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3Dの日本語吹替版で『アバター』(AVATAR 2009)を鑑賞。
どちらかと言えば保守的な私としては、懸念していた「映画の未来を左右するような事態」がココで起こっているわけではないことに、まずは安心しました。もちろん、撮影機材に留まらず、映写設備にまで影響を与えるインパクトは、音声や色彩を獲得したときと比べて決して小さいとは言えないけれど、それを言うなら、すでにフィルム素材からデジタルへの移行という数年前から確実に起こっている変化のほうが映画にとっては遥かに大きい変革で、3D自体はアトラクション性の高いデジタル化の副産的位置づけでしかないだろうと思います。 家庭用テレビの3D化も、ハイビジョン映像が普通に感じられ始めた今、もうそれしかないみたいに語れていますが、一体どれくらいの人がそれを望んでいるのかはものすごく疑問です。 ![]() さて、ジェームス・キャメロン監督12年ぶりの新作となる映画自体は、3Dという(まだまだ)珍奇さが先行する語られ方に振り回されるのが残念なくらい、スケールの大きさで他を圧倒するパワフルな仕上がりだと感じました。 しかし、そこで駆使される技術の達成は大変素晴らしいものながらも、果たして十数年間出し惜しみするに足るほどのものかどうかは疑問で、その時々に可能な技術を最大限駆使して、その時々にやりたいことをササっと軽やかにやってしまう、という柔軟さが、本来的に(システムとしてではなく)主題としてのB級丸出しが得意なはずのキャメロンには必要だったはずで、『タイタニック』(Titanic 1997)以降、モニュメンタルと言い得るスケールの仕事に執着しているように思えてならないキャメロンの腰の重さが、ファンにとっては幾分もったいなく感じられます。 おそらく、『殺人魚フライングキラー』(1981)の監督は、『タイタニック』以降、作品の出来そのものとは直接には関係のない、それ以前とそれ以後の一線を画するモニュメントとしての仕事に意味を見出してしまってるように思えるのですね。これは作品の品質そのものに対する完璧主義的な病いとも少し違うもので、『タワーリング・インフェルノ』(1974)でも『風と共に去りぬ』(1939)でもいいですが、"評価によって結果として"映画史に名を残す傑作となる、だけではなく、最初から、他を圧倒する資本と技術とスケールの大きさでもって映画史的に金字塔を打ち立てること自体を目的にしている、という類の野心だろうと思います。 そういう野心なものだから、キャメロン沈黙の真っ最中に、例えばウォシャオスキー兄弟が技術面で画期的な仕事をしてしまうと、もうそれだけでそれを超えることが意味も無く課せられるわけで、一線を画するためのハードルが日々どんどん上がってしまっていって、なかなか安易に着手できないという間抜けなスパイラルが心理的に作用していたのではないか、と想像してしまいます。 今回の『アバター』にしろ『タイタニック』にしろ、あそこまで徹底的にやることで、作品の出来そのものとは少し離れた部分で、スケールの大きさ自体に意味が出てくる、つまりモニュメントとしての存在価値がある、ということが言えるだろうし(『アバター』は完全に技術依存作品なので後世にその名を残せるかは疑問ですが)、私はそれを決してつまらない価値だと思わないし、むしろ意義のあることだと評価したいのですが、結果としてキャメロンの腰の重さは尋常ではなくなってしまっていることが、もう少し容易に楽しみたい一ファンとして残念であるわけです。 ![]() 残念...、というのも、思い起こせば90年代以降、本来であればアメリカ映画はジェームス・キャメロンが牽引するはずでした。80年代から90年代にかけての仕事ぶりは、評価の良し悪しはあっても、間違いなくアメリカ映画=キャメロンの時代としての道筋を示していました。ところが、『タイタニック』以降10年以上にわたる隠遁がそれを拒絶してしまい、結果的にジェームス・キャメロンの時代は来ませんでした。 では、近年のアメリカ映画は「誰の時代」と位置づけられたのでしょう? サム・ライミやティム・バートンの時代、もしくは、ジョエル&イーサン・コーエンやデヴィッド・リンチらの時代だったかと言えば、その功績の大きさや、ある種の傾向を代表し得る立ち居地といったものが確実に感じられはしても、アメリカ映画を代表するような強かさや、「彼らの時代」という必要以上に大袈裟な語られ方には、どうもマッチしない感じがあります。 