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シリーズ第3回はベルクソンの第三主著へと向かいながら、その思考を大林宣彦監督作品に重ねてみたいと思います。ベルクソンの記憶の円錐体や持続の概念に基礎的な理解のない方は、前回までの投稿を一読ください。 ▼ 記憶の円錐体の先へ 第1回は"記憶の円錐体"の基礎理解として主に"現在"や"持続"が示すものを、第2回は記憶の収縮運動と弛緩の例を、それぞれ特定の物語に重ねながら確認してきました。 前回も言ったように、これまでのような厳密さを欠く議論が許されるなら、散漫化しながらいつまでも続けてしまうことができる、そうした自省もあって今回を最終回にします。 ちなみに「厳密さを欠く」のは私の稚拙な議論のみならず、実はベルクソンの巨大な思想にも付きまとい続けた批判的言説でした。反実証主義などと言われたりもしますね。 著作を読まれた方なら分かるように、ベルクソンほどその時代最先端の自然科学の成果を自らの思想の血液にし続けた思想家もいません。しかし描かれる思想の大きさに実証性は追いつかない(追いつきようがない!)、つまり厳密さを欠くわけです。霊や超能力に関する論文まであるのはご愛敬だとしても。 結果的に向かうのは近代合理主義批判、ポストモダン云々。相対性理論に素早く反応した知識人の一人でありながら、その反論文がアイシュタイン本人に無視されたこと、またその明晰な美文ゆえにノーベル文学賞の名誉を与るという事実でさえ、ここではいくぶん不幸なものに感じられます。 そうした実証性を欠かざるを得ない議論は、自然科学の成果が追いついてくれない規模と速度を持っています。その到達点に私たちは"エラン・ヴィタール"という概念を見ます。それは全生命のファイト一発、宇宙規模の花火のことです。 ▼ 大林宣彦監督へのイントロダクション 人は誰も生きて物語を残す 人の命には限りがあるが 物語の命は永遠だろう 未来の子供たちよ、今も元気で暮らしていますか? これは大林宣彦監督『転校生-さよなら あなた』(2007)の最後に挿入される言葉です。監督本人のものだったと記憶しています。最初の『転校生』(1982)とは異なり最終的に死んでしまうアイツ(女の子)について、「生きていたその事実は生きている」といったポジティヴで、もちろんステレオタイプではある死の受け止め方がここにはあります。 大林監督の『この空の花 長岡花火物語』(2012)と『野のなななのか』(2013)における表現の前衛性というか、とんでもないことになってる感じというのは、いつ頃からのものかを考えると、手っ取り早くデビュー当初からだろうと言ってしまうことができると思います。 例えば『この空の花』を観た時真っ先に思い出したのは『野ゆき山ゆき海べゆき』のTV放映バージョンのことでした。それは放送枠が要請する大幅な時間の短縮を、作品に一切のハサミを入れることなく部分部分の早送りによって実現したものです。 本来プライヴェートな空間で全権を掌握する需要側が、供給側の意図を無視して行使できる神力(時間操作)を、供給側が覆すという点に大林宣彦監督のぶっ飛び方の典型を見ることができます。私はあのバージョンにTVで接して以降、ビデオで観る同作には不感症の始末。 外的要因による作品短縮に対する監督の意思表明が生んだ混乱と可笑しさが『この空の花』を観たとき不意に思い出されたということです。 このようなバサラ的な手段の問わなさとその達成をもって"映像の魔術師"や"大林ワールド"などと言われてきわけですが、そうしたものへの映画ファンの評価について言えば、同じく80年代を代表する相米慎二監督との相対位置を見るとき、90年代で言うところの北野武に対する岩井俊二というか、00年代で言うところの中島哲也というか、ときに大林監督の作劇におけるアクティヴィティが「映画である必要がない」といった器の小さい理屈に押されるように感じられたのは、ファンとしての被害妄想であるかもしれません。 そのような戯れに映りかねない前衛性や実験性と同時に、「忘れていたものを思い出すようなノスタルジー」といったキーワードで語られてきたのが大林作品だと思います。