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吉田喜重監督の映画『嵐が丘』(1988)は、エミリー・ブロンテの同名原作小説(1847)の舞台を、19世紀のイングランドから日本の鎌倉時代に置き換えた文芸時代劇といった趣きの翻案作品だ。ロマン主義的な大河小説であり背徳的なゴシック小説でもある原作の濃厚で複雑な物語世界を、日本の古典芸能に導かれた極端に様式化された作劇によって映像化するという企てそのものは、必ずしも独創的なアイディアだとは言えないだろうが、それでも原作の優れた翻案として私が強く興味をひかれ、かつ吉田喜重監督らしい攻めの強気を最も感得することができたのは、主人公ヒースクリフが亡きキャサリンの墓を暴くという行為の意義付け、つまり、ヒースクリフ=鬼丸=松田優作が、キャサリン=絹=田中裕子への尽きぬ想いとその肉体への執着を、不浄観において克服しようとするくだりにある。
映画の主人公鬼丸は、松田優作という稀代の個性によって演じられているものの、おそらくは演出の意図もあって、押し並べて単純化された粗暴なだけの個性として描かれている。映画の前半は、松田優作のただただ苦虫を噛み潰したような表情が見ていて退屈でさえあるのだが、それを補って余りある田中裕子の無垢のファムファタルとでも言うべき神がかり的な美しさが、画面を価値あるものにしてくれる。 やがて、粗暴なだけの鬼丸の没個性性が、体の奥底から突き破られるかのような瞬間が訪れる。絹=田中裕子との別れを経て、やがて絹の死を知り、鬼丸自らの手によって掘り起こされた棺の中の彼女の肉体が、鬼丸とわれわれ観客の眼前に晒されるシーンがそれだ。 ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム』(1957)を参照するなら、腐敗の途上にある死者の肉体の存在はカオスであり、生者に対する暴力である。不用意に口をつく呻きから、やがて天を衝く叫喚に至る鬼丸の叫びは、腐敗した遺骸を晒すという行為が、死者への冒涜である以上に、生者(ここでは鬼丸や映画の観客)に対する容赦のない攻撃であることを教えてくれる。 このシーンには、粗暴な男の単純な未練以上の、計り難く複雑な心情が見事に顕われている。鬼丸は自らの未練を如何に解消させ得るのか。未練を断ち切るのであれば、精進の意思をもって「腐敗した遺骸の晒され」と向き合うことになるだろうし、未練を晴らそうとするのであれば、バタイユが「連続性」と呼ぶところの彼岸へと命がけのダイヴを試みる他ないだろう。そのいずれもが如何に困難であるかを、あの叫喚は示している。 こうして、腐敗の途上にある血塗相の絹の肉体の、ウジをまとい体液が滲み出た形相で浮かび上がる壮絶な在り様は、明らかに仏教絵画の九相図を模したものとして、鬼丸にとっての行法的な動機付けを浮き彫りにすることとなる。 九相図とは、死体が朽ち果てる様子を段階的に描いた仏教絵画であり、そのような観想を通じて現世の肉体を不浄なものと知るための行法を不浄観という。単純化して言えば、仏僧が煩悩を払い、色欲を絶つための修行のことだ。 随分と昔の話だが、私は谷崎潤一郎の時代小説『少将滋幹の母』(1950)を読んでそのような行法があることを知った。谷崎はこの小説で、美しい妻を奪われ、妄執と失意にうちに果てる老齢の藤原国経が、夜な夜な女の腐乱死体を熟視しこれを観想する様を、月光さす暗闇の陰影の中にグロテスクに描き出している。三部立ての物語構成に光学的と言える色彩や光と闇のトーンが描き分けられたこの小説の中で、物語前半の王朝絵巻的な豪華絢爛な色彩と、40年以上の歳月を経た母子再会を描く後半部の静謐な光のトーンとの間にはさまれて、物語中間部に置かれた国経の不浄観は、そこだけポッカリと底が抜けた奈落の闇のように感じられる。 鬼丸は絹の棺を暴くことで、そこに不浄のものを感得し、無常を見なければならなかった。それは行法的であるとともに自罰的でもあり、鬼丸の叫喚はそれがいかに困難なことであるかを示していた。 