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「オリヴェイラ」みたいな感じで「タルベーラ」だと思ってたタル・ベーラ監督の『ニーチェの馬』(The Turin Horse 2011)は、事前に見ていた予告編の段階で、そこで見えてる以上のことが本編でも起こらないであろうこと、それでもしかし短くない本編に退屈させられることがないであろうことがよく分かるものでした。それくらい予告編に映る荷車を牽く馬や、老人や、石造りの家や、砂埃といったものが、強烈な存在感を発揮していたのです。...で、実際に観た本編はその通りのものでした。 ちなみに『ニーチェの馬』と聞いて真っ先に思い出したのが、ルー・サロメ、パウル・レー、フリードリヒ・ニーチェを1枚に収めた下の有名な写真です。まさしく「ニーチェが馬」なこの1枚、我らがニーチェだけカメラ目線を拒否していつもの神妙な顔つき。あのおヒゲのせいもあるけれど、笑ったニーチェの顔って見たことない。仮にこの写真のニーチェが3人の中で一番吹っ切れたギャグとして、まさしく馬になりきった結果のこの表情であるのだとしても、やっぱり微妙だ。 ニーチェの「永劫回帰」の思想は、初めて形を持って語られたのが「ツァラトゥストラはこう語った」だったこともあって、幾分文学的に装飾され過ぎてたり、また、ニーチェの肯定意思の到達点でありながら、あまりにもとんでもないところまで到達しているために、それがポジティヴな肯定意思とはとても思えない感じもあって、批判も多く実にややこしいものです。 「永劫回帰」(ewig wiederkehren)を乱暴に説明すると、有限の系(全物質)と無限の「時間」を掛け合わせた世界(つまりこの世界)では、文字どおり同じことが永遠に繰り返される...という理屈に従って、(物理化学では到底受け入れ難いソコの理屈を流して良ければ、)ものすごく簡単に言ってしまうと、同じことが繰り返される世界では「来世での救済」などという考えは通用しないのであって、悔い改めてる余裕があるんなら今を肯定せよ(..というか肯定するしかない)という、常人からすればあまりに肯定的過ぎて夢も希望もないネガティヴにも成り得る世界観ですね。 もちろん後付け的なものまで含めてこの思想の解釈は様々で、中でも「ニーチェの哲学」から「差異と反復」に至るジル・ドゥルーズのものなどはさすがに美しいわけですが、しかしその美しさはやはり、読者をひっぱるドゥルーズのあの語り口の上手さのことでもあって、個人的に「永劫回帰」はやはり、ニーチェの病発症に繋がる「全く同じものがクルクル回る」...くらいの過激さとして、理解しておきたいところです。 そんな「永劫回帰」については(文字通り)後ほどクルリと戻ってきたいと思いますが、まずは『ニーチェの馬』、オープニングのナレーションがニーチェと馬に纏わるエピソードを披露こそすれ、ニーチェが直接物語に関与するわけではないこの映画の邦題は、決して無理のあるものではありません。感傷が暴力的なまでに排除され、ペシミズムからニヒリズムへと突き抜けるその世界はまるで死後の世界のよう。さらに先に触れた「永劫回帰」の思考が、音楽のミニマリスムの助けを借りながら、やはり前向きなのか後ろ向きなのか分からない形で、ドス黒く変奏されて行きます。 まず、本作を観た人ならおそらく誰もが驚くであろう幕開けのインパクトが強烈です。映っているものは老人が手綱を取る荷馬車の歩行ですが、映画全編でもおそらく数十カットくらいで構成されている本作の中でも、このオープニングの1カットは持続そのものが見せ場としての価値を発揮しており、それは『宇宙戦争』でトム様父子が街から車で逃げるシーンや、『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』のバイク・ チェイスシーンと、同質の価値と興奮をノー・ギミックで提供してくれる...と言っても過言ではない(?)もので、この映画の徹底した地味さを懸念する観客へのウェルカム・ショットとして意表を突く秀逸なものであり、不気味にスペクタクルな幕開けだとも言えます。 しかし、こうしたショットの長さに支えられているというだけではどうにも説明が付かない、映っているものたちの画面に顕在する強度のようなもの...これは何なのか? 鑑賞直後にTwitterでやりとりさせていただいたMasataka Otakaさん(@mstkotk) は、(劇中何度か繰り返される)女性が水汲みのために井戸へと向かうシーンと、イラク戦争で戦闘機が飛び立つショットとの類似性に触れておられて、とても興味深く感じられました。確かに、バケツを手に室内から疾風吹き荒ぶ室外へと向かうそのシーンは、まさしくスクランブルの瞬間の像に重なるかもしれません。描かれているのはただ井戸に向かう女性の労働であるだけなのだけど。 ここでは、生の糧を得るためのアクション(労働)のいちいちが、どれもスペクタクルと言って良い存在感で描かれています。それは上で触れたオープニングの荷車シーンがすでに雄弁だし、水汲み出撃に匹敵するアクションだと言っていいあのジャガイモを食べるシーンだってそう。あれを最初に観て驚かない人間はいないと思う。 