そうした題材は厳しさが足りないかもしれないし、前回の投稿でもノスタルジーやセンチメンタリスムというキーワードをいくぶんネガティヴに響きかねない形で取り上げてきました。 しかし議論はそう単純ではない。特に『この空の花』と『野のなななのか』を観てしまった以上は。 ▼ 稗史への視線 以下少し、古川日出男の小説『聖家族』について以前書いたことと被ります。この小説に描かれていたのは、見ること、目撃されることによって、あったことになる稗史の数々と言えるようなものです。そうした稗史は広く知られ記された正史と比べたとき、その原拠や記録媒体や伝承の不確実さによって素性の悪さを持ちます。正史に比して卑しい扱いを受けてきた稗史は、自身が卑しまれていることなど百も承知で、そうしたものの断片が見られ、知られ、白日の下にさらされるとき、時に「あったこと」にされる喜びを迸らせ、時にはオドロオドロしい恨み節を奏でるでしょう。 次に、昨今バブル的な加熱を見せるビッグデータなるものを考えます。膨大で複雑なデータの集積物、そうしたものを解析し、ときに相関関係を見出し、可視化し、ある種の傾向を把握することが、収集・保管といった前段の課題も含めて近年可能になってきたということですね。ビジネスや医療分野、道路交通状況判断などなど、用途は多岐に渡ります。 こうしたビッグデータによる傾向把握からこぼれ落ちるのが"文脈"です。ビッグデータの解析は基本的に個別の文脈を見ません。それが限界であると同時にエンジンでもあります。 例えば、とある公共交通機関の利用状況を解析します。○月○日の通勤時間帯に異常な数値増加が認められたとして、そこには様々な文脈があり得るでしょう。もしかしたら近接する他の交通機関の事故により振替輸送が行われたのかもしれない。その程度のことは一般的な他の情報の関連付けで理解可能な"知られた文脈"です。それは解析結果が当日の事故(正史)によって裏付けられたにすぎない。 一方当日の私の行動を見てみると、普段使うマイカーの故障により急遽その交通機関を利用したのでした。これが確実に統計の1点として参加する”見えざる文脈"であり"稗史"です。それは結果に目に見える影響を与えません。それをいちいち相手にしないのがビッグデータです。 おそらく最終的にビッグデータが突き当たるものは上述したような稗史の恨み節だろうと私は思います。文脈が見えないまま気づきの糸口として示される過去からの声。しかしそれはもう少し未来の話です。やはり稗史を見据えることは個別の文脈を扱うことであり、統計からは捉えられないものでしょう。 映画に戻ります。 『この空の花』の開始早々「長岡映画」、「遠藤玲子の感傷旅行」、「夢のような本当の話」、そして「長岡ワンダーランドに一緒に旅しましょう!」と畳みかけてくるテロップやセリフに私たちはド肝を抜かれます。何だこれ? 古里映画とも呼ばれるこの映画は、確かに舞台となる土地の記憶をめぐる映画であり、そう呼ばれることに間違いはないと思う。それは記憶を語り、稗史にスポットを当て、それを目撃してあったことにする、まさしく文脈が扱われます。『この空の花』のようにそれが実在の人物(演じてるのは役者さんです)によるものではない『野のなななのか』でも、動機や手法はほぼ同じです。 ここで『この空の花』が描くかつての長岡大空襲、原爆投下演習、現在のパールハーバーでの日米合同追悼花火などは、誰の目にも触れず埋もれてきた知られざる出来事ではなく、稗史と呼ぶには失礼な歴史です。それを稗史と呼ぶのは実際に知らなかった私の無知を晒すだけかもしれない。『野のなななのか』が描く玉音放送後もなお続いた樺太での激戦についても同じです。 しかし、ここで描かれる記憶の個々について言えば、やはりそれは正史への記載からこぼれ落ちる類のものであり、個別の文脈であると思う。 知らなかった文脈を前に、そうだったのかと呑気に感心している場合じゃないのがこの二本のやっかいなところです。大林監督が稗史を扱う過剰とも言える手つきは人を驚かせ、ときに警戒させます。今描かなければいけない意味も含めて、選択されている表現の手法はあまりにも性急なものです。また迂回を避けるあまり、表明される反原発・反戦思想、歴史解釈には無防備すぎる露骨さも感じられます。 