロしさや驚嘆ではなく、この世界で生きること一般への有効性であり、ある種の健全さだと感じます。 [トリアー作品における罪の女モチーフについて] 不満2.作品の長大さに反するスケールダウン フライフィッシング、フィボナッチ数列、バッハのポリフォニー、この世の代謝を説明するチョット博識なキーワードは、知的好奇心を刺激するタイプのスマートなものであり、過去に垣間見えた芸術への豪奢的、蕩尽的な畏怖と憧憬、重鈍な信仰とは対極にあり、映像的にもセンスに物を言わせたな装飾的な感じが否めません。それはモチーフのスケールダウンであり、モチーフを余裕でハンドリングできている感じです。 [呪われた部分へと通じるあからさまな芸術信仰] 併せてここで指摘しておきたいのは、以上の2点をポジティヴの側に裏返すならば、つまり今回の変化を良い方に解釈するなら、「鬱三部作」の最後を飾るのに(解決編として)相応しいとも言えるということです。もっと言えば、自らの病やナチス発言を経由した監督本人が、(映画の中のヒロインと同じように、)生命の樹を発見し得たこと(精神的克服)をも意味するかもしれないということ。 それくらい普通に真っ当な映画として、さすがに4時間が退屈に感じられたということです。 ファンとして今後に絶望しているわけじゃないけれど、引き続き「何事かをやらかしてくれる」不穏な感じ、そうした期待が希薄化したのは確かです。 最後に付け足し程度の触れ方になりますが、ヒロインの父を演じるクリスチャン・スレーターが(汚れ含めて)すごく良かったです。 #
by hychk126
| 2015-03-18 20:48
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こちらから→[コンピュータグラフィックスは”鈍い意味”の夢を見るか 前編]
自ら欲望しても、CGの所産がその身には纏い得ないように思われる"鈍い意味"。ここでは近似の概念によってイビつに拡張され、すでにバルトの名を記すことさえはばかられます。いっそ表記も"鈍~い意味"くらいに変えておくべきかもしれません。 後編ではまず、主に実写映像との関係で見てきた"鈍い意味"をセルアニメとの関係で考えます。CGとの対比として分かりやすくセルアニメとしますが、彩色や撮影をデジタルで行うものも含めます。サザエさんがデジタルに移行した今、セル画に拘ることはほぼ不可能です。 大友克洋監督の劇場用長編アニメ『アキラ』は1988年に公開されました。CGは一部の効果を除きほぼ使用されていません。同時期のディズニー・アニメにおいても、『リトル・マーメイド』から『美女と野獣』へと、部分的なCG用途が徐々に拡大を見せ始める時期に当たります。(ディズニーを中心とした構造転換の背景はk.onoderaさんのブログ[『アナと雪の女王』少女を搾取するポップスター・プリンセス]に詳しいので一読をお勧めします) 90年代半ばには『トイ・ストーリー』など商業作品としての体をなしたフルCGアニメが続々と登場することを考えるなら、80年代の終わりというタイミングに繰り広げられるネオ東京の喧燥は、アニメーションをめぐるテクノロジーと産業構造の転換過渡期に打ち上げられた"カーニバル"であったのかもしれません。もちろんこれは言い過ぎで、実際には後の怪作『スチーム・ボーイ』(2004)のあの蒸気が手書きされていることからも分かるように、大友克洋という作家の偏執的な手書きへの情熱によるものだと言えるでしょう。 『アキラ』最大の見せ場である冒頭のバイク・アクションは、テールランプの鮮やかな残像を含め、手書きによるものとされています。 その時代における最先端のクオリティを見せつけるとは言え、本来CGの効力が最も美しく発揮される工業プロダクトとしてのモーターバイクのアウトラインが、手書きに起因するある種の"不完全さ"によって軋みを上げるのを見る時、そこから得られるスリルがなぜか有り難いものとして沁み入る一方、数少ないCG使用パートとして、超能力者のパターン・ウェーブのいかにも紋切り型なCG用途が思い起されます。あくまで今となっては。 アニメーションでは、クリエイターが全ての時間、全ての被写体を創造する以上、あらゆる瞬間の画面の隅々が意図的であると言えます。これはセルアニメもコンピュータ・アニメも同じです。 しかし相対的にセルアニメは、CGほどには全てが求心的に思われない、これは共通感覚としてある程度賛同を得やすい事実だと思います。 言うまでもなくそれは、押井守監督がアニメ作品の中に遠心的なショットを好んで導入し、物語に対して非貢献的な被写体への執着を見せるような、演出上の特異な例を言っているのではありません。もっと素朴に、上に見た金田のバイクの軋みの話です。 私は上で、それを「ある種の"不完全さ"」と書いてしまったことは、ひとまず留意しておくべきことです。 多くのアニメファンによってセルアニメへの愛が語られます。多くの場合それは、デジタル映像特有のテクスチャーに関するものであり、映画ファンがフィルムへの愛着を語るのに近いものがあります。 また、ほぼ全ての瞬間がキーフレームと言えるセルアニメでは、作品とクリエイターの繋がりがよりフィジカルなものとしてイメージされがちです。「使用セル数15万枚以上」という『アキラ』のスペックには、(物量においてディズニーの『白雪姫』に劣るとは言え、)良く分からないながらも私たちを惹きつけて共感させてしまう価値が感じられる。 こうした価値の認め方は、前回挙げておいた"祈りの痕跡"の問題にも近いものであり、デジタルよりもアナログを上位に置く価値観に基づきます。それは素朴であると同時に普遍的なもの。 こうした価値は必ずしも純粋なものとは言えず、"嗜好の問題"、"慣れの問題"、"無知の問題"などが含まれています。それでも普遍的なのは、私たちがコンピュータ・ピアノの自動演奏よりも生身のピアニストの演奏に価値を認めること、もっと言えば盲目のピアニストの素晴らしい演奏にそれら以上の感動を覚えてしまうことが、どうしようもないことだということです。需要者がそれぞれの出自を知るのであれば、需要している情報量は異なっているとも言える。 ジブリ鈴木Pが『アナと雪の女王』について語っていたように、CGであろうと手書きであろうと同じように人が作っているのであり、想像以上にアナログな作業が作品を支えているのだということ、手法を問わず優れた作品は観る者の心を動かすのだ、ということは正論であり、"無知の問題"をある程度戒めるものでもあります。 