井戸の水汲みシーンに話を戻すと、屋内から玄関の両壁を左右に捉えて、その中央が屋外へと開けて行くその構図は、カメラ位置が低くなければジョン・フォード的でもあるのだけど、そのようなショットとしての説話論的な類似性云々..はここでは重要でない感じがして、むしろ語りたくなるのは、先ほどのOtakaさんのご指摘にあったような、その画見たまま「○○に似てる」という感覚であるということ。ここで生のために敢行されているだけのアクションの数々は、そんな語られ方こそが相応しいと思わせるものとして、やたらなインパクトを発揮して迫ってくる。なぜなのか? 一つには、ジャガイモを食べる、井戸に向かうといったアクションに、それ以上の読むべき意味が貼りついていない為、つまり、あまりにも剥き出しのピュアなアクションであるが為、ということは言えそうです。では、普通なら貼りついてるはずの意味性とは何かというと、食べる行為や、水を汲む行為や、荷車の移動といった運動そのものが、時に隠れて見えなくなるほどの「物語性」だと言えるでしょう。 そして、本来ならアクションをオブラートに包むはずのそうした「物語性」の意味を追求するなら、それをトコトンまで突き詰めると、(一般論として)宗教的な信仰をめぐる意味に行き着くだろうと思う。だから、宗教映画でなくても普通の物語でさえあれば、愛や信仰は少なからず紛れ込むものだと思っているのだけど、この映画にはそれが全く無い。...特定の宗教を持たない人間でも、その「全く無い」様に恐怖を感じるほどだ。 舞台設定を良く理解していないけれど、食事の前に祈りを捧げない父娘のあの部屋には、生を維持するための最小限度のものしかなく、十字架など掛かる気配もありません。そして、信仰の徹底的な排除によって、父娘が見せる丸裸のアクションには、疑念も後悔も自省もまるでありません。全てがルーティンとして肯定されたものであり、それは、虚無的な世界観であるにも関わらず、力強く肯定されていると言えるほどで、しかしこの肯定の力強さは、前向きに捉えていいのか後ろ向きに捉えていいのかまるで分からない、そんな不気味なものとして伝わってきます。 幾分強引に、論をニーチェに接近させてきました。 上で触れてきた剥き出しのアクションはどれも強烈なものでしたが、それらはおそらく映画が始まる前から繰り返されている日常のひとコマであることを、映画は少しずつ教えてくれます。石造りの家の中では眠りから覚めて間もなく火を熾し、井戸の水を汲み上げ、馬の世話をして、時間がくればジャガイモを茹で、それを素手で食べて、窓の外を眺める。映画は、わずかに数日間の出来事を描いていますが、観ている我々はそこに永遠を観ているかのようです。映画が始まる前から、そこにはあの疾風が吹荒んでいただろう。 「永劫回帰」の考え方が、肯定の力強さよりもむしろ恐怖を感じさせてしまうのはつまり、今生きていることがこれほど大変なのに、それを何度も生き直すことに対する恐れ、といったものだと思います。『ニーチェの馬』が描きだすあの世界が時に恐怖に近い感情を引き起こすのは、まさにこの意味においてだと思う。 「永劫回帰」において、この恐怖を大いなる肯定に転換する為にはニーチェの言う「超人」の思考が必要になる。そして、どう考えても「荒地とともに生きる!」的なポジティヴな側面を、『ニーチェの馬』の老人に認めるには相当な覚悟が必要となります。...観客の「超人」的思考が求められているのか、あの老人自身はもしかして超人なのか? もう少し具体的な内容に沿って見て行くと、この映画は、驚くほど閉じた毎日のルーティンに対して、あちこちで世界の外側から亀裂を入れ、変化を与えようとします。 まず最初に、序盤間もなく馬が荷車の牽引を拒否し始めます。やがて、老人の知人らしき男が訪れて外の世界の様子を話して聞かせます。やがてまた、通りすがりの賑やかな一行が井戸の水を目当てに石造りの家の敷地に無断で入り込んで来ます。老人にとってこれらの外的変化は日常の想定範囲内であるようで、迷いなく(外側に)追い返してしまうわけですが、水目当ての一行の一人は、老人の娘に対して、からかい半分ながら幾分示唆的に一冊の本を手渡して去って行きます。これは明らかに外側からの「知」の侵入であるでしょう。 夜、ランプの仄かな灯りのもとで娘によって読まれる本の一節から、それが信仰をめぐるものでこそあっても、詳しい内容までは分かりません(ニーチェ?)。ただ、これが変化の胚芽に繋がりかねないものであることはなんとなく理解できます。 やがて、井戸の水が枯れるという一大事によって、亀裂による変化は強制的かつ決定的なものとなります。水の枯渇は、老人の重い腰をいよいよ動かし、娘と家財とともに、石造りの家を離れるべく、動かない馬を無理やり引き連れて旅立って行きます。....がしかし、それでも再びあの家に舞い戻ってしまうシーンは、ニーチェ的というよりはむしろ、カフカの「城」のような不条理な進退不全にも重なる不思議なシーンです。ここでは明らかに円環構造が意識されており、自由意思さえ認められません。...そして、結局石造りの家に戻った父娘に対して、今度はランプに火を灯せなくなるという、超常現象のような事態にまで亀裂は進んで行きます。 