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▼ 過度であること あの屋根瓦の連なりが観たくて、ブラームス交響曲第1番第4楽章のように書かれたあの曲とともに、画面いっぱいに映し出されるあの屋根瓦の鈍い輝きが観たくて、それだけのために数年に一度あのDVDを手に取るということが有り得ます。 今はあの無防備なヒューマニズムに近づきたい気分ではないし、今は180分という時間の束縛にも耐えられない。だから、せめてオープニングの屋根瓦の美しさだけを観ようと、DVDを再生する。 この映画の全編で駆使される緻密な音設計は、オープニング早々すでに十全です。 ベートーヴェン交響曲第9番第4楽章のようにも書かれたあの曲は、弦音が途切れる曲間の静けさの中に江戸後期の庶民の生活音を湛え、神への賛仰(「歓喜に寄せて」)と日々の糧を得る庶民の生活とを美しく交感させることに成功しています。 が、いまはともかく、そんな読みなどせずとも、まずはあの屋根瓦を観ることです。 ひとまず今の目的を達成する(屋根瓦を観る)には、オープニングのタイトルバックだけつまみ食いすれば済む話なのだけど、きっと次のような要らぬ欲が出てきます。 「このまま観続ければ間もなく、物語の舞台となる小石川養生所の門構え、あのダブルクロス(双十字門)を拝むことができる。」...そのクロスは本編開始後ファーストショットに圧倒的な存在感で登場します。そして、映画のラストショットにおける暗転する被写体でもあります。 そのクロスは、この映画を国際カトリック映画事務局賞へと導くこととなる象徴的なモチーフとして読むことが可能ですが、独特のアングルで仰ぎ見るように撮られるクロスの存在感には、ただそれだけで観る価値があるのは先の屋根瓦同様です。 「このままあと数分観続ければ、舞台となる養生所の屋内を画面いっぱいに堪能することができる。」... つまり、一切の妥協を排した執念の美エイジング効果が発揮された養生所屋内セットの威風、柱や床、板戸、薬棚、食器類、画面を満たす具象群の放つ鈍い美しさ、そうしたものを画面いっぱいに味わうことができるということです。 それは、どこか行き過ぎた美しさだと感じられます。 オープニングの屋根瓦をつまみ食いするだけのつもりが、こうしてずるずると観始めて10分余り、ここまで来ると、とうとう黒澤的ヒューマニズムを受け入れる心の準備ができ始め、以後180分という時間についても都合をつけるべく調整し初めている自分に気づきます。 あろうことか、無防備なヒューマニズムに対して無防備な涙を流すことを心する、そんな準備までもが意に反して整い始めている。 この映画を観るためにいちいち重い腰を上げるべく、毎度の儀式ともイントロダクションとも言うべき、必然ではあるが実に回りくどいこうした自分の思考回路は何なのか。 『赤ひげ』は1965年に公開された黒澤明24本目の監督作品。原作は山本周五郎「赤ひげ診療譚」です。 黒澤監督にとって、最後の白黒作品であり、最後の三船敏郎主演作であり、最後のシネマスコープ作品であり、最後の東宝単独製作作品であり、…と、様々な点で最後づくめであることに加えて、いくつかの点で黒澤映画の頂点を示す作品として語られることの多い名作です。 このように「頂点を示す」などと語られる時、きっとそこには「完璧主義者の徹底」とその達成があるはずです。しかし、私はさきほど「行き過ぎである」と表現しました。こうして「過度」などと表現される時、そこから感じられるのは「完璧主義者の病」のようなものであるでしょう。 行き過ぎているものは、屋根瓦であり、養生所のセットであり、ダブルクロスであり、そうした具象そのものに加え、それらを画面にあのように見せる技術のことでもあります。つまり、映画の外観であり、フォルム全般のこと。 