実際「使用セル○○枚」を武勇伝のように語るなら、エルサのドレスに駆使されたレイヤー数にだって驚くことは可能なはずです。 しかし、鈴木Pの語ることが正論なのは認めつつも、その語られ方をちゃんと読めば、結局は手間の多さを効率性の上位に置く姿勢に基づいていることに変わりはないわけです。 スタジオ・ジブリの『崖の上のポニョ』(2008)や『かぐや姫の物語』(2013)に至っては、ここで言うセルアニメに分類されるにも関わらず、アニメの作画としては本来描かない「動かない部分」までをも動画としての必要フレーム数描くことで、必要以上の非効率性を進んで引き受けています。そもそもアナログなものでさえ、さらなるアナログの効果が追求されているのです。 ちなみに、嗜好や慣れの問題について触れておくと、輪郭線が明瞭で平面的なものへの愛着は、浮世絵的ジャポニズムを源泉に持つのかもしれない、などと語られたりします。また、その裏返しとして3DCGの奥行を拒否する感情は、大澤真幸の言う反エクソシスト的嫌悪、つまり、正しい主体(人間の少女)が、間違ったこと(悪魔の言葉)を言う事態の不気味さの反転として、この場合、明らかに本物でないもの(CG)が、限りなく本物(現実)のように振る舞うことの不気味さへの嫌悪、に近い感情があるだろうと思います。 おもしろい題材ですが、ここではアナログ上位の価値観に吸収されるものとしておきます。 総じて、いまだに「CGは無機質である」という言われ方へと、傾向としては接近しがちです。 無機質を裏返しに言えば、アナログが感じさせるものは「人間的温もり」ということになります。それはフィジカルなものの相対量、非効率性と苦節への共感など、まるで手芸品のような経済価値の外側にある要素を伝搬させつつ、「味がある」とか「趣がある」とか、指示対象的でなく具体性を欠くもの、言語化困難だけどなんとなく理解し合えてしまうもの、つまり、ある種の"鈍い意味"的なものへと接近するでしょう。 しかし、こうして稚拙なボキャブラリーを尽くして語っても、すでに簡潔に結論づけられたものの周辺を無駄に戯れているようにしか感じられません。というのも、金田のバイクを語ろうとするならば、すでに「手書きに起因するある種の"不完全さ"」と語っておいたことこそが、簡潔であるだけでなく最も適切な気がするからです。 それは1秒あたりの描画数の問題であったり、時に十分には描出し切れていない奥行であったり、自在には動かないカメラワークだったり、好んでそのように目指された成果ではない。 自然な物語享受のプロセスにおいて、不自然なひっかかりとなるものの多くは"不完全さ"に端緒を持つ。これは理解しやすいことです。意図的な演出のもとに設計された画面にとって、意図せず紛れ込むなものは、その効用はともかくとして、"不完全なもの"であり演出の至らなさと同義です。 私がCGならこう言いたい。「"鈍い意味"だとか"非意図性"だとか"カーニバル"だとか、あげくに"味"だとか"趣"だとか、結局おまえが優位に置こうとするものは、単なる"不完全さ"のことのことなのか?」 半ば呆れ顔となるCGの言い分はもっともです。しかし、ここで語られているものが"至らなさ"に端緒を持つのだとしても、未だ見ぬ”意図の外部なる領域”への憧憬と欲望は、引き続きCGの内に秘められているのではないか。 前編で触れたピクサー・アニメーションのNG集にその発露を見るのは行き過ぎだとしても、セルシェーディングを始め3DCGのマチエールにアナログ的質感を装わせる技術の数多い存在から、効率性と"慣れの問題"の関係を解決する段階的対策としての意味以上のものが感じられるならば、何かが本末転倒なのです。 さて、『第三の意味』を出発点に長々と考えてきた"鈍い意味"は、"至らなさ"や"不完全さ"を大きく内包しつつあります。ひいては「味」や「趣」があると。こうしたことはすでに前編の段階から薄々感じられていたとは言え、あえて言葉にしてみることで議論が極めて低次元化してきた気がします。 - 小休止 - ♪ 「私も彼らのように「海は緑で<ある>、あの空の白い点はカモメで<ある>」と言っていた。しかし、それが存在していること、カモメが<存在するカモメ>であることに気づかなかった。ふだん、存在は隠れている。」 『嘔吐』(ジャン=ポール・サルトル 1938)の主人公ロカンタンが、「黒く節くれだった、生地そのままの塊」としてある公園のマロニエの木の根に存在の恐怖を見て嫌悪し、存在の意味の啓示を得るシーンの一節です。 「存在は隠れている」と語られるその場所は、そのものが担う役割や意味といった社会的コードの裏側だと解釈できます。 しかし、社会的コードの向こう側の存在に突き至るなど、私がそれをシミュレートしようにも(かつてモネの眼にチャレンジしたように!) それはきっと大きな困難です。世界が言葉によって分節されて認知されるという(ソシュール的)理解に立つなら、物になんらかの名前が付されている時点で、存在への到達は不可能に思える。 低次元化した議論にムリヤリ威厳を回復させるため、大サルトルや大ソシュールが持ち出されてしまいました。それが幾分大仰なら、次のように薄めておきます。 上に見た社会的コード(存在を隠蔽するもの)が、映画の中で与えられた役割に相当します。人、物を問わず、作られた小道具か自然のものかも問わず、通常、画面に写るもの全てが何らかの役割を担っているはずです。それは"第一の意味"と"第二の意味"に相当するでしょう。 では社会的コードによって隠された存在とは何か? 画面の中に写りながらも、役割を剥ぎ取られたもの、もしくは役割が行き届いていないもの、と言えそうです。つまり"鈍い意味"。 もう少し正確に言うなら、役割を剥ぎ取られたものが"意図的な鈍い意味"、役割が行き届いていないものが"非意図的な鈍い意味"です。 「映画では、事物はほとんど(言葉を話す人と)同質になり、生気と意味を獲得する。事物は人間に劣らず喋るので、そのため事物は実に多くのことを言う。これがどのような文学的能力も手のとどかぬところにある映画的雰囲気の謎なのである」、これは以前にも引用したベラ・バラーシュの言葉です。