そもそも、稗史自身が正史への昇格を望んでいるとは限らないという意味でも、そうしたことの一切を問わないまま暴走するかに見える大林監督の表現は、ひとまず、おそろしく強引なものに感じられます。これは後ほど帰ってくる論点です。 ▼ 過去が現在に身を乗り出しているということ 二本の映画は多くの絶望や希望、かつては生られていたものの死を描きます。同時に、それらは死んでなどいないということ、「過去は現在に身を乗り出している」ということを描きます。過去が現在に身を乗り出しているということは、それは振り返られるべき過去ではなく、現在の中に感じられるべき過去だということです。(いまならまだ間に合う) ならば、そのような過去を感傷のうちに受け止めている場合ではない。おそらく、過去が現在を許すことなく追いかけてくる怖さも見ないといけない。映画は怒りや憎しみの迸りをも描き、そしてそうしたものの先に過去が現在と和解することも描こうとします。 前回まで見てきた記憶の円錐体を思い出してみます。そこでは、過去が現在を追いかけるどころか、現在とは記憶そのものであり、過去の記憶の全体が最も収縮した状態こそが現在でした。 つまり『この空の花』が、かつての長岡大空襲と中越大地震や東日本大震災を一度に語ってしまうこと、また、クライマックスで再現された大空襲に長岡花火をオーバーラップさせることは、上の意味においてのはずです。 また『野のなななのか』で最後まで仮初めの存在であるかのような清水信子(常盤貴子)が象徴するものも、主人公鈴木光男(品川徹)に対して身を乗り出している過去であるでしょう。 そもそも先行する『この空の花』は、後続する『野のなななのか』に対して身を乗り出しています。主題の共有のみならず劇中の人物たちが奏でられる音楽においても。 記憶の収縮として持続の在り様を語るベルクソンが、それを空想でもなんでもなく大真面目な宇宙解釈そのものであることを信じたように、大林監督が現在と過去を共存させることもまた、単なる表現上の効果や比喩ではないでしょう。 こうしたことが前回までの円錐体に収まらないとすれば、それがヒーローやヒロインの記憶ではなく、土地の記憶であり、現在の私たちの経験に収まらない稗史であるという点です。こうした事態を回収するために、あの円錐体を一度再定義しなおす必要があります。 ▼ 巨大化する円錐体 すでに第1回でベルクソンの一元論的立ち位置のことは触れておきました。ベルクソンとともに向かう先は、物質と記憶、過去と現在、あらゆるものが参加する一つの時間であり一つの宇宙です。そこにあるのは、道端にころがる石ころの小さな持続、私の持続、あなたの持続ではなく、宇宙というひとつの巨大な円錐体、ひとつの巨大な持続です。それを構成する無数の突端が総動員されることで、宇宙全体が未来へと不断に前進する姿を想起してみるべきです。 「われわれが川岸に座っているとき、水の流れ、小舟の動きか鳥の飛翔、われわれの深い生のたえまないささやきは、われわれの意思によって、三つの異なったものか、あるいは、一つのものである。」、これはアインシュタインの相対性理論への反論文として知られる『持続と同時性』からの抜粋です。 そりゃ無視されるだろうと言いたくなる美しい文章ですが、ジル・ドゥルーズは的確にこう指摘します。ベルクソンもまた時間の多様性を否定はしない、しかしそれは、数的・非連続な(アインシュタイン的)多様性ではなく、潜在的・連続的・質的な(ベルクソン的)多様性であると。 ドゥルーズが補強した持続の概念は、二本の映画の中で交錯する過去と現在、そして死者と生者の描かれ方にも強い説得力を与えます。それは、数的・非連続にあるのではなく、潜在的・連続的・質的な多様性として、画面のうえで同一水準に描かれているということ。大林監督が実際にベルクソンを導入しているわけではないだろうけど、宇宙の摂理への信念を表現において結果的に共有している。 では巨大な円錐形の中で、持続はどのような状態にあるのか、少し大林作品から離れることになりますが、それを生命の進化という観点から観察したいと思います。 ▼ Elan vital 『創造的進化』では、巨大化した持続の概念とともに生命の進化が語られます。ベルクソンが語る"エラン・ヴィタ-ル"とは生命の躍動を意味し、それこそが生命の進化を前進させる根源的な力とされます。 