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現在公開中の園子温監督『冷たい熱帯魚』(Coldfish 2010)を京都シネマで鑑賞しました。
ふとしたキッカケから連続猟奇殺人事件の片棒を担ぐことになった男(吹越満)の悲劇が、R-18+指定に違わぬ血の海の中で描かれる本作、自らの欲望に忠実なシリアル・キラーに扮するでんでん、その妻で狂気の超真性マゾぶりを発揮する黒沢あすか(最高です)など、全身を血で染めた個性派キャストたちの憑かれたような熱演に圧倒される2時間半でした。 物語のベースは1993年世間を震撼させた埼玉愛犬家殺人事件です。 ある程度予想はしてましたが、凄い映画でした。 「凄い」の意味についてはこれからあれこれと感じるところを書き連ねてみたいと思っていますが、しかしまずそれ以前に、R-18+指定に違わぬエロスとバイオレンス、ゴア描写そのものの手加減の無さをつかまえて、単純に見世物小屋的な意味で、安易に「凄かった」...という風に解してもらっても、別に構わない、...、この映画を高く評価したい立場にとって、驚きの質がそういう安易なものであっても一向に困らない、..というのがこの本作の強さです。 以下、そういう安易に「凄い」と言えてしまうことも含めての話になります。 まず、個人の居場所や社会的承認の問題、家族的コミュニティの崩壊や、再生・代替の処方箋といった主題は、園子温監督がメジャーに移行し始めてから特に顕著なもののひとつですが、それがここでも繰り返されながらも、そういった主題の周辺を周回しながら模索するその手法が、作品を追う毎に、確実に直接的...というか、より具象的なものへと変化してきているのが明らかであって、その急加速ぶりがとうとうこんなところまでたどり着きました、という到達点を見る思いがしました。 すでに映画監督としてのキャリアが最もメジャーな園子温監督ではあるけれど、それでもいくつかの映画が醸し出す独特の雰囲気というのは、どこかいまだに"アウェー"というか、"異邦人"っぽいというか、そんなベッタリじゃない映画との距離感のようなものが常にあって、監督自身もそれを意識的に武器にしている向きがあったような感じるのですが、『冷たい熱帯魚』に至って、世界や社会に向ける観察眼、及びそれに留まらない憂いや賛美の眼差しが、結局はむき出さざるを得ない「映像」というものを主に取扱う「映画作家」のそれへと、完全に"変貌し切った"、という感じがしてなりません。 『冷たい熱帯魚』は、映画との距離なし。ネガティヴに聞こえるかもしれないけれど、映画に帰属したとも言いたい。 他の全ての芸術から羨望される「音楽」や、映像に対する優位性の中で語られることの多い「文学」、その他諸々のメイン・カルチャーなどから見下されて仕舞いかねない「映画」の"通俗性"のようなものが仮にあるとして、それは、見世物性を内包することと合わせて、物語を語ることに最もコンビニエンスな効果を発揮するがゆえの宿命であるかもしれませんが、それを、例えばドゥルーズ的言説などを根拠にしながら、「映画」の凄さをそれに相応しい高尚な場所に配置しよう...ということではなく、また、自らゲリラ的にアングラへと潜行し、その表現の可能性を(必ずしも通俗性への反抗にはならない)前衛性によって研ぎ澄ます...ということでもなく、、あえて言うなら、「映画」="見たまんま"、という、表現としての「むき出し」具合を、徹底して研ぎ澄ました武器にしてしまう、...というニュアンスによって、近年の園子温の、映画作家としての(いまさらな)完成への経緯を説明できそうな気がするのです。 もちろんこの変化は突然降って湧いたものではなく、すでに近年兆候が見え始めていたことです。『エクステ』(2007)のときも、真っ当(?)なジャンルとしてのJホラーかと思って一瞬「おおっ!」と身構えましたが、どうもそうは問屋がおろさず、やっぱり決定的なタイミングは前々作『愛のむきだし』(Love Exposure 2008)で訪れただろうと思います。そこでは、得意の主題を扱いながら、見たままの訴求力の強さが一気に明瞭なものになっていました。 急加速で直接的な表現へと変化しているように見える園子温の映画からは、しだいに"行間"(から滲み出るもの)が排除され、「映画は難解では有り得ない」みたいな極論へと、ドンドンと向かっているようだ...