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▼ 『オデュッセイア』ホメーロス
あの男のことを わたしに 語ってください ムーサよ 数多くの苦難を経験した「あの男」を … 『オデュッセイア』第一歌「ムーサへの祈り」 民族の歴史と、必要とされる英雄譚。叙事詩の朗誦冒頭さまざまなバリエーションで語られる”祈り”をホメーロスから引用して、本稿でも意味深に冒頭に置いておこうと思ったのは、ジョージ・ミラー監督自ら30年ぶりにシリーズを復活させた『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(MAD MAX: Fury Road 2015)が、期待どおりそれを要請するものだったから。 それは、舞台や主人公の時系的整合性において、叙事詩的な断片化と抽象の度合いをドンドン深めながら、引き続き、”民族の歴史として語り伝える価値のあるもの”という体裁にシッカリと軸足を置きつつ、それが誰にとっての価値なのかを問うなら、民族に留まらない具体的な語り部個人をフォーカスするという形式に、ここでもなお執着していたためです。 そうした意味でも本シリーズは、”叙事詩的”といった視野のスケールに主眼がおかれた従来のエピック・フィルムとは一線を画しています。 「これは私たちの物語 話をメモリーして 明日生まれるものに伝えてほしい」 これはシリーズ第3作『マッドマックス/サンダードーム』(MAD MAX Beyond Thunderdome 1985)で最後にインサートされる部族の長老(劇中では若い女性)のセリフです。シリーズ通してご覧の方なら分かるとおり、これは『マッドマックス2』(MAD MAX 2 1981)においてもほぼ同じ構成で、部族の長老(劇中では汚いガキんちょ)によって語られることになります。 もちろん最新作『マッドマックス 怒りのデス・ロード』では、具体的な語り部の声こそ聞かれませんが、ヒロイン(シャーリーズ・セロン)のラストの雄弁な表情と、シリーズ前作までを知る私たちにとって、老いた彼女の声のインサートはこの際野暮というものであり、むしろ文字通り”歴史を作りし者”の詩で幕を閉じる本作はスマートです。 「今回のマックスは脇役だ」「今回は彼女が主役だ」、といった声がよく聞かれますが、それは以上の構造においてのはずで、つまりそれは今回に限った話ではないわけです。 しかし、長過ぎるブランクにビクともしない堅牢な構造云々はともかく、前作からおよそ30年ぶりという意気込みというのはやはり特別。画面いっぱいにぶちまけられる度肝を抜くアクションの絢爛さとしてそれを感じることもできますが、ここではそれ以上に、画面いっぱいにぶちまけられた別ものについて、監督ジョージ・ミラーがそれを「叙事詩として私が総括してやろう!」、と意気込む、そのただならぬ熱気として感じておきたいと思います。 しかし、ここでは何が総括されているのか? ここで総括されているのはおそらく、”核戦争による文明崩壊後の不毛の大地”という映画的近未来像というもの、その紋切り型としての不幸のことです。 単なる私の個人的趣味の問題かもしれないし議論はあっていいですが、”核戦争による文明崩壊後の不毛の大地”の映画的紋切り型には、不幸があります。その不幸についてはこれまでも何度か触れてきました。 真にエポックだった『マッドマックス2』、そして『北斗の拳』などのコミックによる圧倒的な影響拡大を経て、現実の世紀末と並走しながら、それはあまりにも手垢に塗れきった風景となり、乾いた砂塵と文明の残骸といったテンプレートは、世界設定におけるある種の安易さを引き受け、よほど注意しない限りSF作品の画面上に弛緩したダラシなさを垂れ流す要因となりました。 例えば『ターミネーター4』が退屈極まりなかった原因は多々ありますが、何よりもまず、現在のLAという舞台から、超えてはならなかった”審判の日”の先に、あの廃墟型近未来という退屈な風景を画面いっぱいに召喚してしまったが故です。 それを”総括する”という言葉が適切でないならこう言い直します。今となっては手垢に塗れつくした、そうしたものへのジョージ・ミラー監督の警戒心の無さ、それはおそらく無知に由来するものではなく、無知かと思わせるほど堂々とした態度で、「そうした不幸が本当にあるのならば、オリジネーター自らの責任においてそれを引き受け(続け)てやろう」、という感じ。 すでにディスアドバンテージを背負ってしまったテンプレートが、30年たった今なおアップデートされる気配が全く無く(無反省)、引き続き叙事詩の支配的背景となり、ときに最前景となって画面を支配する。