解脱を果たせぬ先の妄執は死に至る病であり、鬼丸の落命は劇中直接描かれこそしないものの、最後は片腕を無くしたまま荒野をさまようこととなる。それは鬼丸にとって致命傷であるはずだ。 やはり『少将滋幹の母』の藤原国経のように、眼前には奈落の闇が黒々と口を開けている。 不浄観の観想を絵画に表した九相図では、その最後にバラバラの白骨や土にかえった様子が描かれるのが一般的であるようだ。再びバタイユ『エロティシズム』を参照しておくと、最後に白く残った骨は「カオスや暴力の鎮まりを表す」と表現されている。 映画の終盤、鬼丸の手で屋内に置かれた絹の姿はすでに白骨化しており、理科室にある模造のガイコツのごとくカタカタと軽快な音を立てそうな骨相の、露骨にチープなテクスチャを隠すことなく晒している。すでに生者への攻撃性を持たない「怖くないガイコツ」のなんとも拍子抜けな感触は、死に至る妄執と不浄観の奈落を覗かせてきたこの映画に、意図的なものかどうかが判然としないまま、なんとも軽妙なニュアンスを与えることとなり、それが私の記憶の中で谷崎とは別の小説と響き合うのを感じた。 ご存知のとおり、澁澤龍彦はバタイユ『エロティシズム』の翻訳者としても知られる小説家だ。彼の遺稿となった長編小説『高丘親王航海記』(1987)は、作者自らの死生観、とりわけ死を受け入れるイメージに塗れながらも、奇想なユーモアとどこか楽観的な空気を全編に漂わせ、ほのかなエロスもなんとなく健全な、何とも不思議な小説である。それはどこか、カオスを超えた彼岸の側、バタイユの言う「連続性」の内に軸足を置いた語りであるかのような錯覚を呼び起こす。 物語の途中、主人公の親王のセリフを通じて不浄観のことがサラリと語られる場面もあったと記憶するが、ここで取り上げておきたいのは、下に引用する親王の遺骨について書かれた物語の最終盤の有名な一文だ。 病に侵され死を覚悟した親王は、虎の一部となって天竺入りを果たすべく、現世の肉体を飢虎投身によって自ら廃する。食い残された親王の遺骨を拾う二人の伴の、どこか現実に執着しない振る舞いとともに、実に飄々としたトーンに包まれたまま物語は唐突に終わる。 「あれはおそらく頻伽という鳥だろう。頻伽の声を聞いたのだから、われわれはもう天竺へついたも同然さ。」ふたりはそういって、ようやく気がついたように、だまって親王の骨を拾いはじめた。 明らかに薄くて軽い絹の骨は、露骨にプラスチック製であり、腐敗途上の壮絶な形相からは遥か遠くにある。プラスチックは意味も物語も纏い得ず、一点の湿度も感じさせることがない。それはきっと、原作でたびたび描写されるキャサリンの幽霊的な存在にも増して低湿で、死から遠い存在ではないか。 すでに妄執も奈落も寄せ付けることがないはずのそんな絹の骨相に、なお解脱の気配を見せることなく執着し続ける鬼丸の狂気は、死に至る病を抱えたまま奈落の荒野へと向かうほかない。その姿は、奇行のすえ絶食に果てるヒースクリフと重なる。 最後に、墓を暴く鬼丸の行法的な側面に、原作の翻案として優れた独自性が感じられたのも、本稿を通じて谷崎潤一郎や澁澤龍彦の作品への振り返りが促されたのも、私が日本人であること無関係ではないが、エミリー・ブロンテの原作でキャサリンの墓を掘り起こすヒースクリフに、ここまで読んできたような鬼丸と同様の情動が全く無かったとは言い切れない。 愛憎に突き動かされて激情に駆られただけに見えるヒースクリフの行いだが、進んでタブーを冒すことに主眼が置かれた選択なのだとしたら、それはそれで西洋的生死観のダークサイドが垣間見える振る舞いだったと言えるかも知れない。 #
by hychk126
| 2024-02-25 15:15
| 映画
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宮崎駿監督の長編アニメ『君たちはどう生きるか』について、わざわざ<不完全版>とタイトルしたのは、後日再鑑賞のうえ、作品の内容にきちんと触れた投稿をするつもりだから。