因果的な機械論や目的論を否定するエラン・ヴィタ-ルによる生命の進化は、偶発性に依存する生命自身の創造活動です。これが宇宙規模の持続の前進の先端付近で繰り広げられているドラマです。 それは生が不規則かつ多様に分化する過程であり、ある目的へ向かう方向(例えば下等から高等へ)を持った直線運動ではありません。こうした目的論の否定は、これまでの過去・現在・未来の説明と同様ここでも直線上の運動を否定する形で行われます。 ベルクソンは榴弾の炸裂による不規則な飛散を例として、無秩序な分岐による進化の運動を説明します。もちろんここまで大林作品を見てきた私たちがイメージしておくべきは、榴弾よりも花火のさく裂であるべきですね。 では多様な分化とはどのようなものか。展開にはまず二つの方向があり、下降するのものは最小限の収縮を維持しつつ物質となります。もう一方は自らの創造力、つまり生の営みによって自らの創造者となります。さらに傾向の度合いによって複雑に分岐しつつ、やがて意識的傾向と無意識的傾向を示すようになる。前者は知性であり、後者は本能です。 今回お手製の図画像が少ないのは、こうしたエラン・ヴィタールを円錐体に重ねて図示することを私が放棄したためです。いやイメージはありますがそれは誤解を招くだけです。 ここまで見てくると「過去が現在に身を乗り出している」巨大な持続を、あらためて「ひとつの生命は他の生命に身を乗り出している」と言い換えることが可能です。円錐体を持続によって構成する個々の生命は、それ自身が生命を伝達する通路であり、記憶のように身を乗り出しているかのよう。 例えば、良くも悪くも『創造的進化』には以下のような表現が目立ちます。 「生命とは胚子からおとなの有機体を介してまた胚子へとすすむひとつの流れのように見える。(中略)この見えぬ進歩の背におのおの馬乗りになって見える有機体は、しばしの時を生きる」、「母性愛が示しているのは、どの世代も、次に継ぐ世代に身をのりだしているということである。生物はともかくひとつの通路であり、生命の本質は生命を伝達する運動のうちにあるということを、母性愛は垣間見せてくれる」 とうとう母性愛まで持ち出されてしまいました。こうなってくると持続における生命の在り様って、ハーロックが鉄郎に語りかける「親から子へ、子からまたその子へ、それが永遠の命だとオレは信じる!」と同じ次元かよ!と言いたくなりますが、開き直って言えばそう、極めて近いですね。困りました。 困るのはそれだけではない。多様な分岐について基本的には偶発性を根拠に置きながら、「生命が前進する先に調和があるのではなく、調和は後方にある」と実に美しい表現で目的論を否定しつつも、進むべき進化の方向の価値には、いくぶん人間中心主義というか優生思想的な煙たい匂いがしないでもない。 しかし、こうしたことを常識的感覚で読み進めると少し意外な論点が出てきます。分岐において生命本来の進むべき領域を判断し得るものは、"知性の傾向"よりもむしろ"本能の傾向"である、とされるのです。 え?持続の最前線で最も進化に寄与しているのは我々人間の知性ではないの?と言いたくなりますが、ベルクソンは本来的に持続を意識できるのは"知性"より"本能"であるとします。 バタイユもたしか『宗教の理論』冒頭で、「虎は世界の内に、水の中に水があるように存在する」と語っていました(引用不正確)。 境界のない内在性は本能に親しく、知性のように事物を判明に区切ったりしていない。難解な議論を迂回してやっと持続なるものを理屈で解する私たちに対し、確かに本能はもっと持続に身近だろう。 ではエラン・ヴィタールを決定的に善い方へと発動させるものは本能なのか?ベルクソンはそれを"直感"と呼びます。直感は知性と本能との相互補完によって、人で言えば知性への傾向を断ち本能の傾向へと向かうことで成り立つ認識能力である、ということです。 それってまた「本能を呼び覚ませ!」みたいなワイルド系コピーと同次元じゃん!と言われかねない展開ですが、ここで私が注目しておきたいのは、直感概念の説明においてベルクソンがモデルとするのが、芸術家の美的直観であるという事実なのです。 芸術家の創造行為とエラン・ヴィタール、そこに共通して内在するのは予見不可能性と創造性です。