再度繰り返すと、バラーシュの論には先があって、そういった事物の雄弁さもまた、人間と関係している限りにおいてであるという人間重視の結論に向かってしまうのが残念です。 ここで「文学的能力も手のとどかぬところにある映画的雰囲気」が指摘されるなら、私はむしろ「<図らずも、事物が>生気と意味を獲得<してしまう>」と考えたい。これは、ロカンタンが受けた啓示を薄めた映画的一例です。 "至らなさ"、"不完全さ"に続いて、"図らずも"、"行き届かない"。確かにこうした要素はありきたりです。しかし同時に、そうしたものは長らく論じられ続けてきた息の長い考察要素でもあります。それはいまだ明確に定義付けられず、その評価においても曖昧なまま放置されている要素です。 曖昧である要因はおそらく、表現者の意図の有無が明確にされないまま、語り方しだいで良い方にも悪い方にも利用できる、といういい加減さにあるように思われます。 パゾリーニが『ポエジーとしての映画』の中で、「事物自体の持つ純粋で不気味な美のごときもの」と語るときの、"純粋"や"不気味"と表現されるもの、また「本筋とはあまり関係ないような部分についての異様なまでの固執」と表現されるもの、これらは社会的コードの向こう側に他なりません。パゾリーニ自身の映像作品が醸し出す、ザラリと喉通りの悪い感触は、まさしくそうしたものに寄るところが大きい。 パゾリーニの論では、自由間接話法というテクニカルな部分にスポットが当てられることで、"意図性"と"非意図性"をめぐる曖昧さは払拭されているとは言え、こうした概念は、私たちが映画の中に「事物自体の持つ純粋で不気味な美のごときもの」を感知してしまった時、意図の有無を問わないまま「これって"ポエジー"だよね」と受売り的に口にしてしまうことを許す概念でもあります。 ドゥルーズの"時間-イメージ"はさらに議論をややこしいものにします。 それは、戦後のネオレアリズモやヌーヴェルバーグを境に出現する概念です。つまり、それまでの感覚運動図式(運動-イメージ)では処理不可能な、「純粋に光学的・聴覚的な状況」が画面に現れる事態(時間-イメージ)。 なんとなく古いタイプの映画と、なんとなく新しいタイプの映画とを、極めて明瞭に差異化する概念の出現です。それはメッツなどの言語学的アプローチからは引き出せない、映画の独自性に基づいた美しい概念だと思わせます。「さすがはドゥルーズだ」と。 この「さすが」がアザとなります。"時間-イメージ"から多岐に派生する諸例を畳み掛けるドゥルーズの独壇場にはとても付いていけない。そして思うのです。「それって程度の差こそあれ、実写映像であれば多少なりとも紛れ込まざるを得ないものじゃないの?」 そのとおり、ドゥルーズが言わんとしているのは、そこにポンと置いて回せばひとまず何事かが写ってしまう、カメラというものの凄さのことでもあるのですね。 そういう意味で、"時間-イメージ"は新しいどころか「映画の前提」であるとも言える。"運動-イメージ"はそうしたカメラの凄さを演出によって排除し、意味を組織化しようとする力の方に位置づけられます。だから"時間-イメージ"が新しい(運動-イメージの後に置かれる)とするなら、それが積極的に画面の中に召喚され始めたという点においてです。 ドゥルーズは、作者の意図の介在について特段問い詰めようとはしません。そして、さきほどのポエジーと同じく概念の乱用を幅広く許すことになります。 フォード、ホークスの"運動-イメージ"に対して、クリント・イーストウッド独特の緩慢な身体が、時にだらしなく見える画面の中に置かれるとき、それが醸し出す比類ない雰囲気は、天然の手クセなのか、"時間-イマージュ"なのか。こうした語られ方がなされてきました。 散漫に感じられる画面、逸脱的要素への執着、イーストウッド周辺のこうした事態に言葉を尽くす価値があるのは当然として、明らかに未熟なアマチュア映画特有の画面のだらしなさはどうなのか。演出の行き届かない画面上の部分的な"緩み"、意図せず画面に紛れ込んでしまう想定外のもの、不自然な間を生むショットの持続時間、こうした目指されたわけではないものとの関係はどうなのか。 こうした問題に目配せしないままドンドン進むドゥルーズは、明らかに拡大解釈的です。しかしそれは、映画を作り手の意図から需要側の解釈に取り戻す姿勢として、間違ったものとは思われないのです。 少し長くなりましたが、"至らなさ"や"不完全さ"は、議論を低次元化させるどころか、"鈍い意味"の濃厚な構成要素としてキチンと把握しておく必要があることを、大袈裟な署名を連ねつつ確認してきました。 前編で幾人かの論者の概念を借りながら、芸術作品の本質を、意味(組織化)だけでなく、余剰(逸脱)だけでもなく、「相対する諸力の関係性の中にこそ位置づけられるもの」と理解しておいたことを思い出すべきです。それは程度の差こそあれ、優れた芸術作品は妥協的産物に他ならないということです。 ますますCGの所産からはこうした議論が熟成しようがないように思われる中で、CGもさきほどのように呆れ顔でいることはできないはずです。引き続きそれを欲望こそしても。 強引に言うなら、前編で見てきた数々の例もまた、そこに"不完全さ"を内包していると言えるでしょう。 『イワン雷帝』の戴冠式における廷臣のメイクや髪型などは、エイゼンシュタインの装飾趣味が好んで召喚する"不完全さのニュアンス"であると言えます。 また、壮大なモブ・シーンや命懸けのスタント・アクションも、需要者にとってそれが繰り返し可能なものとは考えられず、非効率なものの苦節の一端が感知されるのなら、その時需要者が画面に見ているものは、そこに写っている見事な成果だけでなく、その裏返しに存在している"不完全さ"をも同時に見ているのではないか。 もちろん"不完全さ"にも一括りにできない諸々の原因があります。特異ながらも身近な例として、時間の経過とともに醸成される"鈍い意味"を挙げることができます。当初こそ組織化に貢献的であったはずのものが、しだいに非意図的なものへと変化する事態、簡単に言ってしまえば陳腐化のことです。 正確に言えば、変化しているものは、画面に写る具象ではなく、需要側の眼であり意識です。画面上のものはそれに抗うことはできません。 『ベン・ハー』の海戦シーンが伝えるのは、主人公を見舞う波乱万丈のエピソード(第一の意味)であり、ガレー船の意匠や奴隷たちの存在が垣間見せる紀元前ローマの放蕩ぶり(第二の意味)です。