以前『風立ちぬ』について、不完全版のまま終わってしまった経緯もあるが(『風立ちぬ』に関するノート (不完全版))、あれはあれで不完全版なりに結論まで踏み込めていたのに対し、今回の投稿はあくまでファーストインプレッションである。こう防御線を張りつつ、<完全版>はもう一度鑑賞したうえで投稿することとする。 まず感じたこと。 他人が見た夢の話をこと細かく聞かされるのと同じ類いの退屈さに支配され、その退屈さを信じたくない私にとっては悲痛な鑑賞体験となった。引退撤回から約6年間、こちらの自由な妄想が許されたモラトリアムはあまりに長く、それはファンにとって幸福過ぎる時間だったかもしれない。 悪しきファンの典型と言える私について言えば、いよいよ大江健三郎の『同時代ゲーム』が宮崎駿監督によってアニメ化されるのだ、などと永年の夢想に浸りつつ、鳥人間のイメージがリリースされるに至っては、それはきっと『同時代ゲーム』の「暗がりの神メイスケサン」か「木から降りん人」に違いなく、他にも「壊す人」とか「オシコメ」とか、奇想天外な登場人物群に宮崎アニメのキャラクター形象が与えられ、特に近作のポニョや風立ちぬやボロの、あの異次元レベルの運動の有り様を目の当たりにすることを想像するにつけ、それでこそ、左翼であろうが真正右翼であろうが、左右関係のない否定論者であろうが、とにかく思想的にも、もちろん映像表現的にも、宮崎駿アニメの真の集大成に相応しい、そんな確信が深まる一方で、妄想もそこまで度が過ぎると単なる期待ギャップの問題として解決するのもなかなか一苦労なのである。 ...と、上で触れたとおり聞く人にとっては退屈極まりない、そんな他人の夢の話を初っ端から事細かく聞かせてしまい大変失礼しました。話を現実に戻します。 さて、退屈だった理由は、本作についてよく言われる言説「意味が分からない」からではない。これまでの宮崎駿作品が「意味が分からない」くらいでその価値が毀損されることはなかった。いったいどれくらいの人が『ハウルの動く城』や『崖の上のポニョ』の意味を理解して鑑賞していただろうか。しかし過去のそれらは「意味が分からない」程度のことで価値を下げるどころか、むしろ「意味が追いつかない」ほどの面白さと興奮によって、私たちを魅了してきたはずだ。 だから、退屈な理由は「意味が分からない」からなのではない。そういうことではなく、今回はまずもって「体験」として面白くなかったということだ。さらに言うなら「意味が追いつかない」どころか、むしろ逆に、容易な「読み」を中途半端に許してしまうことが、輪をかけて退屈だったとさえ言える(が、さすがにこれは言い過ぎだ)。 「体験」として面白くないというのは、最初に書いた「他人の夢の話を聞かされるのと同じ退屈さ」とつながるが、巨匠の作品がその程度にしか感じられないことに、おそらく監督の汲み尽くせぬイマジネーションの枯渇を目にしたくないという私の潜在意識も手伝ってか、そもそも作画品質の問題が小さくないように思われた(スタッフを確認する限りそれは信じ難くもあるのだが)。 塔の内部に導かれてからは特に、私は、宮崎吾郎監督の長編アニメ『ゲド戦記』の終盤舞台、クモの城とその後景としての夜明けの空や水平線の平坦さ、そうしたもののことを想起せずにおれなかった。 一方で、漫画版『風の谷のナウシカ』終盤、ナウシカの感情が爆発するのに相反して、その後景となる墓所とその内部が、拍子抜けするほど視覚的に物足りないものとなっていたこととの相似性をこそ見ておくべきかもしれないのだが、この投稿でそこまで深追いするのは(準備不足で)難しそうだ。 否定的な私がそれでも賞賛しておきたいこと。まず、最初の15分間くらいの情調にはドキドキさせられていたことを告白しておきたい。それから、あまり細部を摘まみ上げた褒め方はしたくないが、オープニング早々の火災シーンはもちろん、マヒトの頭から吹きこぼれる血や、あふれ出る魚の内臓、ナツコという女性の個性、こうした幾つかの「激しく噴出するもの」たちの描写は、これが見たかったと思えるほど素晴らしかった。あとは音楽、氏には珍しく心象に沿うような音が、この作品には効果的だったと思う。 テーマについて。