例えば、黒澤時代劇のセットを支えてきたお馴染み美術の村木与四郎氏による焼板エイジングについて、ここではそれも監督を満足させるには至らず、多くのスタッフを巻き込んでいつ終わるともない塗料替えと磨き上げが続いたという罰ゲームのようなエピソードが伝わっています。 そしてこれもお馴染みのキャッチライト(役者の瞳に映り込ませる光)の手法は、主人公(加山雄三)を襲うカマキリ娘(香川京子)の瞳と、彼女が握るかんざしの先端とを逃すことなく同時に捉え、恍惚とした狂女の殺意に見事なハイライトを与えることに成功しています。 また、おとよ(二木てるみ)の小さな目を的確に狙う光については、このヒロインの心の闇を浮き彫りにするに留まらず、時にホラー映画か表現主義かと思わせるほど過激な効果を発揮しています。 画面の可視的な造形に関わるこうした全ての拘りと実践、現在であれば、ポストプロダクションにおけるデジタル処理で済まされるかもしれないものの奢侈な実現、その圧倒的な成果は、本来なら「表現の高み」として語りたいことであり、実際、過去の多くの黒澤作品について私もそう感じてきました。 例えば、気を許すと形而上絵画のごとく遠近法が破壊される『どん底』(1957)のボロ長屋の強烈な存在感、また、斜傾の火山灰地に黒塗りの鎧壁がそびえ立つ『蜘蛛巣城』(1957)の非現実的な存在感、こうしたものはいずれも、映画に対して貢献的な表現の高みであることに興奮させられこそすれ、映画に対してオーバースペックであるなどと感じることはありません。 それは、椿三十郎に斬られた室戸半兵衛の体から噴き出す血飛沫のような、極端なギミックであっても同じです。 フィクションが求めるのは、必ずしも現実のリアリティではない。 そうしたことを肯定的に踏まえてなお、『赤ひげ』のフォルムが過度に感じられるということ。 それは、物語の中身、文脈、主題、つまり「黒澤的ヒューマニズム」と言えるものに対して、極端さを示していると言えます。 黒澤的と言われるヒューマニズム、それは(もっと狭義に)曖昧さの無い人道主義を指します。 『赤ひげ』における人道主義的主題は、貧しい人々の善意とそれを支える正義、その強さと勝利を断定することで、ヒューマニズムの危機や、ヒューマニズムへの問いが排斥されていると感じるほど単純化されています。 つまり『赤ひげ』は、マニアックなまでに奢侈に実現した映像表現において頂点を示し、一方で極端に単純化された人道主義的主題においても頂点を示します。 これら二つの要素は、黒澤作品を特徴付けるものとして広く指摘され続けてきました。 つまり『赤ひげ』に限った話ではないのだけれど、おそらく『赤ひげ』には、「頂点を示す」と言われる、その頂きの度合いに問題がありそうです。 「極めて単純なこの人道主義的主題は、これほどまでにマニアックなフォルムを必要とするのか?」「完璧主義者の病とも言うべき極度の拘りは、この人道主義的主題に対して貢献的であり得るのか?」 こうした問いには、次のような一般論で反論したくなります。 「徹底的に拘り抜いたフォルムこそが、そこで描かれるヒューマニズムに説得力を与えているのだ!」と、これが一般的になされがちな問答であるのだけど、しかし、 例えば私は、『七人の侍』(1954)における衣装やセット、奇跡的ロケーションのスタンダード画面への収まり方など、あの映画を支える理想的なフォルムについて、賛辞を送ることに躊躇しません。 『羅生門』(1950)を成り立たせる前衛的と言える数々の撮影技術についても、この物語がそれに相応しい主題から一気に舵を切り、黒澤的性善説へと収斂していくことに対して、なんら障害にはなっていないと思います。 『生きものの記録』(1955)や『天国と地獄』(1963)前半の屋内劇に、『七人の侍』の合戦と同規模のマルチカムが必要なのかを考えれば、それは論理的には過度であるかもしれませんが、画面上の成果は有無を言わせず理想的なのです。 