さらにもう一つ、ミニチュアからリアリティとスケールを引き出そうとする表現者の意匠とその限界があります。そのニュアンスは時間の経過によって変化します。私は、それがあまりに大きいノイズとして許せないのではなく、受入れることができます。理由は、50年前の古い映画だからです。 "古いから許せること"。それは"鈍い意味"の一構成要素であり、"不完全さ"のバリエーションです。最初に見た金田のバイクも、結局ここに含まれます。 例えばD.W.グリフィスのメロドラマや、フリッツ・ラングのSFについて、そこで扱われる主題や事件を「現在の私達にも通じる普遍性を持ち得ており、云々」と語ってしまうことは、尤もながらも退屈な説明に感じられます。 名作としての普遍性を語るなら、これも以前書きましたが、前提としてゴダールの『フォーエヴァー・モーツアルト』で引用されるオリヴェイラの言葉を思い起こすべきです。「私は映画のそこが好きだ。説明不在の光を浴びる壮麗な徴たちの飽和。」 「そこが好き」と言われる"そこ"では、全ての映画が土俵を同じくしているのであり、題材の通俗性や、時代の古さはどうでも良いということです。そこでは、"古いのだから許せる"などといったハンデは必要とされない。 そうした意味で、グリフィスの直情的なメロドラマ性は"古いから許せる"のではないし、ラングのSFも言うまでもなく名作です。 そうした前提とは別次元で、画面にはやはり昔の映画だからこそ許せる要素が写っているはずです。 それが私たちの住む社会の未来を描いているのなら、当時としては予測し得なかったことに起因する、現実離れしたギャップが存在するでしょう。また、高層ビルが林立するメトロポリスは、それが絵やミニチュアであることが画面を通じて時に露骨に伝わります。必ずしも独創的なデザインや想像力の素晴らしさの価値を貶めるものではないこれら"古いから許せること"は、「組織化に直接貢献しない画面上の具象」であり、"鈍い意味"の一員です。 ハリーハウゼンが手掛けるストップモーション・アニメには「味」や「趣」があります。現在の観客がシンドバットの冒険に純粋に手に汗握ろうとするなら、襲いかかる6本腕の陰母神カーリーの動きは"亀裂"になり得ます。それは "古いから許せること"ですが、もちろん人によっては許せないかもしれません。 カーリーの動きは、同時代の意図によって不完全なのではなく、時間の経過とともに"鈍い意味"が醸成されてしまったということです。 『2001年宇宙の旅』のように、40年分のハンデをほとんど必要としない例外も存在すれば(スリッドスキャンの光の洪水など、部分的なハンデは必要ですが)、わずか5年前の映画の画面に"古いから許せること"が写り込むことがあり得る。これはどうしようもないことです。 長く続いた記事の中で、"不完全さ"を経由して"古いから許せること"に至ったのには意味がありそうです。つまり、CGがどうしようもなく欠かざるを得なかった"意図されない領域"は、遂にココにこそ見つけることができるのではないか? 91年当時、『ターミネーター2』に登場する液体金属製アンドロイドT1000は、その自在な擬態を支えるCG(モーフィング)技術によって、私たちの度肝を抜きました。 さらに遡ること10年、世界初の本格的なCG導入作品と言われる『トロン』(1982)は、当時「コンピュータを使用した映像は卑怯」と言わしめるほど斬新なものでした。 CGだから実現できるユニークなアイディアが劇中で果たす役割には、今もきっと人を興奮させるものがあります。しかしCGの所産そのものについて言えば、陳腐化へと向かう経過の中に確実に位置づけられます。これはデジタル技術にとって抗えない宿命です。 そして、ある種のパロディや異化が目指されるのでない限り、陳腐化は意図されたものではありません。それは、当初意図されていた驚きとは幾分異なる意味において、私たちの興味を鈍く引きつけることになるでしょう。 CGが欲望してきた"意図されない領域"、CGがその身に纏いようがなかった"鈍い意味"、その探究の結末は、どこか悲劇的です。 「CGは"鈍い意味"の夢を見るか?」 考えられる結論の一部でしかないとは言え、ひとまずの答えは実にやりきれないものです。 CGが製作者の意図から逸脱し得るには、条件として、時間の経過と需要側の眼と意識の変化を必要とします。そうして、他力本願ながらもやっと獲得されたかに見える"非意図的なもの"、夢にまで見たそれは、"古いから許せること"、つまり陳腐化のことでした。それは望まずとも、むしろ否が応にも向こうからやってくる抗えない宿命。また、身に纏うようなものでは決してなく、未来から見た過去の自分自身の存在に他ならなかったわけです。 最後にもう一度、書き始めに置かれていた前提を思い返すべきです。それはCGにとって、些細なことかもしれないし、そもそも必要性がないかもしれないことです。夢を見させたのは私の誘導にほかなりません。 そして、ここまで書いてきたことはおそらく、価値の置き方をまるまる反転させることが可能です。映画におけるCGの可能性、表現のみならず経済価値まで含めたその真価を、今ここでいちから語り直すのは大変な労力と時間が必要です。それができるまでは、ひとまず本稿を逆に読み換えるだけで十分だろうと思うのです。 → [補足] #
by hychk126
| 2014-10-02 21:30
| 映画