『恋におちたシェイクスピア』(1998)と『アメリカン・ビューティー』(1999)がアカデミー最優秀作品賞を立て続けに受賞したあたりから、監督の個有名に対して、アメリカ映画を代表させるような「誰それの時代」などという大袈裟な代名詞を与えることが、ますます困難になったように思いますが、それでもムリヤリこの論旨で続けるなら、デヴィッド・フィンチャーやクエンティン・タランティーノが凄くなってきている事実も個人的には無視したくないし、また、アメリカ人としか思えないトニー・スコットの巧さに、かろうじてそういう代名詞を与えることが妥当かもしれない、という気持ちもあって、しかし、そう言うのであれば、なんだかんだ言っても結局はスティーヴン・スピルバーグとクリント・イーストウッドの時代が現在まで不気味に継続してきた、...ということに落ち着いてしまう気もします。......が、....やはり、「それを言っちゃあおしまい」感は否めないわけです。 やっぱり、ジェームス・キャメロンこそが、一番健全に「アメリカ映画」の代名詞にフィットしたはずです。"キャメロン"と声にしてみたときの響きもね、、、、なんとなく。......しかし、時代を背負うには、質だけでなく多作であることも重要です。特に社会的地位としては低俗に扱われがちな映画では。 そして残念ながら、ジェームス・キャメロンの時代は、到来しかけて、結局訪れませんでした。 しかし今、こうして『アバター』を観ることができるのはとにかく目出度いことですから、キャメロンの野心に対しての愚痴はここまでとして、まずは心から歓迎しておきたい。 ![]() さて、これだけの内容で前後編分けて上映しないことが、本来普通ながらも最近のトレンドを考えると潔く感じられる『アバター』は、上述のようなファンの渇望を完全に癒すほどの文句なしの大傑作か、と問われると、間髪置かずにイエスと応えることはできません。...ただ、同じように製作サイドにかくれてしまって、久々の監督復帰作では一体何がしたいのか分からないようなリュック・ベッソンとは違って、キャメロンは引き続き良い仕事ができる職人だ、ということは言えます。 実際、『アバター』はおもしろい。人間関係や個性のディティールには手を抜いても、要所要所のクライマックスに向けての盛り上げ方は手抜きなし。物語そのものはびっくりするほど目新しさがないのに。 異文化の中に生きる敵対する立場に立つ異性の心と肉体の交流をフロンティアを舞台として植民地主義的な伐採を背景に描く、という、もうとんでもなく目新しさのない物語。 確かに、あそこまで極端に、主人公が相手側に寝返って「えいえいおーっ」と率先して威勢を挙げ、あげくにあそこまで人間側を血祭りにあげてしまったり、また、あそこまで極端に「力には力で」対抗する対立構図をむき出しにするというのは、ある意味では「ものすごく斬新」と言えなくもないのだけど、(同じシチュエーションで徹底抗戦となった『ラストサムライ』のトム・クルーズでさえ、もうちょっと苦悩してました、)おそらくそこに深い作為があるわけではなく、単にキャメロンの無邪気さ全開の成せるワザであり、それは観ているこっちにも「あらあら..、もういいや、いっちゃえ、」と、そのお気軽さを感染させてしまう不思議な能天気さ発揮していおり、むしろ斬新とは正反対の感触としてこちらに伝わることになります。 本作には明らかに問題意識を弛緩させる効力があって、中国での上映制限などといったニュースを聞くと、珍しく分からないでもない気もしますが、話しを戻すと、この平坦な物語を前にして、"今語られ得る物語の全て"に目新しさなど有り得ないのだから、という断固とした意思のようなものはさすがに感じられないけれど、『タイタニック』同様、スケールの大きい視覚表現を至上命題とする本作においては、物語の平坦さが最適の背景にはなり得ているのだ、...と、ムリヤリ擁護したい気持ちになるのですね。 ![]() 例えば『タイタニック』のメロドラマ性、主人公の二人に与えられた身分の格差を含めて、そこには目新しさがなくても、二人の悲恋という物語は、あのジョームス・ホーナーによるサウンドトラックと同じで、タイタニック号が90分かけて沈んで行く視覚的なダイナミズムを彩る感傷的な背景として、見事に機能していました。言うまでもなく、あれは客船沈没という悲劇を背景にしたラヴロマンスではなく、主従はその逆だったはずです。 