それは持続を収縮させることで生命を肯定し、未来へとブレイクスルーする運動です。 ここでもやはり芸術、ベルクソンおまえもか... ▼ そして芸術のほうへ 過去の偉大な哲人たちがその思想の結論に近い部分において、芸術に与え続けてきた驚くほど大きな価値を私たちはいくつも発見することができます。 ベルクソンは生命の進化を駆動する原理に、芸術家の創作行為が内在するものを重ねました。ハイデガーもまた存在の真理をいち早く察知する役割をヘルダーリンをモデルとした詩人に見ました。カントの三批判書の最も核心的な部分が美的判断力であることを思い出してもいいでしょう。 『野のなななのか』で交わされるバルザックの『知られざる傑作』的議論、愛する人の裸婦像を、線(知性)ではなく血で描くとは、彼女と同じ持続を生きることを意味するでしょう。 そして、中原中也の詩には時空を超える高い価値が与えられます。 「死んでいく子供を前に「嘔吐」は重みをなさない」、サルトルの発言を前に芸術は二次的役割しか果たせないのは事実です。しかし「生きる理由になり得るか」を問うなら、答えはたちまち「なり得る」はずです。 「生や死が正当化されずとも」「何も解決されずとも」それでも宗教や政治ではなく最終的に芸術を信じたのは行動の人A.マルローです。 映画『掘の中のジュリアス・シーザー』の中でシェイクスピアに触れた実際の囚人は最後にこう口にします。「芸術を知って、監獄が地獄になった」。 芸術家は、眩暈をおこしそうなほどのこうした芸術の力を信じているはずだし、芸術家という呼ばれ方は拒否するかもしれない大林宣彦監督もきっとそうだと思う。 『この空の花』と『野のなななのか』の慌ただしい賑やかさを考えながら、ときに稗史の意思を問わないかのような表現者の暴走ぶりについて、すでに中段で問題提起しておきました。 それは体験者がときに口を閉ざさざるを得ない震災や戦争体験、その表象不可能性と対峙するうえで誤解を招く姿勢ではないのか、真摯な態度に欠けてはいないか? 「世界中の爆弾を花火に変えて打ちあげたら、世界から戦争がなくなるのにな。」という善き人の夢見心地に、寄り掛かりすぎてはいないか? 「科学の進歩には科学以外の言語構造が必要だ」、これは硬直化する科学研究に警鐘を鳴らす量子物理学者ボームの言葉です。科学以外の言語構造とは具体的には芸術のことであり、文学や詩、絵画やダンスといったものが想定されています。これは危機意識に基づく我々の進化のための大真面目な提言です。 大林監督が芸術の名において選択するアプローチは、こうしたボームの危機意識にそのまま重ねることができるはず。 結果として慌ただしく総動員される演劇、テキスト、写真、アニメーション、詩、絵、音楽、これら表現手段は互いに境界線を持たず一元的に混在しながら"A MOVIE"という名の芸術へと収斂してゆく。まさしくそれは「芸術家に内在する予見不可能性と創造性」の賜物であり、生の肯定です。やはり調和は、前進する先にあるのではなく後方にあるのです。 もちろんここには、エラン・ヴィタールを炸裂させる大林宣彦監督の行き過ぎた情熱の空回りが認められます。しかしそれはアインシュタインに対峙したときのベルクソンの空回りなのです。要するに、ボームの警鐘が的確であると同時に、非常に困難なものであることを示しているだけの話なのです。 私にとって二つの映画が大騒ぎでまき散らした感動は、ここまで書いてきたように表現するほかないものでした。 自分の中では以上のとおりの答えがすでに出ていますが、最後にしつこく、冒頭で触れたことを反芻して再度この二本の映画に問うてみます。死者と生者が共存し、過去と現在、虚と実の境界がなく、登場人物はカメラに向かって語りかける、それは扱う題材に対して厳密さを欠くことにはならないか、反実証主義の烙印を押されることはないか、アイシュタインに無視されはしないのか? 答えはやはり同じです。この映画が足場を置く概念、それが持つ大きさとスピードにはいかなる実証性も追いつきようがないのです。
by hychk126
| 2014-08-10 21:57
| 映画
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