こうして延々と黒澤作品への賛辞を惜しまない私が、『赤ひげ』に関してそれは過度だと言う。繰り返しますが、これは程度の問題です。 『赤ひげ』という映画特有の深い陰影は、単に光学的な効果に起因するだけでなく、マニアックなフォルムへの執着と、類型化された人道主義の単純さ、この二要素が両極端に振り切った結果の強いコントラストによっても醸成されています。 この二要素は、互いに相手に対して貢献的なのではなく、相手の極端さをより浮き彫りにしているわけです。 こうしたコントラストは、このブログでも何度か触れてきた例を挙げると、宮崎駿やスティーヴン・スピルバーグの作家性における、ヒューマニズムと破壊衝動のコントラスト、特に破壊衝動がヒューマニズムを凌駕してしまうスリルに通じるものがあります。 黒澤明にしろ宮崎駿にしろ、それぞれ特性として抱える二要素は、計算された効果としてのシナジーなど時にお構いなく、ただ作家の欲望に忠実に爆発する瞬間をもっています。その時それは、暴力的とも言える「単に極端な二つの要素」なのです。 私について言えば、『赤ひげ』のあまりの造形美に、オープニングの屋根瓦だけで映画一本を観終わるに匹敵するほどのカタルシスを感じることができます。 同時に、あまりの無防備に振り切った人道主義は、「金持ちは悪人とは限らないし、貧乏人の心が優しいとは限らない」などと、自分に言い聞かせる必要性を感じさせます。 ともに極端なこうした要素が、映画の中で貢献的なシナジー効果を生んでいるのであれば、そうしたバランスの中に自分は「理想的な一つのもの」を観ているはずです。(多くの黒澤映画はそうです) しかし、私が『赤ひげ』の画面に観ているのは、「二つの凄じいもの」なのです。 そのようにバランスを欠いた総合芸術を、傑作、名作、頂点などと崇めて良いのか? ここにはやはり程度の問題があり、過度であることの振り切り方の圧倒的度合いにおいて、『赤ひげ』を最高傑作、映画史に残る名作と認めざるを得ません。 しかしそれは、『七人の侍』が理想的に最高傑作であり名作であるのと比べたとき、どこか不穏な評価だと感じます。 この不穏さは、その後のキャリアを含めて、事後的であるからこそ俯瞰で感じられることでもあるのですが。 (終) ▼佐八とおなかのイメージ 『赤ひげ』の類型的な人道主義が顕著に単純化されるのは、映画の後半部です。 岡場所(非公認の遊郭)から養生所に引き取られた少女(おとよ)のエピソードが描かれる後半部は、山本周五郎の原作を離れ、ドストエフスキーの小説『虐げられた人びと』に登場する薄幸の少女ネリーを下敷きにした黒澤原案のオリジナルエピソードです。 ゆえに、上で書いてきた黒澤的ヒューマニズムが自在に暴走する体を成しています。 一方、映画の前半部は、山本周五郎の原作からいくつかのエピソードを編む形で構成されており、もちろん黒澤好みの人道主義的主題に貫かれてはいるものの、それほど極端に類型化されているわけではありません。 原作未読の私にも窺い知れるのは、黒澤組脚本チームの手が入る前の原作は、それほど単純な人道主義に与するものではないのだろうということです。(よく分かりませんが。) この前半部で私が好きな「佐八とおなかの悲恋」を描くエピソードについて、ここで少し触れておきます。 車大工の佐八(山崎努)が女(おなか=桑野みゆき)と出会い、愛し合う。二人は一緒になって暮らし始めるが、間もなく江戸の町を大地震が襲い、女は佐八の前から姿を消す。...というあらすじ。 おなかを弔う佐八の善行と、それを思い遣る長屋の住人たちという構図について言えば、上に書いてきた論旨に相応しい単純さに収まる描かれ方です。 