同じように『アバター』の中で起こっていることも、映像の迫力がシナリオの古臭さを補う、ということではなく、むしろ複雑で目新しいドラマ構成はジャマである、と言わんばかりに、ここで視覚に訴えかける映像の迫力にとって、カンバスは可能な限り白くてフラットなものが良い、と理解したいです。 これは、以前『ボーン・アルティメイタム』(2007)に関して書いた、シナリオのありきたりな貧弱さが、観客が高速アクションに集中して堪能できることにに貢献している、という事態に近いでしょうし、また、黒澤明監督の映像や美術造形への病的な拘りが、結果的にドラマ(ヒューマニズム)の簡素化を召喚する事態にも近いと言えば近いのかもしれません。(いや、後者はたぶん違う話だと思いますが...) とにかく、超ビッグ・スケール&超ハイスピード・アクション&ド肝を抜く視覚効果で他を圧する作品を、そこに意味深長な暗喩や複雑な心理描写や混み入った状況設定といったものを内包しながら、無理して描いてしまうと、稀に『ダークナイト』(2008)や『マトリックス』シリーズ(1999-2003)のような奇形的傑作が誕生する可能性は有り得ても、まず100発99中疲れるだけの映画になってしまいます。時代を代名詞的に背負うのに相応しかったはずのキャメロンは、女性に的を絞った使命感や母性に執着するという不思議な側面を持ちながらも、基本はあくまで変化球を持ちませんので、そんな100発1中を狙うことはできないし、上述したようにこれでいいわけです。 ここでは、誰も読み誤らない、解釈に対して負荷のない物語が、炸裂する視覚効果に最大限貢献しています。 同じ意味で、(これは禁じ手かもしれないけれど、)私が堂々と日本語版を選択してしまったのも、実はタイムテーブルの関係だけではありません。 ![]() ...と、書いてて、キャメロンの何をフォローしているのかワケが分からなくなってきましたが、... だから、シナリオが手垢にまみれたテンプレートをそのまま使用していること自体には問題を感じない、どころかむしろ好感が持てるのだけど、ただどうしても気になることもあって、フロンティアものにおける型どおりのドラマ構成の中で、捻りどころと言える"アバター=分身"という神経回路操縦によるバーチャルな要素、また、平々凡々だったはずの男が救世主になってしまうという展開、こういったものに、私自身多少なりとも拒否反応を示してしまいそうになったことです。 ...って、そこに拒否反応を示しちゃったらこの映画の全否定じゃないか、ということになってしまいますが、そこまで受け入れ難いことではなく、ため息を2、3回漏らす程度のことですなのですが、.. ...そう、ダメ男がバーチャルに活躍する明晰夢の快楽、また、バーチャルでなくても、都合よく救世主に祭り上げられて潜在的なパワーを発揮し、モレなくイイ女をゲットする、といった、もともと子供向けヒーローもの定石と言える「ダメ男がある日突然」系の展開は、もちろん昔からある定番とは言え、『マトリックス』以降のアメリカ映画であまりにも反復され続けており、それが食傷気味に感じられるのですね。 それは『アバター』でも例外ではなく、さすがに成り行きでバーチャルにイイ女(?)までモノにしてしまうに至っては、「ジェイク、お前もか...」といったため息を漏らさざるを得ません。 この傾向はグロテスクと言いたいほど数多くのアメリカ映画のシナリオを侵食してしまっており、病んでいるのか、あまりに無邪気すぎるのか、よく分からない状況ですが、だからたまにクリント・イーストウッドが一貫して変わらない強くて弱いを生身の男を等身大で描くとき、それが清涼剤のようにこちらにスルスルと入ってきますし、また『アバター』では、クライマックスでしだいに肉弾戦の様相を呈していく格闘において、それが狂った悪役であってさえ、あの大佐の一貫した信念の勇ましさに対して、ついつい拍手を惜しまなかったりする人も少なくないのではないかと思います。 ![]() ...あのクライマックスの戦い、いいですね。 単に「アニメオタク的感性が最後まで全開だったね」、とも言えますが、ここでもやはり万能時代におけるもどかしさとしての、「肉体への回帰」が果たされています。途中ずっと、「原始的な兵器 vs 最新鋭兵器」、という『戦国自衛隊』か『1000年女王』か(すみませんヘンな喩えで)、はたまたイウォークと帝国軍との戦いのごとき展開で盛り上げながら、衛星からの照準で事足りてしまうはずの技術の恩恵がある時代に、最後はやっぱり「これしかない」とばかりにポカポカ殴りあい。ここではそれが「マリオネット vs 搭乗型ロボット」というむちゃくちゃゲテモノ的な対戦カードとして、戦いにおける「最後はやっぱり...」