、ということで、本稿の論旨は『愛のむきだし』の時に書いたことを引き継いでほぼ内容が被ることになりますが、 その変化の完成形として『冷たい熱帯魚』を捉えたい、...もちろん、時系列的に見ていくと、間に『ちゃんと伝える』(2009)が挟まることになるのでちょっとややこしくって、あれは、監督と脚本がセットでないと成り立たないことの多い園子温の作家性が、ときには弊害に感じられることもあるその代表的な例と言えるもので、ここでは軽くパスさせてもらいつつ、『冷たい熱帯魚』はあくまでも、『愛のむきだし』から直接バトンを受けている、ということにして先に進ませてもらいます。 少し振り返っておくと『愛のむきだし』は、4時間持続する語り急ぎと言い、文字通りの映画のタイトルと言い、そういった変化の加速ぶりが明からさまでした。それまでの作品と比較しても、例えば、ゼロ教会を名乗る集団が、どこかショーケース入りの新興宗教団体のように誰の目にも分かりやすくモデル化されていたり、それが、主人公が超克すべき"敵"組織として曖昧さなく明確に位置付けられていたりして、そしてまた何よりも、決着の付き方の真っすぐさ、その実直さ(結論がある)に、少なからず驚かされたものです。 では『冷たい熱帯魚』はどうか、いくつか見ていきたいと思います。 決着の付き方、そのエンディングについて言うと、ハッピー(勝利)かアンハッピー(敗北)かの違いこそあれ、今回も全く同様の実直さだ、と言っていいでしょう。 プラネタリウムを愛するロマンティストの敗北は、オープニングからすでに極端に矮小化された父権の不全として十二分に描かれてはいましたが、その敗北が完膚なきまでに幾重にも上塗りされることになるラスト・シーンは、前作同様に曖昧さが微塵も無く、これ以上ないくらい明確で実直に結論付けられている、と言えます。 正直最初は、崩壊した主人公が終盤で車中を血に染めるシーンを見て、後部座席に座り込んむ黒沢あすかを捉えたカメラがゆっくり退いていくところで、「これで終わりか」と一瞬固唾を飲みました。(クレーン撮影のあのシーンは、明らかにそういうフラれ方だし、脅迫的にダイレクトな2時間半の中で、唯一"詩的"にも感じられる美しいシーンだ)...というのも、この映画の結論は、主人公の家族との関係の成り行きにあるはずであって、それが宙づりにされたまま観客に委ねられて終わるのか、映画がそれを目に見えるものとして用意するか、という瀬戸際があそこにあったからです。 で、映画は、ここまで書いてきた論旨と期待を裏切ることなく、実に当然顔で、終焉に向けたさらなる加速を見せてくれるのでした。 本作が見せようとするものをもう少し見ていきます。 徹底的に人を支配することや、支配下に置かれる人間がその感情を麻痺させていく様というのは、それ自体大なり小なり過去の園子温の作品で繰り返されてきたモチーフではありながらも、しかし、その過程を、ロジックそのものに寄り添って、今回ほど間近からじっくりと観客に提示しようとするのは、初めてではないかと思います。すでに宗教的な題材に留まらず、昨年世間を騒がせた検察聴取問題までをも包括するこうした問題を、映画は、「とにかく今回はその過程そのものにこそ関心がある」と言わんばかりに、丁寧に描きだそうとしています。そこでは、想像力を掻き立てるような省略は頑なに拒否されており、変化球さえ出そうといていません。 さらにまた、こうした直接的なものを指向する変化の、その加速に比例するように、ちょっとしたシンボルや読解すべき記号の類も、画面からその姿を消しつつあることに気付きます。今回で言えば、かろうじて、絶対的に救いのない状況を飾る汚れたキリスト像やマリア像くらいなものではないでしょうか。番いの猟奇殺人者の到達した解脱域をも物語るそれらさえも、すでに暗喩の働きを担おうという風情もなく、パーカッションの乾いた打音とともに、それこそドーンっと、むき出しのままこちらに迫ってきます。 こうして、結論を観客の感性や価値観に委ねたり、象徴を配置したり、全てを見せなかったりすることで、行間に多くのものが滲み出るような作りは、ことごとく避けられています。これは「解釈のブレを許さない」とか「とにかくこれを見ろ」とか、観客側のヘタなイマジネーションに極力依存させたくないという、表現者としてのシンプルでストレートな欲求に基づくものであるのかもしれません。... 