ランプが灯らないことを、ついつい超常現象などと言ってしまいましたが、しかしそもそも「永劫回帰」の方こそが超常現象じゃん!、という「超人」ではない「常人」の思考を発揮して、物事を冷静に考える必要があります。 「知識も歴史も不可逆である」、つまり変化こそが必然、と考える方が私たちの理にかないます。ランプが点かなくなるという変化の方が、遥かに自然だろう。 この映画で描かれている外側からの亀裂とはつまり、同じことが繰り返されるという事態に反旗を翻して、刻々とした変化の中にしか森羅万象は存在し得ないという諸分野からの証明、例えば熱力学であったり、カオス理論であったり、量子論であったり、弁証法的発展であったり、...と、つまりは現在の私たちの「知」そのものであると思う。 老人はそれに抗して、とうとう水が無いためにナマのままジャガイモをかじるに至る。このラストシーンは意味深く、老人に即されても娘はナマのジャガイモを(とうとう)食そうとはしません。もちろん硬くて食べれないこととも無関係ではないけれど。老人は「食べなければいけない。」と言い、それでも娘は手をつけようとしない。....ここではやっと、何事かが断ち切られつつあります。 再度繰り返しますが、ここでの老人を、生(存在)に対する力強い肯定として前向きに捉えるべきか、後ろ向きに捉えるべきか、前向きに捉えるためには「超人」の思考が必要なのか、老人こそが「超人」なのか...。 私は本作をめぐるタル・ベーラ監督のインタビューや思想、本作のあるべき解釈等について、全く意に介さないまま好き放題書いてるので、ひどい見当違いであるかもしれないけれど、映画は「永劫回帰」も「超人」も、ポジティヴには描いておらず、また、アレゴリーとして適度な距離を保つ風でもなく、後期ニーチェ的世界観を戯画化することで、それなりに鋭利な刃を突き付けているように思う。 キリスト教のルサンチマンに対して、ニーチェ的肯定の立場からそれを攻撃するのは、映画や文学の得意とするところだけど、逆に、キリスト教的な信仰を賛美しようとする場合、どうしても自己満足的な愛へと沈殿するものが多く、ニーチェ的肯定をターゲットとしてそれをカウンターで迎え撃つ、という風にはなかなか成り難い。 ここでタル・ベーラ監督が、信仰の側に全幅の信頼を置いて、信仰の名にもとに、難易度高い対ニーチェ反撃に打って出ているわけではないし、ナマのジャガイモを拒絶する娘の態度表明も考え方によっては「永劫回帰」のポジティヴな面に吸収され得てしまうことではあるけれど、それでもやはり、ここでは後期ニーチェ思想に対する否定的なデフォルメがなされているだろうと思う。 正直に言うと、ここまで長々と書いてきた主義主張性とは無縁に、ひたすら労働のアクションを凝視すべき映画、という捉え方こそが本作の理想的な需要の仕方のように思えるのも事実です。 しかし、あのシリアスで硬い映像でありながら、それでも意外とユーモアのある論調で、変化の無いことと変化を拒絶することの不自然さ、変化があることと変化に応じることの自然さ、といったものを並べながら、そもそも「永劫回帰」や森羅万象といったものに巨視的に対峙することよりも、微視的に限られた寿命を生きる現在の私たちの、その成長や老いという、確実で抗いがたい変化こそが重要ではないか?、...くらいのことは言ってるんじゃないか?...「え、超人?ムリっしょ!」、みたいなノリとまでは言わないけれど、まぁそういうこと。
by hychk126
| 2012-06-14 21:45
| 映画
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Comments(2)
ヴィデオ・フォローしました。芋ばかり食べてる映画と聞いていたのですが、これは劇場で観ておきたかったです。
いつもながら誠実で繊細な文章で、 hychkさんの論考の方でも楽しみました。 私は、一度観ただけでは、ニーチェへの追従か反論かというとこまでは考えられず、おっしゃるような映像の強度に目を奪われるばかりでした。 ただ「永劫回帰」がテーマになってるのは分かって、冒頭とラストのBGMが、途中から始まり途中で終わっていて、それがある種の救済であるとも思うのですがまた、この作品が「ニーチェの馬」なるタイトルである以上、それに抗するなにかが描かれていたようにも思います。
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hychk126 at 2012-11-06 12:52
あ、もうビデオ出てるんですね。これ、観賞後ずいぶんたってますが(これ以降ブログ更新できてない事実に今愕然としてますけど)、日を追うごとに自分の中で存在感が高まってて、ヘタすると今年のベスト1に挙げてしまう勢いがあります。私もぜひあらためてビデオで観たいです。
onoderaさんがTwitterのほうで触れられてたジャガイモの個性については同感ですが、でも実際に痩せたものや小粒なものがそのままあの画面にそのまま映ってたら、それはかなりの恐怖ではないか、と想像します。(なんとなく)
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