それが理想とはほど遠くとも、現実世界への帰還をこそ意思する主人公像に新しさはない。しかし「それでも人は土から離れて生きられない」し、計画されたものを拒否して「苦悩や死を受け入れ、汚濁とともに生きる」ことを選択する、つまり自らの意志で運命を切り開くことは、やはり尊い。それが、しつこく反復される宮崎駿監督からのラスト(?)メッセージであることには納得感があるし、別に新しくある必要はないのだろう。 最後に、ここに書いた私の愚痴に近い酷評が、時間の経過とともにいかに的外れなものであったかが広く諒解さることとなるよう、またそれ以前に、再鑑賞よって私の認識に変化が訪れるよう、ファンとして祈念したい。 #
by hychk126
| 2023-08-09 23:00
| 映画
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ドイツの名門バレエ学校を舞台とするイタリア映画のヒロインに、アメリカ人の女優が抜擢された理由はいくつかあった。何よりもまず米国の配給会社の思惑が大きく働いたのは事実のようだが、監督が『ファントム・オブ・パラダイス』(1974)のフェニックスを演じる彼女に魅了されていなければ、彼女以外の選択肢が有り得たのもまた事実だろう。 言うまでもなく、そのイタリア映画はダリオ・アルジェント監督の『サスペリア』(Suspiria 1977)であり、アメリカ人の女優とはジェシカ・ハーパーのことだ。彼女はイタリア語を習得してこの映画の撮影に挑んだと言う。 アメリカ娘(と映画の中でヒロインは侮蔑的にそう呼ばれる)の無遠慮な訪欧が、ヨーロッパ社会の因習や価値観に亀裂を入れるという構図は、キャスティングの結果として後付けされたものとは思えないくらいこの映画の重要なファクターとなったことを考えると、アメリカ人である彼女の配役にはそれなりの合理性が感じられる。また、楳図かずおや古賀新一の70年代の恐怖マンガから飛び出したかのような、清廉潔白で始終おびえ顔のジェシカ・ハーパーの佇まいは、配給会社の上層部の不純な思惑などとは思えないほど、作品至上主義的で幸福なエンゲージメントを感じさせてくれるだろう。 ダリオ・アルジェント監督の「魔女三部作」の1作目にあたる『サスペリア』は、60年代のジャーロ映画(暴力やエロティックな描写を強調した猟奇的なスリラー映画)と、当時の世界的なオカルトブームが合流する中で誕生した70年代イタリアン・ホラーを代表する金字塔であり、前作『Profondo Roso』(サスペリア Part2 1975)とともに監督のキャリアにとって最重要作のひとつだ。 ちなみに、ジャンルとしてのジャーロ(ジャッロ Giallo)は、イタリア語で黄色を意味し、ペーパーバックの装丁に由来する。タランティーノにとってのパルプフィクションと同じく、低俗的な読み物への深いリスペクトがアルジェントの作風の根底にある。 画面に横溢する非現実的な美術セットと原色に彩られた悪夢的映像の鮮烈さは『サスペリア』最大の魅力であり、ディズニーアニメーション『白雪姫』に倣ったと言われるカラーパレットは、それが現実の世界におかれた途端、強烈な異質性を際立たせる。 そうした非現実的なビジュアルは、物語展開の非論理性とも共犯的だ。時に場当たり的で荒唐無稽とも言えるストーリーは、本作に限らず多くのアルジェント作品で槍玉にあがりがちではあるが、「悪夢的」と言うより「悪夢そのもの」のような世界観において、現実世界の因果律や法則との整合性は、進んで軽視されているフシがある。 物語の冒頭、空港の自動ドアから嵐の屋外へと踏み出すヒロインを歓待するのは、そんなアルジェント・ワールドだ。観客にとっては心躍り、ジェシカ・ハーパーにとっては厄災である。 アルジェント&トヴォリ(撮影監督ルチアーノ・トヴォリ)の悪夢的映像の成果は、過剰にショック効果を狙ったものとしてキワモノ扱いされるのは仕方のないところだが、同時代イタリアのヴィスコンティ&デ・サンティス、もしくはベルトリッチ&ストラーロら、読み物で言えばジャーロとは対極の、重厚な純文学と同列で語られるべき偉大なヘリテージであることを指摘しておきたい。 