一方、ここでそうした単純さに収まろうとはせず、むしろ非・黒澤的とさえ言たくなるのが、地震を機に佐八の前から姿を消すおなかという女性の胸懐です。 道理に反した自分とは、佐八と結ばれたことで義理のある周囲を裏切り、「一生分の幸せを味わった」と感じる自分のことです。 大地震の混乱を機に、「思い残すことはない」と考えて、彼女は佐八の前から姿を消します。 おなかが「一生分の幸せ」を凝縮して味わうこと、そこにはエロスがあります。 それは祝祭的であり、享楽的消費の概念、(バタイユの言う)消尽や溢れる生の余剰に通じることであり、さらに、神の暴力によって罰せられるという彼女自身の理解によって、真のエロスを特徴づけることになります。 エピソード後半で再び姿を現した彼女が、死を決意して佐八の住む長屋を訪れる夜もそうです。ここにも、その一夜のその一瞬に、生の全てを凝縮して消尽する、祝祭的な歓喜と恍惚があります。 このエピソードには、「死」をめぐる禁止と侵犯、つまり、エロスそのものが内包されています。それは、類型化された人道主義云々としてきた論旨に否定的傾向を示す、明らかに非・黒澤的なモチーフです。 実際、端正に構成された素晴らしい画面の構図が連発するこのエピソードにおいて、そこで駆使されるパンフォーカスが、主題としてのエロスなるものにどれくらい到達し得ているかを問うなら、残念ながら黒澤の関心は大きくそこには向いていないと感じます。 こうした単純ならざる要素は、映画後半で特に顕著な黒澤的ヒューマニズムの暴走に対して、原作の持つ力が拮抗していると理解すべきでしょうか? この辺りをもう少し掘りたいと思いつつ、「キメ過ぎ」と思えるほどの印象的な画面を、いくつかのイメージとして振り返っておくに留めたいと思います。 ▼センチメンタル・ヴァージン 主人公の青年、保本登(加山雄三)は童貞です。 彼は、三年ばかりの長崎遊学から江戸に帰った青年医師であり、幕府の御目見医の席につくはずが、不本意にも物語の舞台となる小石川養生所の見習医として働くことになります。しかも、遊学中に婚約者のちぐさに裏切られ、失意と強い女性不信(嫌悪)のうちにこの養生所の門をくぐるのでした。 劇中、訪問診療で岡場所を訪れた保本は、赤ひげから「こういうところ(女郎屋)で遊んだことはあるか?」と聞かれ、「(将来を約束した人がいたので)ありません。」と答えます。推察するに主人公は、「自分は(婚約者への)貞節を尽くしたにも関わらず、アイツは、」という類の恨みを根に持った童貞であるようです。 童貞童貞と繰り返していますが、ここで性的に未成熟である主人公をからかいたいわけではありません。実際、(保本の話を真に受けて聞く限り、) 婚約者をひどい女だと感じこそそれ、保本については鼻もちならない世間知らずであること以上の瑕疵は感じられません。 ここで触れておきたいのは、この映画が、童貞である主人公がその性的未熟さを克服し、大人の男になるまでを描いているだろう、ということです。 『赤ひげ』は何よりもまず、一知半解の未熟者が、人として医師として一人前に成り合うまでの自己実現の物語です。それは、師弟関係という黒澤作品ド定番の「男の関係」にどこまでも忠実であり、未熟な若者(保本)の反発が、完成された大人(赤ひげ)への共感と尊敬へと変化していく様を、観客の誰もが見誤ることはありません。 同時にここでは、性的未熟さを克服して大人の男性に成る、そんなイニシエーションとしての体裁が、メタファーなどといった有り様に収まらない露骨さで示されているのも事実です。 ざっと流れを追っただけでも、入門後間もなく失意の童貞に対して立て続けに襲いかかる洗礼の数々は、どれも荒療治なものだと感じます。 まず、座敷牢に隔離された美しい狂女の誘惑があります。もちろん保本の太刀打ちが敵うはずもなく、瞬殺でノックアウトされます。 