に対するキャメロン流の拘りがクライマックスを盛り上げてくれます。キャメロンは暗黙の約束を裏切りません。 最後に、 鑑賞用に装着するメガネは、わたしのように眼鏡を常着している人間には多少の違和感がありますが、2時間半を耐えられないレベルではありませんでした。(ふだん常着している眼鏡の大きさや重さにもよるでしょうが) 3Dの効果は、本来ウリにされるはずのビックリ系要素はほとんどなく、奥行き重視であること自体には好感が持てるのだけど、でもやっぱり「これだったらいらないじゃん」と思ってしまうし、こちらの慣れ云々とは別次元で、ところどころフォーカスの深度が不自然に感じられる部分が多々見受けられました。 ぜひ通常映像でも鑑賞したいです。
タイトル : 「アバター」
AVATAR 2009年/アメリカ/162分 at:TOHOシネマズ梅田監督: ジェームズ・キャメロン 脚本: ジェームズ・キャメロン 撮影: マウロ・フィオーレ 音楽: ジェームズ・ホーナー シニア視覚効果監修: ジョー・レッテリ 出演: サム・ワーシントン/ゾーイ・サルダナ/シガーニー・ウィーヴァー/スティーヴン・ラング/ミシェル・ロドリゲス/ジョヴァンニ・リビシ 「ジェームズ・キャメロン監督が、自らも長年にわたって開発に関わってきた3D技術をはじめ最先端の映像テクノロジ......more
タイトル : 映画:アバター 3Dが実現する、驚異の「もうひとつ」の地..
数年前、年末に「いちおう押さえなくちゃ.....」レベルで見に行き、これは「そうとうヤバイ」とあせった「タイタニック」それはもう12年前のこと.....その監督が、満を持して送り出す3Dアドベンチャーと言えば、「映画」あるいは「劇場」の未来を占う意味でも、早々に劇場に駆け付けざるえない。それが今作「アバター」期待したのは、巧妙なストーリー・テリングでもなく、俳優陣でもなく、アクションでもない。最新技術3Dを駆使して、いかに「新世界」をかいま見せるか、だ。その結論は。。。キャメロ......more hychkさんを含めた多くの人達が言われているような「面白さ」が、今回は、皮肉ではなく本当に見出せませんでした。 ハリウッド全体の、『アバター』への期待というのは、前々から聞き及んでいたので、身構えすぎしまった、というのもあったのかもしれませんが、『2001年宇宙の旅』や『スター・ウォーズ』のようなSF大作とは、それでもやはり、あらゆる点で比べるべくも無い、と思ってしまいます。 ほぼ全編CG、というのも影響してるのかもしれませんが、制作費がかかってるわりには、『エイリアン2』、『アビス』、『タイタニック』に感じたようなスケールの大きさ、大作感に欠けている印象を受けました。 気持ちとしてはフォローしたいのですが、今回ばかりは本当にダメでした。私がズレてるのかもしれません。 ところで、文中で述べておられる、アメリカ映画を牽引する存在ですが、全体の牽引というには少々不完全ながらも、ピーター・ジャクソンがその位置に当てはまるのかな、と思っています。 onoderaさんがズレているのではなく、イベント性が高いので興行収入が大きいのは当然として、結果的に期待ハズレなのは多数意見じゃないかと思います。 >アメリカ映画を牽引 ピーター・ジャクソンは大好きですし、私もそう思いました。 ただ、彼がハリウッドに呼ばれてアメリカ資本で活躍し始めたのも、上で書いたイギリス人監督の2本がアカデミー作品賞を連続して受賞した時期に近くて、この時期以降、かつてのハリウッド映画が進んで貪欲に混血を求めて強靭になっていった頃の図式とはちょっと違う、やみくもな才能の輸入と、血の薄さのようなものが感じられます。 むちゃくちゃ単純に言うと、ニュージーランドとアメリカの血が混じって、結果的に強靭な「アメリカ映画」となる...というのではなく、普通のハーフみたいな感じ。 システムとしてのアメリカ映画が弱っているのでしょうが、引き続きアメリカ映画が世界一おもしろいとは思ってます。 onoderaさんところでいただいたレスへの返しになってしまいますが、酷もなにも、「アバター」が進んでキルゴア=ワルキューレに歩み寄っていたのでしたね。 ご無沙汰です。 最近は週末はブログお休みタイムを儲けておりまして、お伺いするのが遅くなってゴメンなさい。 >懸念していた「映画の未来を左右するような事態」がココで起こっているわけではないことに、まずは安心しました。 >一体どれくらいの人がそれを望んでいるのかはものすごく疑問です。 