少なくとも、フィルターを使用しないカラー照明への固執や、テクニカラーの発色を狙ったフィルム選定への拘りといったものは、それがグラン・ギニョール的な動機付けだとしても、映画においては決して筋の悪いものではなく、優れて正統なモチベーションであるのは間違いないことだ。 さて、大好きな映画と向き合う姿勢として感心できる話ではないので小さい声で言うが、私は『サスペリア』をつまみ食いする機会が多い。オープニングとラスト、それぞれ10分ずつを繰り返し観る。最初の殺人が起こるまでの冒頭10分と、寄宿舎の秘密が暴かれる最後の10分、この20分間で異様なセット造形の魅力や、カラー照明の洪水を十二分に堪能することができる。逆に言えば、この過剰な映像と荒唐無稽なストーリーを100分間にわたって浴び続けるのは明らかに過剰摂取である。 以下はラスト10分の話だ。 ジェシカ・ハーパー扮するスージーは隠し扉の謎を解き、青いアイリスを回して秘密のドアを開く。そこは魔女の館である。恐る恐る廊下を進むスージーを包む光の揺動が素晴らしい。ジェシカ・ハーパーの形姿が醸す特徴そのままに、良い意味でヨーロッパ的な洗練を欠き、プレーンで無防備な個性を纏ったヒロイン、スージーだからこそ、執拗な光のストーキングが見事に映える。もしこれが、作品の企画段階で想定されていたダリア・ニコロディによるヒロインであったなら、ヨーロッパの知性を感じさせる彼女の容姿は、これらの照明とあまりに同質的であっただろう。 スージーはやがて嘆きの母と呼ばれる魔女、エレナ・マルコスの部屋へとたどり着く。見えない魔女の嘲笑と、動き出す友人の死体、そして雷鳴。無防備におびえるだけでなく、無遠慮さを発揮することに十全な”アメリカ娘”は、孔雀の羽根を手に見事魔女を討つ。そしてもちろん、館の崩壊が始まる。 その後の館からの脱出劇は正直どうでも良い。家具が動き出し、窓ガラスや壁が割れ、なぜかあちらこちらが爆発する大騒ぎ。”アメリカ娘”の一撃によるヨーロッパ(中心史観)の崩落によって、お約束とは言え、映画は騒がしいだけの単調なアトラクションに堕するわけだが、それでも私がこの映画を最後まで観てしまうのにはワケがある。館を脱出したスージーが最後に見せる、あの表情が見たいのだ。 炎に包まれた館の外は、映画のオープニングと同じく夜の闇と激しい雷雨。館に背を向けて歩き始めるスージーは目を閉じ、全身ずぶ濡れになりながら、髪をかき上げる仕草とともに笑みを浮かべる。画面で確認できるのはせいぜい2秒程度だが、それは晴れやかながらも、どこか苦笑や自嘲のトーンも垣間見える玉虫色の笑みだ。 魔女を継承したスージーが世に放たれたのではないか、とか何とか、ファンの間で様々に深読みされてきたこのスージーのラスト・スマイルは、のちに監督自身がインタビューに応えて一定の答えらしきものを与えている。「あれはホッとした安堵の笑みだよ」とそのまんま答えてしまうアルジェントは、映画ではケレンたっぷりで面白いのに、映画の外ではハッタリがきかず実につまらない。 とは言えしかし、フォードや小津の映画でもない限り、監督の演出意図が、画面に映るもの全てに対して支配的だとは限らず、そもそもアルジェントが丁寧に本当のことを全て語ってくれているとも限らない。 事件解決後にサバイバルしたヒロインが見せる安堵の表情は、それ自体ホラー映画では珍しいものではないかもしれない。しかし、ある意味ではミュージカルや史劇以上に様式化され、コスチュームプレイとして様々な約束事の上に成り立つジャーロやスパラッター・ホラーのジャンルにおいて、当然ながら安堵の表情は様式の一部であるのに対し、『サスペリア』におけるスージーのラスト・スマイルは、スージーのコスチュームを脱いだ女優ジェシカ・ハーパーの、表情の緩みとでも言うべき不思議な自然さを感じさせるものだ。 先にも触れたように、その表情の緩みに、もしわずかながらの苦笑や嘲笑のトーンが透けて見えるのなら、コスチュームを着たジェシカ・ハーパーにとって、サディスティックな嗜虐の対象となり続けたこのヨーロッパでの映画体験が、如何に支離滅裂なものであったかを物語っていると言えるだろう。 