園子温監督は、そのための手段として映画が最も有効であると結論付けるに至り、とうとうそれを確立したのではないか、...と言いたくなる、そんなインパクトが『冷たい熱帯魚』にはあります。 劇中使用される音楽も、むき出しでこちらに刺さるような裸のパーカッションがメインで、情感を撫でるようなオブラートはありません。あとはギャグにも取れるマーラーの交響曲第1番の現第三楽章の葬送曲。あれは映画館出た後もしばらく耳から離れないですね。 マーシャル・マクルーハンから言葉を借りて言うと、映画を、「参与度」の低い受動的鑑賞のメディアと位置づけるとすれば、反対に「参与度」が高く、想像力による積極的な補完や自主的な選別を要するものの先端に、(つまり映画の対極に、)テレビを飛び越えてウェブ・ブラウザを介したメディアを置くことができそうです。確かに、暗闇の中で、固定された場所で、一定の連続した時間、一方向に対して束縛を受け、見るべきものがある程度選別済みであるものを受止める、というのは、極めて受動性が高いと言えるかもしれません。 と、すでにそんな風に言える映画において、それをより徹底して、観客の能動性を奪う、つまり、そこだけは自由なはずの「想像力」といったものさえをも封じてやろう、という企みは、自主的な行動の思考を奪われた『冷たい熱帯魚』の主人公に、自分(観客)がオーバーラップされるような感覚として伝播します。そしてこのような効果は、さきほど対極に位置づけた「参与度」の高いメディアが圧倒的なボリュームをもって生活の中に溢れかえった現状を考えると余計に、ひどく脅迫的なものとしてこちらに迫ってきます。 確かにシナリオ上に「それはないだろう」という破綻点がないこともない『冷たい熱帯魚』はしかし、ここまで書いてきた意味で、間違いなく今年最もパワフルな1本になるでしょう。「パワフル」などと書くと何も語れていないバカっぽい感じですが....、そこには、すでに映画に帰属しながらも、引き続き面構えだけは異邦人のままな感じの園子温が、言わば"実戦向き"の武装化を果したような空恐ろしさがあります。 間接的なものを捨て去り、最短距離でこちらの思考に切り込んでくるようなこの実戦向きのスタイルはしかも、基本は飛び道具を使わない正攻法であることが勇ましく感じられます。 実戦向きだけど、正攻法。...もちろん、切断された頭部やペニス、また、日本映画では有り得ないほどのリアルにドス黒い血のりなど、それって"飛び道具"だし"反則"だろう...という意見もあるでしょうが、ここで言いたい正攻法の意味はつまり、『冷たい熱帯魚』のただごとではない性急さは、どうもカメラを置いて回せばひとまず写ってしまう生々しい現実が醸すライヴ感に寄ってはおらず、偶発性が発揮する効果ともやはり違ってて、むしろ、"理詰め"の設計・固めの演出によるものとしか思えない、ということです。 それは役者たちの演技も同様で、もちろん役者の自律性やキャスティング決定時点での勝利要因もあるけれど、あれだけ滅裂な暴走ぶりが、不思議と秩序立った一つの大きな興奮の波へと収斂されていくというのは、絶対に緻密なコンダクトなしでは成し得ないはずだから。 劇場で見たポスターに書かれてあったレビューに、「コーエン兄弟が日本映画を撮影したのかと思った」(-Film School Reject)というものがありましたが、確かに切迫した状況がブラックな笑いを誘う瞬間など、共通点が皆無ではないけれど(「俺とこいつが死んだらお前一人でやんなきゃなんないんだぞ!」はさすがに笑った..)、今の園子温と比べると、ジョエル&イーサン・コーエンの作品はより文学的で、ゆえに(と言うべきか、)今の園子温作品ほど"実戦向き"ではなく、より形式的だと言える気がします。 ところで、さっきから言ってる「実戦向き」ってなによ?... というのは自分でも書いてて実はよく分かってませんが(笑)、観客を対戦相手(?)と捉えた場合に、さきほど上で書いたように、その相手の自主性を奪うインパクトとも関係ありますが、もう少し別の側面から言うと、例えば、円熟とか洗練といったキーワードでは到底立ち向かえそうに無いここ15年くらいの韓国映画の衰えぬ怒涛の勢いを考えたとき、そういったものに真っ向から挑むことができる稀な日本映画だ、といった強烈なイメージだったりするのですね。 