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ブームに半年以上で遅れて、先日やっとウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオによる3Dコンピュータアニメ『アナと雪の女王』をビデオで観る機会を得ました。 その内容について語ることはすでに機会を逸した気がしますので控えます。また、いちおう成熟した大人である自分がたいへん楽しく観ることができたことは前提として以後繰り返しません。 が、とにかく、コンピュータ・グラフィックス(以下CG)の技術的な達成に目を見張れば見張るほど、そこで達成し得ていないことに思考が向かってしまうのが人の常、万能であるほどに"できないこと"にイラ立ちを覚えてしまうものです。 ここで言う"達成し得ないこと"は、『アナと雪の女王』が達成すべきことでもなんでもありませんし、ここで取り上げようと考えている映画作品全般におけるCGの役割にとっても、達成の必要性など無いかもしれないことです。それはたぶん"些細なこと"とも"決定的"とも言える気がすること。要するによく分からないことです。 今回の投稿は事前に結論を用意せずに書き始めていますので、以下議論を深める中で考えてみたい。 コンピュータ・アニメーション作品のみならず、通常の映画の中でも効果的に、ときに大胆に使用されるCGは、まるで本物のような情景や人や物の存在感を形作ります。その技術的成果は、映画作品に対しておよそ次の二つの意味において優れた貢献を示します。 一つ目は情報伝達・コミュニケーションのレベルです。物語の進行を需要者に理解させるものがこれですね。 二つ目は演出によって生み出される象徴的なレベルです。一つ目よりは間接的ながらも、メタファーとして需要者に伝えるべきものを指示対象に持ちます。 これら二つのレベルは、作品を通じて物語を需要するうえでの極めて一般的な素材的要素だと言えます。 さて、以上の二つの意味において貢献するということはつまり、これら二つの意味を超えたところでCGが作品に貢献することは極めて難しいだろうということです。 すでにお分かりの方も多いと思いますが、上の二つの意味は、ロラン・バルトの『第三の意味』(「カイエ・デュ・シネマ」誌掲載 1979)の中で語られる"意味のレベル"に準えたものです。『第三の意味』の中でバルトは、『イワン雷帝』(セルゲイ・エイゼンシュタイン 1944)で描かれる戴冠式のフォトグラムを例に、三つの意味のレベルを読み取っています。上で触れた二つの意味は、その"第一の意味"と"第二の意味"に相当するわけです。 『イワン雷帝』の例に簡単に触れておきたいと思います。 まず第一に、画面に写っている舞台、衣裳、登場人物らの関係が物語の中に戴冠の儀式を組み込むことを可能とする、情報伝達のレベルが確認されます。次に、画面上部から降り注がれる黄金が、富や権威などの意味を伴って介入してくる象徴的意味作用のレベルが確認されます。ここまではCGが貢献するものとしてすでに上でも確認した二つの意味です。 これら二つのレベルを指摘したバルトは、これで全てかどうかを自問しながら、自分がそのイメージを明らかに捉えているにも関わらず、先の二つのレベルでは汲みつくせていない不安定かつ執拗な意味を見出します。 それが第三のレベル、物語的な意味を逸脱する"意味形成性"のレベルです。具体的には、二人の廷臣の不揃いなメイクの濃さや、カツラであることを窺わせる不自然な髪型など、「言葉にし難い具象の魅力」とでも言えるものであり、バルトはこれを"鈍い意味"と呼びます。 しかし、"意味形成性"(シニフィアンス)とはまた非常に難解な言葉です。バルトはいくつかの言葉を選びながらも「この第三の意味を読み取ることが正当化されるか」「この意味が一般化され得るのか」を考えます。要するに第三の"鈍い意味"は極めて言語化困難であるということですね。 挙げられている例が強烈で解りやすい(エイゼンシュタイン!)。もしあなたがエイゼンシュタインの作品のいくつかを知るのであれば、その画面に溢れ返るいくつもの「言葉にし難い」ユニークな演者の顔を思い浮かべることが可能だろうと思います。もしそれが、単純にプロレタリアートの貧困と苦悩を指し示したり、ブルジョワぶりを暗に表現しているだけならば、それらは"第二の意味"に吸収され、たちまちそのように語ることが可能となります。 しかしエイゼンシュタインの映画を知る人なら、第二の意味に吸収され尽くすことのない「なんとも言えない」ニュアンスを執拗に醸し出す、それこそ一度見ると忘れることができないような顔の一つや二つを、想い起すことが可能なのではないか。(そもそもエイゼンシュタイン本人の顔自体が言語化不能なニュアンスを放ちまくっているという事実はここでは関係ないものとします) 分節言語による内容説明を介することなく、「なんとも言えない」というノリ一発で、おそらく幾人かのエイゼンシュタインの映画を知る方々とは、今この瞬間かなり具体的なニュアンスを共有できてしまっている気がします。そういう意味で『第三の意味』が提起するものは、当時の唯言語主義(言語なくして世界なし)に一石を投じるものでさえありました。 「映像の中にあって純粋に映像であるもののおかげで、われわれはパロールなくしても互いに理解しあいつづけてゆく。」 こうしてバルトが"鈍い意味"を通じて目指すところは、いくぶん壮大なゴールとなるわけですが、ここではそこまで踏む必要がないのでこれ以上触れません。とにかく、情報伝達や象徴の意味から逸脱する"鈍い意味"なるものが映像の中に存在するということに留めておきます。 そして、CGが生み出す効果にとって、"些細なこと"とも"決定的"とも言える気がすること、そもそもそれが必要かどうかさえ判然としないもの、それはつまりここで言われる"鈍い意味"に、ひとまず近いものだと言うことです。 現実には存在しない架空の情景やモンスターの造形、生身の人間には到底不可能なアクション、エキストラの動員が不可能な規模のモブシーン、そうしたものを驚くほどのリアリティで画面に実現するCGの技術的達成は、第一のレベルと第二のレベルに対して優れて貢献的です。普通に物語を需要するうえでは必要十分とも言えるこの二つの意味を研ぎ澄ます手段として、CGの存在はいまや不可欠な素材的要素だと言って良いでしょう。 一方、CGが第三の"鈍い意味"を発現させることはやはり困難なことのように私には感じられます。この困難を明確なものにするために、ここで、"鈍い意味"の概念を、ムカジョフスキーの"非意図性"に引きつけて少しアップデートしておきたいと思います。これらは近似の概念です。 バルトが"鈍い意味"に引用した例は、「エイゼンシュテイン的わざとらしさ」「取るに足らぬものへの執着」と語られるように、製作者(エイゼンシュタイン)の意図によってある程度操作されたものと考えられていたことが分かります。しかしそれは、「意図されることなく映像紛れ込むもの」に接近し、ときに意図の有無が判別できないものであるとも言えるでしょう。また、そうしたものこそがより一層「言葉にし難い具象の魅力」を放ち得るように思えるのです。 "鈍い意味"はそのとき、「意図されたわけではない線や色彩、表情、テキスチャなどの素材が、ストーリーの言わば"同伴者"となるような領域」に宿ります。つまりCGが造形するものには、こうした「意図されない領域」など存在しようがないのではないか、ということですね。 上の画像は、ピクサー・アニメーション・スタジオのコンピュータ・アニメーション『レミーのおいしいレストラン』(ブラック・バード,ヤン・ピンカヴァ 2007)に登場する料理評論家イーゴです。もちろんCGによって造形され、動きを与えられたキャラクターです。 イーゴのユニークにデフォルメされた表情の中に、さきほど私がエイゼンシュタインの作品に登場する顔を例とした言語化困難なニュアンス、つまり"第二の意味"に吸収しきれない「なんとも言えない」ニュアンスを感知する人がいるかもしれません。 イーゴの顔が大好きな私について言えば、あくまでそのニュアンスは指示対象的であると感じます。つまり威圧的な権威と同時に、主人公に「あなたは料理が好きなわりに痩せていますね」と言わしめるものが、深いところから理想的に表れているからです。 そうした素晴らしさは、あくまで"第二の意味"において素晴らしいということです。しかし同時に、"第二の意味"と"第三の意味"がときに極めて近しい接近を見せることはあるわけです。 おそらくそれは、製作者の意図の存在、つまり、それをそこに、そのような状態で配置することの明確な意図が存在しているのであれば、"鈍い意味"は漠然と指示対象を持つこととなり、"第二の意味"が持つ隠喩性に限りなく接近するだろうと考えられます。 バルトの言う"鈍い意味"を"非意図性"によって拡張しておきたかった理由はここにあります。"鈍い意味"を製作者にとって意図的であるものに限定して考えるなら、CGは、隠喩に限りなく近い"鈍い意味"を、困難ながらも発現し得るはずです。それは現実との境界線を消失させる超写実的なCG映像が巷に溢れる現在、不可能なこととは思えません。 しかし「意図されない領域」を欠くCGにとって、"非意図的"なものとして現れる"鈍い意味"とは、やはり絶縁の関係にならざるを得ないのではないか。 3DCG制作工程においてレンダリングされた画像をレタッチしないまま放置する、まさかそんなところにCGにおける「意図されない領域」や「指示対象を持たない意味形成性」を求めるわけにはいかないでしょう。 CGの技術的達成がどうしても達成し得ないこと、繰り返すと、それは"些細なこと"かもしれないし"決定的"なことかもしれないし、そもそも達成の必要性があるのかどうか分からないもの。 CGがそんな"鈍い意味"をその身に纏うことの困難を、ときにコンピュータ・アニメーションがあまりにもサラリとお茶漬けのように観賞できてしまうことの一因として、ひとまずそう考えておいて先に進みます。 "鈍い意味"には類似する概念が多くあります。同じように映画について言えば、例えばパゾリーニの言うところの"ポエジー"(ピエル・パオロ・パゾリーニ『ポエジーとしての映画』1965)や、ドゥルーズの"時間-イマージュ"(ジル・ドゥルーズ「シネマ1, 2」 1983-1985)もまた、水平方向に進む意味の進行に対して、垂直方向の亀裂として意味への非貢献性を顕在さしめるという点で、近接する概念だと言えます。 そして映画に限らずとも、さきほど挙げておいたムカジョフスキーの"非意図性"や、ヒースの"余剰論"、さらにはバフチンの言う"脱中心的なもの"など、(このあたりは急遽調べた付け焼刃の知識になりますが、)どれも近似の概念と言えそうです。 --- 物語に無関係な物質的・素材的要素としての余剰論(≒第三の意味)。統一的構造を目指す"求心力"(≒第一,第二の意味)に抗する脱中心的「遠心力」(≒第三の意味)。統一された意味としての作品理解の努力を挫折させる「非意図性」(≒第三の意味)。--- 文学、美術、音楽、演劇、ダンスなど、映画に限定されないあらゆる表現において、意図性と非意図性、もしくは意味に向けて組織化される要素とそれを逃れる要素、これらの弁証法的緊張関係が語られてきたことが分かります。そもそも"鈍い意味"について語られた"意味形成性"(シニフィアンス)という言葉もまた、象徴秩序と欲動的快楽の衝突の場のこととされています。 「構造体の外側に横たわっていて、作品のもつ統一化の力に囲みこまれていない側面」(トンプソン)。つまり、統一された意味への組織化を目指す力に対抗して存在するノイズであり、カオスのようなもの。 そして、こうした力のどちらか一方だけが重要なのではなく、優れた芸術作品は、こうした諸力の関係性の中にこそ位置づけられるということが、バルトのテキストを待つまでもなく語られてきたわけです。 そして、こうしたノイズやカオスの知覚こそが、需要者側の能動性(作品への積極的参加)を最も必要とする要素である、とムカジョフスキーは指摘します。こうした論点は、その非意図性が本当に意図されたものでないのかどうかは別にして、ドゥルーズが運動と時間のアプローチにおいて映画に大きく境界線を引く身振りにも接近します。 いくつかの概念をツラツラと並べ立ててきましたが、本質においてはやはり近似のことが語られているように思う。 ならば、ひとまず"鈍い意味"を寄せ付けないこととしておいたCGの所産は、製作意図に対して秩序的に従うことで、観客の能動性(の必要性)をことごとく削ぐように機能する、ということも言えるのではないでしょうか。 観客の能動性を必要としないのは、CGには意図の外側にこぼれおちるものがないから、意味に向けて組織化する力に抗するカオスが存在しないから。それを強みと見るか弱みと見るかは別として、上のほうで書いたように"サラリとお茶漬けのように"消費できてしまうのは、おそらくこうした受動性の意味においてなのかもしれない、と引き続き頷いておきます。 ここまで見てきた文脈から考えると、ピクサーのコンピュータ・アニメーションの幾作かのエンドロールが、フェイクのNG集によって彩られてきたことが感慨深いものに感じられてきます。キャラクター達はきっとアクシデントを欲望していたのだ、とはさすがに言い過ぎですが、CGキャラクターの意図されたアクシデントに象徴的なものを感じつつ、以下、微妙に角度を変えてもう少し議論を横に広げてみたいと思います。 「まるで本物!」と驚嘆されるリアルなCG映像がある一方で、「まるでCG!」