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関連記事:いっつぁ~んっ! --- 勝新太郎 座頭市シリーズをめぐって
誰しもに開かれた子母澤寛の原作の存在がありながら、そしてその原作自体を未読であるにも関わらず、わたしのように勝新太郎以外の市を想像することが困難な大多数の座頭市映画ファンを牽制してか、断続的に後続する座頭市たちというのは、まず勝新・座頭市に似ていないことを目指すことになるのだろうと思います。金髪か、そうでなければ座頭でなくとも女座頭市。 座頭市映画において、勝新・座頭市との類似や差異の度合いは、その作品としての優劣を示すものではないけれど、この場ではその違いに拘ってみながら、つまり勝新・座頭市からどのように遠ざかるかにフォーカスを当てながら、曽利文彦監督、綾瀬はるか主演『ICHI』(2008)と北野武監督『座頭市』(2003)という、21世紀型座頭市の2本に触れてみたいと思います。 ![]() 綾瀬はるか扮する流しの三味線弾きICHI。 もちろん勝新・座頭市に似ていないことは、単刀直入に性の違いが何よりも雄弁ではあるけれど、もっと詳細に踏み入ってみると、まず「盲人が刃物を振るう」という背理と、その背理が醸す鈍い輝きのようなものがそこには感じられず、もちろん綾瀬・ICHIもそれなりに強いのだけど、座頭市と聞いてわたしたちが想像するような、あの「現秩序を崩壊させる」規模の無条件的な強さを約束してくれるわけではなく、現在では通常的な稽古ごととしてよく有る「女性の護身術」的なノリがどうしても漂ってしまっており、触れば火傷をする、...という感じに留まるでしょう。 実際、回想では少女時代の修行シーンなども描かれており、「身体的な障害をその努力で果敢に乗り切る」という、きわめて人間的で条理に適った存在だと言えるわけです。その存在自体が唐突な勝新・座頭市の背理とは、立ち位置がまるで異なります。 わたしは、女座頭市にも、戦慄が走るほどの孤高の強さを与えることで、それなりに凄まじい映画になるのではないかと思うのです。アイドル映画にしたいわけでもなさそうな『ICHI』はしかし、そんな風なある意味恐怖映画のようなものを目指しているわけでもないのは理解できます。でもやはり、勝新・座頭市との差異を、過度の弱さとして表現してしまうところが綾瀬・ICHIにはあるのですね。 綾瀬・ICHI居合斬りはスローモーションと細かいカット割りに助けられていますが、その"弱さ"というのは、"剣術が孤高の無敵を誇らない"...、ということだけではないようです。 "剣術が孤高の無敵を誇らない"ということを指すわけではない綾瀬・ICHIの"弱さ"は、まずもってそのまま女性ゆえの"弱さ"としてあまりにも露骨に描かれています。それは女性としての社会的な弱さであったり、"恋心"にひっぱられてしまうような年頃の女の子として弱さであったりするわけです。 以下、勝新・座頭市との差異として顕著な、その"弱さ"について見ていくことにします。 社会的弱者、という視点で見ると、男・座頭市も視覚障害者に違いはないし、座頭とは言え障害者保護政策の組織や権威の外にいるけれど、自由で独りであることが社会から容認され、かつそれで生を維持できるのは、やっぱり男であるがゆえだと言えるでしょう。 一方で女一人、つまり掟に背いて一座を追われた瞽女(ごぜ)というのは、どうにも居た堪れない女性固有の社会差別的な弱さを象徴することになるでしょう。その弱さは、「剣術の腕が立つ」という強さの問題とは関係ない話として、特に時代背景的なものを考え併せると歴然とします。 男・座頭市なら、独りで自由であることのロマンを時に感じさたりもする孤独ですが、女・座頭市だと、社会の中でマイノリティとしても成立し得ないような、「独りでは生きていくことができない」という深刻な孤独として描かれることになります。 さらに、綾瀬・ICHIはなんと、女であるがゆえに最大の見せ場にその姿を現わしません。彼女は、宿場を血で染める決闘に"間に合わない"ことで、誰もが知るところの座頭市のヒロイズムを否定してまで、(女として)男たちを立てることになります。 映画は、ICHIがその身を匿われる農家と、クライマックスの舞台となる白川一家の宿場との物理的なその距離感を、それらをつなぐ山道のシーンを幾度か挿入することでしか示しませんが、その距離の実感を欠いたまま映される山道を急ぐICHIの姿というのは、とても決定的な瞬間に間に合うかどうかのスリルを煽る演出ではありません。 