それはジャンル映画の堅牢な様式と、それを引き受け続けるアルジェントの揺るぎない美学に、心地よい抜け感を穿つ、そんな表情だと言える。 こうして魔女なるものに象徴されるヨーロッパの時代精神は、ラスト数秒コスチュームを脱いだアメリカ人女優によって、本当の意味でトドメを刺されたと言えるのではないか。 そして、ジェシカ・ハーパーの(オドオドしているだけとも言える)体当たり演技に賞賛を惜しまない私も、ここまで書いてきたような破壊力を持つ彼女のラスト・スマイルの真意が、ジェシカ・ハーパー自身の自己演出によるもの、つまり監督の意図を超えたところのものだとはさすがに考え難い。 だとするならあの笑みには、生粋のサディストとして私たちが認識するダリオ・アルジェント監督の、マゾヒスティックな側面としての自己言及性が潜んでいることになる。 かつて評論家の吉本隆明は、「走れメロス」を題材に太宰治の倫理観について論じる中で、物語上はあってもなくても構わないような最後の数行、一人の少女が素っ裸のメロスにマントを差し出し、メロスが赤面するシーンを取り上げ、物語そのものが描く主題としての倫理(例えば人間の信頼関係)とは別に、小説や文芸そのものが太宰にとっての倫理であるかのような、そんな有り様について指摘していた。 『サスペリア』のラスト・スマイルへの目配せを感じさせる「魔女三部作」の完結編『サスペリア・テレザ 最後の魔女』(The Mother of Tears 2007)のラスト・シーン、お約束の崩壊する館から命からがら脱出を果たしたヒロイン(アーシア・アルジェント)は、唐突に爆笑する。取ってつけたような馬鹿笑いは、スージーのラストスマイルとは随分と異なる風情だが、いずれの笑いも魔女三部作の物語への言及に留まらず、ジャンル映画を背負うとはどういうことか、ひいてはイタリアン・ホラーの帝王の揺るぎない美学とは何かを問う、そんな特権的な主題へと突き抜ける笑いだと言えるのではないだろうか。 (おわり) ルカ・タヴィアーノ監督版『サスペリア』(2018)についてはこちら。 #
by hychk126
| 2023-04-10 18:23
| 映画
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"17世紀に同性愛者として裁判にかけられた実在の修道女ベネデッタの数奇な人生を、実際の裁判記録を基に描き出した衝撃の問題作。"ポール・ヴァーホーベン監督の『ベネデッタ』(Benedetta 2021)を鑑賞した。 私は史実のことは全く知らないのだが、映画はさすがにヴァーホーベン的というか、全体的に即物的な印象が強く、3時間向きの内容を2時間で見せるので、とにかく進行が速い。そんな中でも、味わい深い情緒的要素がアン・ダドリーの音楽以外にもうひとつある。言うまでもなく修道院長役のシャーロット・ランプリングの演技のことで、ここでは手短かにその点にのみ触れておきたい。 『ベネデッタ』はまずもって革命家の物語として描かれており、視点を保守に変えればテロリストの話でもある。保守側の一端である修道院長を演じるシャーロット・ランプリングは、倫理観と官僚主義的な価値観を併せ持つがゆえの、実に絶妙な表情を見せるものだから、おそらく観客が唯一感情移入できる人物として、主人公ベネデッタ(ヴィルジニー・エフィラ)のテロリスト的側面をきちんと引き立てているのが素晴らしい。 達観しつつも事なかれ主義で生きてきたであろう修道院長(シャーロット・ランプリング)の最期の行動は、例えば胃癌で余命宣告を受けた市役所員の良心の暴走とか、退官直前の裁判官が見せる正義の一撃とか、そんな爪痕を残す清算行動の一種だと理解したが、そのトリガーを静かに引くベネデッタにはやはり、革命家もしくはテロリストとしての才覚があるのだろうと思う。 #
by hychk126
| 2023-02-26 18:34
| 映画