と驚嘆される現実離れした実写映像があります。現在では両者の境界線がほぼ消失しているがゆえに、「CGでは味わえない、本物の迫力」などと自らの出自をいちいち宣言する売られ方が根強くあります。そこには本物の側の価値を差別化しようとする意思があります。 需要側としても有り難く拝んでおきたいそうした価値が存在するのは事実ながらも、限りなく消失する境界線において描かれている内容が仮に同じものであるなら、情報伝達のレベルや象徴のレベルにおいて認められる差異はほとんどないにも関わらず、それでも存在するこの意味(価値)は、上に見てきた"第一の意味"と"第二の意味"では汲みつくせない余剰の一種と言えるのではないか。 『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズ(ピーター・ジャクソン 2001-2003)と『アラビアのロレンス』(デヴィッド・リーン1962)における壮大なモブ・シーンを比較するとき、必ずしも優劣では語り得ない決定的な差を誰もが感じます。「CGでは味わえない、本物の迫力」と有り難く語っておきたい価値が、『アラビアのロレンス』にはあるわけです。 制作された年代とその内容から『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのモブ・シーンがCGに出自を持つことを知る私たちは、そのシーンが意図どおりに組織化され、物語に対して無駄なく貢献的に収斂することを感じるでしょう。一方、CGではない本物のスケールを誇る『アラビアのロレンス』には、本物であることの価値が発現します。それは、実際に数千人規模のエキストラをカメラの前に配置すること、その困難と達成、やり直しの利かない一回性のようなものが需要側の意識に伝搬し、慄きに近い情感を喚起させることに起因するものです。 命懸けのスタント・アクションや、100回やって1回成功するかどうかの曲芸の、その1回をカメラに捉えることも同じだし、『イントレランス』(D.W.グリフィス 1916)のバビロニアや『ベン・ハー』(ウィリアム・ワイラー 1959)の競馬場のオープンセットに見られる大伽藍的豪壮さ、またアンゲロプロスが「本当に」村を水没させ、コッポラが「本当に」ナパームでジャングルを焼き払うこと、こうした破格のスケールや希少性は、明らかに非効率的なものであり、その非効率的消尽ぶりによって需要者を圧倒します。 "鈍い意味"のように、CGから発現することが困難に思えるこうした価値、私はそれを、"鈍い意味"と同じとは言わずとも、情報の外に広がるカオスの側の一員であるように思うのです。 このような情感喚起を仕掛ける要素が収まる場所はどこなのか。一見するとそれは、余剰なものとして分類することを躊躇させます。それはスペクタクルとして映画が普通に内包してきたものであり、スケールを表すものとして情報伝達及び象徴のレベルに収まるかのようではある。 しかし、上の例のように、多くの場合は画面に写っているものの出自(CGではない本物)が自明であるとは言え、出自の境界線が消失し得る事態において厳密に言うなら、「正しい出自を知る」ことによってしかその意味(価値)は現れてこないことになります。つまりこの価値は、画面には写っていないことになる。 『ダークナイト ライジング』(クリストファー・ノーラン 2012)のクライマックス。バットマンは飛行型戦闘機バットに搭乗して活躍します。全てのショットではないまでも、CGではない実物大のバットが本当に人を乗せて浮遊していることを知らされることによって初めて、慌てて手を合わせて拝みたくなる有り難さがあるのです。 こうしたことは、以前記事にした[1Q82]の中で書いておいたこととも関係します。 そこで私は、CGの技術的進歩と映画への最新技術の導入を歓迎しつつも、SFX(主にカメラの前に造形される特殊効果)の技術者の署名と、VFX(主にポストプロダクションにおいてデジタル加工される視覚効果)の技術者の署名とを比較したとき、明らかに後者について無関心になってしまった自分を嘆きました。また、テクノロジーの勝負の場がポストプロダクションへと移行することを、大袈裟に"祈りの痕跡の希薄化"とか"武勇伝の喪失"などと呼んでおきました。 ポスプロとして駆使されるVFXにも当然ながらプロフェッショナルな技巧が存在するにも関わらず、その所産が仮に自ら欲望しようとも、身に纏うことができない余剰が存在するということ。 こうした情感喚起の価値が「画面に写っている具象」そのものとは言い難い以上、"鈍い意味"を拡張適用することは控えておきます。 こうしたものはむしろ、カーニバル論(バフチン)として考えたほうがシックリきそうです。それは非効率的なものであり、浪費であり、美学的カテゴリーに無関心なカーニバルの側にあるもの。つまり「文化、知識、情報の外側に広がるもの」です。 情報の側から言わせればそれはやはりカオスの側にあるものだし、いっそ"如何わしいもの"といってしまって良いかもしれない。おそらく"鈍い意味"も"カーニバル"に含めることが可能でしょう。 "鈍い意味"にしろ"カーニバル"にしろ、CGから発現しようのないものは、引き続き情報や象徴の外側にあるものだということです。 ここまで確認してきたうえで、再三ですが、『アナと雪の女王』が"サラリとお茶漬けのように"消費できてしまったことをもう一度考えるなら、さらに説明を強化することができそうです。つまりカーニバル的要素が無かったのだと。上の文脈をご理解いただければ分かるように、「恋と歌と冒険ファンタジー、それこそカーニバルじゃねーか!」ということではもちろんなく、要するに"ひっかかり"が無いのですね。 こういう補足はいちいち付け加えたくないですが、念のため、これはドラマとしての深みに欠けるということではありません。そこで描かれている姉妹愛はもちろん、技術的な難易度の高さがうかがわれるエルサのドレスや雪の結晶、氷粉の描写、さらにはハンス王子の鏡のモチーフをめぐる読まれ方まで、これら全部ひっくるめて、情報伝達と象徴のレベルに折り目正しく収まっている、ということです。 私はここで"些細なこと"かもしれないある種の限界を探っていますが、そこに優劣を見る気は一切ありません。だからカーニバルに必要以上の高い価値を認めているわけではないのだけど、しかし仮に、「子供の見るファンタジーに逸脱的な"ひっかかり"など必要なのか」、という問われ方があえてなされるなら、こちらもあえて「カーニバルを隠蔽したものばかりで子供たちを取り囲んで逆に心配じゃないのか」、とは言っておきたい。 以上、ここまで見てきたCGが背負う困難なるものは、"意図されないもの"だとか"画面に写っていないもの"だとか、CGに言わせればきっと「そんなオカルト的なもの知るか!」と吐き捨てたいはずのものです。何かがアンフェアな気がする、とも感じているはずです。これはCGにとって受難なのです。 文字数制限のため投稿を割ります。後編では、できれば反撃の機会を与えることができればいいなとは考えていますが、いましばらくCGの言われなき受難は続きます。 → [コンピュータグラフィックスは”鈍い意味”の夢を見るか – 後編] へ #