勝新太郎主演(監督)の最後の『座頭市』(1989)にそっくりと言える風雲急を告げるあの舞台のド真ん中に、桶に入ったままゴロゴロと転がって生首片手に登場しろとは言わないけれど、とにかくICHIは決定的にその場に間に合わない...。決定的の意味は、よくヒーローもので「そんなタイミング良くピンチの場に颯爽と登場するなんて、出来すぎだよ。」と言いたくなるのとは真逆で、ICHIは確信犯的に「間に合わない」わけです。 そしてせっかくの最後の一振りもやっぱりスローモーション...。しかも、宿敵万鬼(中村獅童)に与えた致命傷はどう見ても事前に十馬(大沢たかお)が与えたもの...。彼ら男たちは華々しく同時討ち...。ICHIはすべてに出遅れて死体に「えいっ」と一突きするだけだ...と言っていいラストシーン。 彼女が"間に合う"のは、大沢たかおが息を引き取る瞬間だけであり、それはICHIではなく大沢たかおに華を添えることになるでしょう。 実際この映画は、それなりに男たちに華がある映画です。ラストシーンのICHIは、あれだけ社会的弱者として描かれているにも関わらず、最後の最後まで律儀に男の論理を立てることになるわけですが、そのあたりをもう少し詳細に見ていきましょう。 ![]() 綾瀬・ICHIは、アイドル映画的なものを期待する向きには汚れが多すぎて陰湿だという理屈があり(それはそれでそういうものに興奮できるマニアックなすじもあるとは思いますが)、一方で、座頭市映画であることを期待する向きには、クライマックスに市の大殺陣が置かれていない、という意味で、多くの人がフラストレーションを抱えることになる映画だといえます。 大殺陣が置かれていないことの不満をもう少し詳細に見ると、まず、理解しておきたいのは、先にも少しふれたようにこの映画は、善悪含めて、男たちにそこそこ華がある映画だということです。 さすがに大沢たかおのあまりに凡庸さには辟易するし、窪塚洋介の大根ぶりも「味がある」と言うにはかなりの努力が必要だし、衣装負けしている中村獅童の「カッカッカッ」という笑い方には凄みはまるで感じられないけれど、彼らの身体や演技はこの際どうでもいいとして、男たちの役どころには全般的にそこそこ華があるわけです。 剣を抜けない大沢たかおは(明らかに性的な隠喩だ)愛する女のためにそのトラウマを命がけで克服し、窪塚洋介はグレーな役どころながらも父の志しを継ぐ勇敢さを見せ付けます。また、万鬼に扮する中村獅童について言えば、もちろん彼は悪人ではあるけれど、道理に合わない理由で幕府を追われて絶望的状況から「反権力」に立つことで、体制への怒り(民衆と共有できるものだ)こそ感じさせても、庶民層への直接的な暴力はさほど直接的に描かれているわけではなく、華とは言わないまでも反体制と自由の象徴を感じさせます。 おまけに中村獅童と大沢たかおに到っては、ICHI不在のまま「オレの女だ」的論理を振り回すことで、(カッコ良いのか悪いのかよく分からないまま)ひとまず華のある男足りえているし、逆に、窪塚洋介は、そんな男都合の勝手な連中の中にあって、むしろ浮き足立たない硬派な男の論理を貫くことで華があります。 ![]() 女座頭市=ICHIという映画で、これほど男たちに華やかさを持たせてしまうのであるならば、映画はその性差の不均等をどこかで帳尻を合わせる必要があります。例えば、そんな男たちが10人集まっても結局なんの解決も見ることができない混沌とした場を、女である綾瀬・ICHIが一気に血の海に沈めることで強引に解決させてしまう、そんなクロージングがあってこそ、初めて映画の帳尻は合うはずです。 しかし、彼女はクライマックスに出遅れることで、恋心を抱く大沢たかおのみならず、映画の隅々にまで満ちている"男の論理"の全てを健気に立てることになります。 男たちの一方的で必要以上に華やかな論理は、その性ゆえに虐げられたICHIの孤独を最後まで鮮明なコントラストで浮き彫りにすることにのみ寄与し、華やかな男の論理が粉々に打ち砕れることの爽快さには寄与しません。...つまり、勝新・座頭市が、表面上のへりくだりから溜まったものを一気に爆発させるあのカタルシス、それがICHIでは噴出口を見つけることができないままであり、心地悪いフラストレーションとして観客に纏わり付いてくることになるのだと思います。 ********************************************************** 『ICHI』の話が長くなりすぎましたので、もう一人の座頭市について駆け足で...。 北野武監督主演の『座頭市』は、おそらく私が北野映画を劇場でフォローしていた最後の作品です。北野作品は『BROTHER』(2000)くらいからよく分からなくなっていたものの、さすがに座頭市と聞くと、それが誰の映画であるかは関係なく駆けつけないわけにはいきませんでした。 