本シリーズはやはりこのテンプレなくして成立しないし、同時にこのテンプレが真に観賞価値を帯びるのはやはりココしかないとさえ思わせる。 ソコを爆走する改造車群に「ヒャッハーっ!」が叫ばれるのだとしたら、まさしくアップデートされる気配のないソコを、無反省に堂々と疾走する点においてだと思います。 それは、ステージを近作に近い形へと急展開させたシリーズ2作目以降についてのみならず、1作目『マッドマックス』(MAD MAX 1979)における遠くない未来社会という設定を、その辺の寂れた風景や廃墟や空き地でのロケという低予算撮影でもっともらしく実現した意匠を、すでに予算規模や制約とは無関係に継いでいるとも言えます。 と、尤もらしく書きながら、上の論にはやはり無理があります。連作が想定されていなかった第1作と2作目以降を分断するものはやはり大きい。例えば、本シリーズについてはよく次のような言い方がなされます。 「当初こそ過激なヴァイオレンス映画だったが、2作目以降は派手なアクション映画となった。」 そもそもシリーズ第1作は、低予算のB級アクション映画として、劇中のスタント・アクションにおける死亡事故の虚実がスキャンダルに評判を呼ぶなど、生誕時の事情は同時代の低俗なホラー映画とさえ親和性を示す類のものでした。そして、2作目以降の予算に物言わせたアトラクション性の高め方は、舞台の急展開と相まって、すでにシリーズとしての意味は薄かったのかもしれない。 それでもやはり、私はシリーズを通じたものとして、あえて大袈裟に”20世紀を代表するヴァイオレンス映画”と捉えておきたい。 ちなみに、“20世紀を代表するヴァイオレンス映画”として考えるということは、(逆に言えば)21世紀を代表するヴァイオレンス映画”には成り得ていない、ということにもなります。20世紀を代表するのも、21世紀を背負えないのも、もちろん捉え方しだいではありますが、どちらにしてもそうした称号を与えるためには、ひとまずここで「暴力」について考えることが必要です。 ▼ 『暴力批判論』ベンヤミン 暴力についての論考は数多くありますが、20世紀の思想史におけるその論旨は、ひとまずマルクスを引き継いだものが主流と言えるでしょう。ここでは、ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンの『暴力批判論』(1921)にそれを代表させたいと思います。 後ほど登場願うドゥルーズ=ガタリなどの面倒くささを含めて、ここではそれらの思想を平易に扱いますが、それは人文学に通じていないカタギの映画ファンの方々を読者として想定した心遣いといったものではなく、私自身の理解の度合いがその程度の(平易な)ものだとご理解ください。 さてベンヤミンの『暴力批判論』。その題名どおり、暴力が批判の対象となるわけですが、大きく矛先が向かうのは、”神話的暴力”と呼ばれるものです。 彼はまず、正しい目的のための手段として、暴力が一般的に倫理的であり得るかどうかを検討します。自然法はおそらく、そうした暴力行使を自明のことと見なすだろう。とは言え、適法性や目的の正しさとはそもそも何なのか?問題はそうしたルールもまた暴力自身が措定したり維持したりできてしまうことにある。 このように、自身が作り出し得る正当性によって肯定された暴力を、ベンヤミンは”神話的暴力”と呼び、それを強く非難します。中でもルール(適法性)の下に行使される国家権力へと矛先は向かいます。 では、”神話的暴力”ではないもの、真理としての正当性に基づく暴力、つまり正しい目的の判断を下すものは何かを問うと、ベンヤミン曰く、それは”神”ということになります。つまり神の雷(いかずち)のようなものですね。ベンヤミンはそれを”神的暴力”と呼びます。 当時、時すでに20世紀です。絶対的真理をめぐる議論はすでに手打ちにされているにも関わらず、ここで神を持ち出してしまうベンヤミンには愚痴や文句の一言もこぼしたくなるところです。とは言え大事なことはやはり、”神話的暴力”の存在、法の力(法を措定し得る力)の危険性への警鐘です。 もちろん19世紀(マルクス主義)を継承しているとは言え、この辺りはヴェーバーや初期のフーコー、アルチュセールらとも響き合う20世紀に論じられた暴力をめぐるメインフレームの、最も分かり易い形だとひとまず言えるでしょう。 (ちなみに、かつて某党政権時代の某官房長官による「暴力装置」発言が議論を呼びましたが、あれはヴェーバーからの用語引用かと思います。