by hychk126
| 2014-09-26 23:30
| 映画
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谷崎潤一郎の小説『少将滋幹の母』 (昭和24年)は、『鍵』や『瘋癲老人日記』と並ぶ戦後代表作のひとつです。この時期では私個人的に最も愛する谷崎作品であり、映画化への期待も長く募っていますが、国内外で映画化の噂は耳にするものの、残念ながらこれまで実現していません。(舞台やテレビドラマ化はされていますがいずれも未見) 物語は、老齢の大納言国経が、若く美しい妻北の方を左大臣時平に奪われる(譲り渡す)という、実に谷崎好み(というか作者の実体験に近い)と言える『今昔物語』の史実をもとにしています。 描かれるのは大きく三つの話です。一つ目は、老いた国経の美しい妻が略奪(譲渡)されるエピソードを王朝絵巻の絢爛を背景に描きます。見せ場としてのクライマックスはこの前半に置かれていると言えます。二つ目、物語から壮麗な色調が消え、妻を失った国経の諦念とグロテスクな不浄観(白骨とウジ)が描かれます。三つ目、再び物語は色調を変え、成長した滋幹(国経と北の方がもうけた一子)の母への思慕と再会のエピソードが透明感あふれる光の中に描かれます。 物語の中心となる北の方は、類い稀なる美女です。本来その美しさは、女性の肉体を崇拝し、その快楽を追求するために「漢語・雅語から、俗語や方言までを使いこなす端麗な文章」を駆使する谷崎の筆致によって細緻に描出されるはずのものです。 しかし『少将滋幹の母』では、北の方が類い稀なる美女であるということ以上の様相表現、性格描写を行いません。それは空虚な美として、周囲に渦巻くの男達の色欲や不浄観との相互補完的なコントラストを形成します。 およそ以上のような内容を持つ『少将滋幹の母』の映画化が実現しません。私はそれを嘆くと同時に、映画化が困難を極めるであろうことも十分想像できます。それでもしかし、企画中との噂のあったベルナルド・ベルトリッチ&ヴィットリオ・ストラーロの理想的なコンビは、上述した色彩変調をこちらの期待を超えて実現してくれるはずでした。 やはり問題は、滋幹の母=北の方です。 北の方の"類い稀なる美"を捉えるのは、フル・ショットかロング・ショットを原則とすべきだし、寄ったとしてもフルフィギュアであるべきです。仮にクローズ・アップを許すなら、それは顔ではなく手などの体の一部です。 そして私たちが映画館を出た後、北の方の"類い稀なる美"を最も雄弁に象徴する明媚な顔を思い起こそうとしても、画面に映っていたはずのそれは光の中に溶けてしまい、まるで日傘を持つモネ夫人のようにうまく像を結んでくれない、これが私の理想なのです。 フルフィギュアで捉えられるモネ夫人の顔に留まらず、もう少し過激に言えば、例えばムンクが描く女性たちのように、口づけできる距離に彼女がいるにも関わらず、つまり画面に映ることが積極的に選択されているにも関わらず、きっと美しいはずのその表情が、なぜか模糊として有耶無耶であるという奇っ怪な事態さえ望まれます。 これは谷崎の筆致が創造し得た、怪態と言って良い"美"への映像側からの挑戦です。...がしかし、これを映像でやると単なるモザイク処理になってしまうんじゃないか。 実際の撮影では、極力画面から北の方の顔を隠蔽しつつ、男達の浅はかさを通じて間接的にその美を描くことが目指されるのではないかと思います。しかし、原作に忠実な正攻法を映像に適用したとき、出来上がった映画が観客をフラストレーションで押し潰すであろうことは容易に想像できます。 かと言って、私が理想とするところのものはすでにオカルト的であり、王朝絵巻はホラー映画に接近してしまうことになるでしょう。これは困難な問題です。 過去の『少将滋幹の母』映画化の挫折は、少なくとも企画者側に芸術を世に問う最低限の資質があったならば、この困難も要因の一端にあったはずだし、またこの困難に魅せられたことこそが、企画立ち上げの要因の一端でもあったはずです。 困難の克服を模索してみます。ひとつは、例にひいたモネの絵が答えを与えてくれています。 そこに描かれたカミーユが"顔なし"なのは、逆光だったり印象派独特の筆致のせいだったりしますが、なによりも風に舞うヴェールのせいです。北の方であれば、当時身分の高い婦女子が顔を隠すために身に付けた衣被(きぬかづき)ということになるのでしょう。 絢爛たる色彩に溢れた『少将滋幹の母』は、こうして"類い稀なる美"を包む透過性の美しさを得ます。両義的と言える半透明の美は、時に目まぐるしい色彩変調の中に、静かな一貫性を与えることになるでしょう。 しかし、モネの例だけではやはり不十分です。それは優等生的な答えであるかもしれませんが、あくまで隠ぺいする姿勢であり、たまたまその効果を美学的に利用できているに過ぎません。より過激な例としてムンクの例を挙げておいた以上、その困難は解決されるべきです。 と、強く出ながら正直良い方策が思い浮かばないのですが、上に書いたこの困難はしかし、困難自身がすでにひとつのヒントを与えてくれているとも言えるのです。 つまり、『少将滋幹の母』が、北の方の美しさを通じて、ホラー映画に接近してしまうことがそれほど間違ったこととは思えない、という意味においてです。 #
by hychk126
| 2014-08-28 17:58
| 芸術
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