どうも音楽に鈍感なようで、その鈍感さがとんでもなく感動的な効果を発揮してしまう初期の北野作品はともかく、『座頭市』のクライマックスで浅野忠信扮する用心棒との一騎打ちの場において、砂浜の波の音と松明の弾ける音だけで対峙させてほしいところを、耳障りな打ち込みの電子音で満たしてしまうというのはどうにも納得がいきませんでしたが、全体的な映画の出来具合は悪いものではなかったと思います。 ![]() 北野・座頭市は、前段で論じた綾瀬・ICHIとは違い、勝新・座頭市と同様めっぽう強く、その強さが刹那的かつ無条件的という点で共通しています。 ただ、その強さを炸裂させるスターターが自己保存のためのカウンターであったり、ちょっとした人情と弱者の立場で発火する勝新と比べると、どうも進んで血の匂いを追い求めているような、積極的、能動的攻撃を武器としているようなふしが北野・座頭市には感じられます。 最上部でリンクした以前の記事での引用文、平岡正明の名著「勝新太郎 座頭市全体論」から再度引用しなおしますが、 「庶民感情のど真ん中に蜂起の正当性を正当性をおっ立てる。」...もしくは、 「民衆の受身の立場と弱者の立場を捨てぬことにより権力の盲点へ出る。」 ...といった原理や機関のようなものを、北野・座頭市は根に持たない、もしくは感じさせることがない、そして、そういう原理が極めて希薄なまま、能動的にバッサバッサと斬ってしまうようなところがあるわけです。 もちろん北野・座頭市も「悪いやつは許せない」という感情を持っているでしょうし、弱者への労わりを見せる瞬間もあったりもしますが、それでも世俗とクールに断絶しているような感じというのは、勝新・座頭市と比べるとやはりどこか虚無主義的なのですね。ふらりと訪れた村で庶民との交わりを持ったりもしますし、映画ではラストにわざわざ民衆パワーの隆起を描くべく御祭り騒ぎを置いたりもするのですが、そういった温度感の全てが遮断されたところに北野・座頭市は立っており、超然と虚無を見据えているようです。 勝新・座頭市も世俗との関わりに進んで積極的とは言えませんでしたが、それは自らヤクザ者であることを承知したうえで、女性や子供を含めて深い人間関係を築くことを拒んでしまうといった浪花節的なドロ臭さを感じさせました。 つまり、勝新・座頭市は、いくら深い孤独の淵を見つめようとも、また、現秩序を崩壊させるスケールの強さを発揮して鬼神と化そうとも、決して超然とせず、虚無を見つめるようなこともなく、俗世の温度感だけは共有しているはずです。だからこそ、涙を呑む別れのようなものも時にあったりしたわけです。何かの間違いで北野・座頭市がシリーズを重ねてしまうようなことになり得ても、そういう別れは訪れないでしょう。 そんな北野・座頭市というのは、乱暴に分かり易く言ってしまうと、「感情が希薄」です。もっと肥大化させて言い換えると、「人間ではない」ということです。 つまり北野・座頭市は、前段で論じた綾瀬・ICHIが、なによりもまず「男ではない」という"性差"でもって勝新・座頭市から遠ざかるのに対して、「人間ではない」という"類差"でもって勝新・座頭市から遠ざかろとしているのかもしれません。 ![]() そういったことは、もしかすると座頭市云々とは直接関係なく、新感覚などと呼ばれて意図的に目指されたり、もしくは現在ではそうならざるを得ない時代劇そのものの避けがたい"スマート化"と無縁ではない話かもしれません。 土着性やカーストに根ざした差別的な視点ひとつとってもそうで、例えば北野・座頭市で一瞬描かれる「搾取される農民」という抑圧は、あまりにも義務的にとってつけたようであり、一方で祭りで気勢をあげる彼らを、別の角度から深い陰影で描出し得ているとはとても言えません。この映画の中に描かれる庶民、農民というのは、だから光も影もなく平坦にならざるを得ないのですね。 そう考えると、綾瀬・ICHIで描かれる"離れ瞽女(ごぜ)"の在り様というのは、そこそこのがんばりを称えていいかもしれません。でもしかし、例えばICHIの衣装ひとつとっても、「ボロボロにくたびれた状態」を「美しく」作ってしまっていたりと、やっぱり時代劇を時代劇らしく成立させることの限界を感じさせる結果になっていますね。 ■
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by hychk126
| 2009-04-29 23:06
| 映画
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