前宣伝の割には…ということで、見るまでは映画もとうとうこんな時代に突入したのか、映像文化の主流はこの先どうなるんだろうかって、悩むところまではどうもいかなかったようで、そういう意味では一安心ともいえますね。 私はもともとテーマや人間の内面を追求するといったヨーロッパ映画好みもあるのだろうけれど、最終的には観客動員で映画が評価されるといった傾向って抵抗感じる。やっぱり若い時にみた「ベン・ハー」とか「大脱走」とか(たとえ作品が古すぎてってジェネレーション・ギャップ感じさせてゴメン<笑・汗>)っていう娯楽大作なんて描きたいっていう愛情みたいなのがあったように思う。 グダグだと書いてしまって長くなってゴメン。 WOWOWで松本清張生誕100周年特集で原作の映画化作品が放映されているけれど、あの時代、邦画もいい映画作っていたなってつくづく思う。映画にこめられた愛、これだけは、この映像で撮らなければっていう愛があったよなって痛感する。時代感覚とか価値観がこの数十年間でずいぶんと変わってきたということもあるだろうけれど、映像文化としての映画って、いまの3Dの潮流の方向とは違うきもするし、では、映画ってなんなんだ?ってちょっと考えてしまう。面白かったらOK、楽しかったらOKでは満たされないものがあるものね。 なんかまとまらないコメントでゴメン。 こんなんで、今年もヨロシクお願いいたします! <追記> 横レスで。 >酷もなにも、「アバター」が進んでキルゴア=ワルキューレに歩み寄っていたのでしたね。 だろうなって私も思う。 シュエットさんこんにちは。わたしのレスもものすごく遅くてすみません。 やっぱり、シュエットさんも「映像文化の変革」が起こっていない、ということに「安心」される派なのですね。 私は、映画に限らず、刻一刻と進化を遂げるガジェット類でも同じで、それほど望んでいないのに変化が早すぎて疲れて仕方ないのです。そういう変化にはそれなりにおもしろがって付いて行ったりもしますし、便利になることは歓迎したいのですが、でもやはり一度買えば5年以上使いたいですし、変化は緩やかなほうがありがたい、というなんとも日和った人間です。(でも、出先での読書を考えると、やっぱり先ごろ発表されたi-Padは欲しかったりします。) 絵画美術の分野でも、フレームと平面そのものに自覚的なモダンの時代を経由しても、その根底は揺るぎません。絵画と同じようにフレームを持つ映画が、観客全員を座席に束縛して一方向を凝視させる、という形態を突き抜けることはありません。そこまで行くと、「映画」ではなく「ビックリハウス」でしょう。 どうも私はこういう当たり前のことに安心してしまいます。 (続きます...) いずれにしても、SF映画でたびたび描かれる「車からタイヤがなくなる」という事態はインフラ整備としても遠く先のお話でしょうが、立体映像は急速に身近なものとして迫ってきました。 ただ、立体映像がアトラクション性の高い見世物から一皮剥けて、真に生活に浸透するためには、専用眼鏡の問題のクリアが必要ですし、それがクリアされない間は、わざわざ専用眼鏡を装着してドキドキワクワクしながら臨む、という極端なアトラクション性をウリとする見世物だけで充分だろうと思います。 近未来や異世界の技術の賜物として目にしてきた立体映像、例えば「スターウォーズ」でレイア姫がオビワンに助けを求める3Dレター、「マイノリティ・レポート」で主人公が過去に耽溺する別れた妻の3D記録、ああいうのを見るたびに感じてきたのは、すぐ目先の近未来に待ち受けているのがこんな粗雑なホログラムなら、平面なままでいいからより高精度化に向かったほうが良い、という思いです。だから個人的には、映像文化の進化の道筋として目先で分岐している、スーパーハイビジョンと立体映像という2つの流れでいうと、前者の発達への期待のほうが大きいです。 (もうちょっとだけ続きます...) 「アバター」とはあまり関係ない話になってきましたが、繰り返すと、もっともらしく書きながらも、私のベースにあるのは変化への警戒心だろうと思います。
「映画」で言うと、珍しく小学校低学年のころから変わらず愛し続けているという愛着が間違いなくあって、上で書いたガジェットと比べても、映画に対する価値感は特別堅牢なもので、そんな自分の価値観を状況に合わせて変化させることが面倒くさいという意味での、実に保守主義的な警戒心だろうと思います。 (終わります。)
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