なんというか、ひとまずケンカがめっぽう強い感じ。....と書くとますます意味不明ですが...。 本作と同じように恫喝とバイオレンスで成り立つ北野武監督の『アウトレイジ』(2010)を先日ビデオで観ましたが、スタイルとして完成しつくした調和の中で、恫喝もバイオレンスも決められた場所にただ嵌められているだけ、という感じが拭えないのは、もちろん"ヤクザ"というビジネスそのものが、伝統と格式を重んじているせいもあるとは言え、すでに古典芸能のようにしか楽しめなくなった北野バイオレンスが、同じように美学指向を持つジョニー・トー(香港)にもすでに及ばず、また、たまたま『アウトレイジ』の翌日にビデオで観たヤン・イクチュン監督デビュー作『息もできない』(Breathless 2008 韓国)の切迫感(..私は世評ほど高く評価してませんけど..)にも対抗できないことを、いまさらとは言えしみじみと感じさせられました。 検閲の廃止や、民間出資の形態が一般的になって以後の歴史がまだ浅いと言える韓国映画は、高度経済成長...というか、いまだに近代化途上の中にある、......がゆえの「勢い」や「キラメキ」、というのは明らかに有利に働くわけですが、そういう追い風をいまだに得ている韓国映画の知性や切迫感といったものに、一切の追い風を必要とせず正面から立ち向かうことができる、......という....それが「ケンカが強い」感じ。....すみません、どうも喩えがよくなく混乱する一方なので、この件はこのヘンでやめておきます。 以上、「凄い」から始まって「むき出し」とか「パワフル」とか、挙句に「実戦向き」で「ケンカが強い」とか、全く何も語れていない賛辞が並んだ投稿になってしまいましたが、映画がむき出せばむき出すほど、それを語ろうとする言葉は映画に近づけない感じがあります。その行き着く先は、「目に見えたままの内容が、全てを語っているのだ、....」「....だから、言葉なんて不要!」...みたいな、つまらなく残念な一般論に落ち着いてしまうのかもしれません。 .......観客のイマジネーションをかき回す『自殺サークル』のほうがどれほどスタイル良く語れたり議論を深掘りできたりすることでしょうか......。 村田愛子(黒沢あすか)に関する補足考察 さて、すでに完成している新作『恋の罪』も、現実の猟奇殺人事件を題材としていると伝え聞いています。私は映像の断片もまだ見ていませんし、具体的な内容についての情報は知りませんが、主題が似ているうえに今回もR-18+、とは言え、『冷たい熱帯魚』とは路線が変わるのではないかと想像します。 単純に監督のカメレオンぶりからそれは想像できるし、何よりも、「これはこれで良しっ」(『冷たい熱帯魚』の方向性はこれにて完成!)、....みたいなノリで、ある程度園ファンが広く公認するところの、かつてのテイストに回帰するのではなかろうか、と勝手に想像を逞しくしながら、もう1、2本は現状のスタイルの延長で暴れて欲しい気持ちもありつつ、いずれにしても楽しみにしています。
by hychk126
| 2011-02-19 18:28
| 映画
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Comments(2)
ようやく感想が書けました。
時間かかりました。 なんか書けば書くほど無駄に思えてくる映画でした。 とにかく見ればいいじゃないか、と。 二人のヒロインは素敵でしたね。 妙子の方が顔が好みです。体もいやらしいです。 でも愛子に惹かれます。 あの笑顔はかわい過ぎます。 まぁDVDは買うことが決まりましたので、また見直したいと思います。 「恋の罪」楽しみです。
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Commented
by
hychk126 at 2011-03-04 01:01
>さかもとさん
ほんと、待ってました。 ちなみに、今年に入ってさすがに観なければと思って「紀子の食卓」は事前に鑑賞しておきました。 それについてもこの記事の中で触れようと思ったのですが、ものすごく長くなりそうなので機会を別に譲ることにしました。 後ほどおじゃましますね。
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