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3/3.Deus ex machina 少年時代の無邪気でグロテスクな性への好奇心とその抑圧が、ルンバを踊る大女サラギーナの姿となってグイドの夢に現れる。なぜか同じ温泉施設を訪れている枢機卿は「教会の外に救済はない」とグイドを諭す。 安易にカトリック批判へと傾くグイドに対し、映画製作の協力者である男は皮肉まじりにこう言う。「イタリアのカトリック意識を論じるなら、高い知的水準と明確な論理で語らねばならない。」 イタリアにおけるカトリック的精神文化の影響は、フェリーニ作品における一貫した主題設定としてよく語られる。しかし、カトリックの権威主義的な欺瞞や抑圧を、持ち前の機知によってアイロニカルに捌くのを見るにつけ、そのときのフェリーニの胸懐が実際いかなるものかを理解するのは日本人の私には少し難しいと感じる。そこに痛烈な批判、侮蔑や軽蔑のニュアンスを読むことは容易いが、カトリックの思想と実践が、イタリアの社会や文化、イタリア人の人生観に深いところに根付いているであろうことを考えると、そう単純なものでもないだろう。 例えば、フェリーニの作品にチラホラと垣間見えるオプティミズムのようなものを考えるとき、それは「魂の救済による解決」という根拠のない希望、「きっとなんとかなるだろう」というお気軽とも言える意識として、フェリーニの価値観の深いところに根付いた“救済”の信仰が、ふと顔を覗かせる瞬間なのだろうと思う。どうやら宗教的影響への反発には自覚的でありながらも、一方で信心の感受には、おそらく無自覚なところがあるのではないか。 こうしたことはカール・テオドア・ドライヤー監督(デンマーク)やイングマール・ベルイマン監督(スウェーデン)が、信仰をめぐる抑圧や不寛容、不条理との対決を主題化してきた一貫性の力強さを感じさせるのに対し、フェリーニには愛すべきイタリア人気質とその天然を見る思いがする。(ドライヤーやベルイマンにはブレがなく、フェリーニが天然であるというのは、我ながら見た目判断の度が過ぎる気もするが) そして、無意識のうちに形成されたであろう信仰をめぐるフェリーニの愛憎が、最も大胆に(なにせ無意識なのだから)表れているのが、『8 1/2』におけるグイドの再起であり、彼のセリフ「人生はカーニバルだ」だろう。 『8 1/2』における救済のモチーフは、当初こそ今回のトップ画像に引用したクラウディア・カルディナーレ演じる女優クラウディアの外形をもって表れる。グイドにとっての彼女は、妻や愛人をはじめ煩雑な人間関係から隔絶された空想上の避難所であり、あのおまじない“アサ、ニシ、マサ”によって召喚されるアニマ(理想の異性像)でもある。つまり、グイドにとっての“救済の徴(しるし)”だ。 上でお気軽などと揶揄してしまったが、救済はいつでも誰にでも無条件的に訪れるわけではないはずで、何よりも、救済の兆しや徴への気づき、つまりは信仰が必要である。 例えば『道』のザンパノは、ジェルソミーナという“救済の徴”に気付くのが遅すぎた男として描かれていた。夜の浜辺で、気づくのが遅すぎたことに始めて気づいたザンパノは、自らの愚かさに慟哭する。 『甘い生活』の主人公もやはり、自らの前に現れる“救済の徴”を読み逃してしまう愚かな男として描かれていた。海辺に引き上げられた怪魚のまなこは明らかにマルチェロの写し鏡であり、その腐敗ぶりに無頓着な男の耳に少女パオラの声は届かない。ザンパノのような気付きが最後まで訪れることのないまま終わる、印象的なラストシーンだ。 こうした男たちの系譜に『8 1/2』のグイドをひとまず重ねることはできるが、ここでは徴への気づきの無さ、気づきの遅さといったことではなく、徴への過信や見誤りといった間抜けな事態が起こっていると言える。 極限まで混迷を深めてゆくグイドが、事態の打開と自らの救済の切り札として最後まで拠り所とするのが女神クラウディアだ。しかし終盤、現実の彼女との対面が叶うものの、そこでグイドが理解することになるのは「彼女は救済には成り得ない」という残酷な事実であり、最後の頼みの綱を失ったグイドの混乱は頂点に達し、急展開で怒涛のクライマックスへと雪崩れ込む。 