さらに、麻酔の無い時代、開腹手術の痛みに暴れる全裸の女の両足を下腹部の側から押さえつけるという、保本にとっては実にタフな役回りとなりますが、これもたちまち気絶してしまいます。 失意の童貞にとって、これらはいずれも肉体的解放を伴う、強烈に過ぎる性的な洗礼です。 徐々に自分の(性的)未熟さを自覚し始める青年は、その後も、若い男を自分につなぎとめるために娘と結婚させる鬼母のエピソードや、すでに上でとりあげた佐八とおなかのエピソードなど、性の醜悪さ、祝祭的傾向、侵犯的側面など、セックスから離れることのできない状況の中に立ち続けることになります。 これは、入門早々容赦のない、赤ひげなりのOJTであり、ショック療法であるでしょう。 『赤ひげ』における師弟関係という黒澤的定式は、同じく本作におけるヒューマニズム同様、その類型化の度合いが黒澤映画の頂点を示していると言えます。こうした関係性の中で、保本の成長に性的隠喩をかぶせるのであれば、三船敏郎扮する赤ひげはセックス・マイスターのような存在であるのかもしれません。 (こうなると、精力剤を扱う某薬局が赤ひげの名を冠するのは、あながちおかしい話でないどころか、実に深い洞察だと感じないでもありません) ちなみに、美しい狂女に惑わされ殺されそうになった保本に対して、赤ひげは強く叱ることなく、「恥じることはないが、懲りるだけは懲りろ」「それに、男は美しい女に弱い」などと理解のある語りかけをします。 完全無欠によって人間的魅力を欠きかねないマイスターもまた、かつては女に手を焼く性的な失敗談を有すること、あの狂女においても少なからず痛手を負った経験を有するであろうことを想像させる、良いシーンだと思います。 さて、映画前半で赤ひげが保本に課してきたOJTは、成熟した大人の女性の種々のものが渦巻く苛酷なものでした。保本にとっては手に負えるものではないものの、荒療治を経た彼のの性的免疫力は、以前とは比べ物にならないほど高いはずです。 やがて、赤ひげから「お前の最初の患者だ」「治してみろ」と試験のようにあてがわれるのが、女郎屋で虐待を受けて心を閉ざす12歳の少女、おとよです。少女は保本にとって残された課題、女性不信克服の試金石となります。 以後展開される少女と保本、二人の合わせ鏡のようなエピソードは、自分を裏切ったかつての婚約者への赦しと、新しい婚約者を受け入れる(人を信じる)心へと、保本を導きます。つまり、黒澤の画面に笠智衆と田中絹代が並ぶ、豪華ながらも違和感のある祝言の大団円です。 それは、肉体的にも精神的にも、童貞が克服されたことを示しています。 性的な未熟さを克服して大人の男になる主人公、という論理の表れ方は、映画が意図的に用意したフレームであるのか、もともとの原作が、メタファーであること以上に主題化している要素であるのか、私にはよく分かりません。しかし少なくとも、「死」と隣り合わせの場を舞台としたドラマである以上、「性」を描かざるを得ないことに何の不思議もありません。 それが極端に類型化されたヒューマニズム云々に収まり難い、非・黒澤的モチーフであることは、すでに佐八とおなかのエピソードに限っても確認できたことです。 こうしたことに対して黒澤監督がどれくらい意図的であったのか、意識的に取り組んだのか、分かりません。 手術室で全裸の女性が暴れるシーンを観るたびに、それが(おそらく)黒澤映画唯一のヌード・シーンであることの希少性に、監督の意識的な本気度を感得しつつも、同時にそのあまりの即物的な捉え方(色気の無さ)に、やはりほぼ無意識だったのだろうと思わざるを得ないのです。 (終) ▼まとめ 題名に「断想」とあるとおり、ここまで書いたことにまとめはありません。 (終)
by hychk126
| 2016-05-20 21:19
| 映画
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