『8 1/2』では、結果的に救済の徴が外形的に存在しない(クラウディアではない)。そして、救済を天与のようなものとして受けるのではなく、自らの気づきによって自らを救済するという強引な荒技によって、主人公は再生する。つまり、あいまいだった過去の記憶やこれまで愛せなかった人々との和解、自分自身の混乱が反映された人生の肯定、そうしたことが「なんて簡単なのだ」と気付くこと。 それにしても「力が湧いてくる」と語る唐突なグイドの再生劇、そのキッカケや原動力なるものは目を凝らして映画を追いかけてもなかなか見当たらない。 冒頭にひいた枢機卿の言葉「教会の外に救済はない」は、当然それを語らせるフェリーニの皮肉含みであって、もう少しカトリックの教義にひきつけた言葉で言えば、「神の恩寵以外に救いはない」ということになる。自らの内奥から沸き上がる力もまた、実は「神の恩寵」以外のなにものでもないという考え方だ。 そして一方には、(より正教会的に)人の自由意思による努力を広く認め、「神の恩寵以外にも救いはある」という考え方がある。 はたしてグイドの内から湧いてくる力はいずれのものと理解すべきか。またその力は、信仰によって生活を変えようする娼婦カビリアが、男に騙され打ちひしがれた末に、最後に見せるあの笑顔を形作るものと同じなのだろうか。 その曖昧さこそが、フェリーニの無意識的な愛憎が入り混じる宗教的影響の発露そのものだと言えるかもしれない。 いずれにしろグイドの再生によって、混乱のピークから映画は一気に大団円へと雪崩れ込む。その超展開にふさわしく、映画のラストは“機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)”に導かれたフィナーレとなる。 “機械仕掛けの神”とは、収拾不能な局面にある物語に絶対的な力を持つ神を登場させ、一気に解決に導くという禁じ手とも言える安直な演出技法のこと。古代ギリシア演劇にルーツをもち、神役の役者がクレーンなどのからくり仕掛けで舞台に登場することが多いことからこう呼ばれている。 前二回で見てきたとおり、“映像の魔術師”と称されるフェリーニの、表現の洗練よりも無謀さや大胆さに価値を置いた演出のあり方として、超展開を道理によって支える気が全く無いのは実に勇ましい。ましてや登場するのがフェリーニが偏愛する手品師と道化師の姿をした神々なのだから、まさしくフェリーニの信仰や聖俗観の総動員である。 このように、突然の事態を前に噴きあがる観客の戸惑いに対し、映画はそれを(機械仕掛けの)神の力を借りて強引にで乗り切ることとなる。もともと冒頭から、過去と現在、現実と夢が同じ水準に同居してきた映画ではあるが、それでも全ての登場人物が手を携えて輪になる「人生は祭りだ。ともに生きよう」のマーチングはひと際感動的だ。 しかし、前回の投稿で先回りして指摘しておいたように、以降のフェリーニが向かう先は普遍性とは真逆のベクトルであり、社会からの隔絶の度を深めることとなることは、あらためて理解しておく必要がある。「人生は祭りだ」はともかく、少なくとも「ともに生きよう」については怪訝にならざるを得ない、そう思う私の手もまた、あっという間にグイドにひっぱられて踊りの輪に参加させられる、神々上等の素晴らしい大団円。 やがて登場人物の退場と深まる闇、スポットライトの消灯と道化師たちの退場、祭りのあとのいつもの侘しさとチルアウト、余韻で十分な時間のエンドロールがほしいところだが、この時期のイタリア映画にそんなことは期待できず、ましてやご都合主義的な演出で幕を引こうとしているこの映画はそんな余裕を与えてはくれない。観客が我に返って罵倒を浴びせ始めるその前に、逃げるように暗転する。 映像の魔術師というか、むしろインチキ興行師のようではないか。 (おわり) #
by hychk126
| 2023-02-25 01:07
| 映画
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