用途自体に間違いはなかったと思いますが、野党からの攻撃が凄かったですね。) さて、『マッドマックス』の主人公は警官の職を辞する決意をし、それを止める上司に対して次のように語ります。 「バッジを外したら、きっと俺もヤツらと変わらない。」 マックスが辞職を決意したのは、親友の凄惨な死に恐怖を感じたためではなく、一義的には愛する家族のためでもなく、暴力の本質、つまり、手段である自らが目的を正当化し得る、そのような暴力の本質に触れ、恐怖を感じたためでした。 日本でのテレビ放送時のタイトルが「激突また激突!カーバイオレンス限界描写 マッドマックス」だったのはご愛敬として、この映画は必ずしも直接的なカーアクションによってヴァイオレンス映画だったわけではない、ということがよく分かります。 暴走族による反社会的蛮行とそれらの撲滅という、当時日本でも社会問題化していた身近でイメージし易い題材に寄り添いながらも、暴力をめぐる心的傾向というものはしかし、そう単純ではない。 オープニング早々、警官(マックス)の過剰な追跡はナイトライダー(暴走族)を事故死に至らしめ、凶漢らにレイプされた若い女性は淫売だという理由で起訴ができない。やがてマックスが目の前で妻子失う事態を頂点に、自然法的倫理、自明性といったものの先に暴力が炸裂する。簡単に言えばそれらはつまり”気持ちは分かる”という類のものであり、観客の意識の流れはそのまま爽快感にまで到達する。 『マッドマックス』は良い意味でアマチュアイズムに寄った粗い作りになっており、マックスという男のように雄弁とは言い難い作品ですが、寡黙な分上述のような内容を硬派に提示し得ています。 とは言え、こうしたものは復讐譚のバックボーンに常に存在するもので、確かに公開当時のインパクトは絶大だったとは言え、『マッドマックス』がヴァイオレンス映画として20世紀を代表するほど特別な存在だと言うことは正直憚られます。 例えば、ベンヤミンに倣った暴力の本質に拘るなら、もっと凄い映画が他にも多く存在するはずです。 極端な例を挙げるなら、”神話的暴力”を徹底的に描いた映画として、クリント・イーストウッドの『許されざる者』(1992)を挙げることができます。あの映画では荒れ狂う”神話的暴力”に対して、自然法的倫理の葛藤に執着するのではなく、あろうことか不可知であるはずの”神的暴力”=神の雷(いかずち)がドカーンと描かれてしまうという点において、実に無双な映画です。 それでもしかし、あえてマッドマックス・シリーズを”20世紀を代表するヴァイオレンス映画”として名指しておきたいのは、20世紀の暴力をめぐる考察において、ベンヤミンは必須でこそあっても、そこで終わりではないからです。 20世紀の思想史にはまだその先、みんな大好きポスト・モダンがあります。例えば、神など持ち出したりせず、”神話的暴力”の先に暴力のポジティヴな側面も見なければならない。 そしてご存知のとおり、『マッドマックス』もまた、まだ先があるのです。 ▼ 『千のプラトー – 資本主義と分裂症』ドゥルーズ=ガタリ 一方には、“条理空間”なるものが存在します。それは将棋盤に喩えられ、ルール上の精密な制約が存在します。そこには国家装置が建造され、条理化の勢力が”変異”の力を抑圧しています。通常私たちは”条理空間”内で生活していると言っていい。そこで抑圧されている”変異”とは、私たち本来の生の在り様であり、生の多様性です。 一方には、”平滑空間”なるものが存在します。それは将棋と比べてルール上の制約が極めて少ない囲碁の碁盤に喩えられます。遊牧民たちの生活の場であり、”変異”の力が生成する場でもあります。 以上は、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ(以下D=G)の共著『千のプラトー』(「資本主義と分裂症」第2巻)の中で示される概念です。上の表現は、明瞭に区画された空間を想起させますが、実際はそうではありません。なぜなら、前提として『千のプラトー』は、ベルクソン直系の極端な一元論に貫かれているからです。 ミクロ的・分子的なレベルにおいて、おのおのの輪郭を消失させた生命や物質、あるいは宇宙全体を、連続したものとして捉えようとする本著は、ベルクソン流に言うなら、数的・非連続的な差異ではなく、質的・連続的な差異として世界を思考します。 どこまでがメタファーでどこまでが本気かが極めて分かり難い本著の主題を簡単にまとめることは不可能ですが、そのような巨大な連続体としての”変異”可能な生の在り方と、それを隠蔽・条理化・捕獲しようとする様々な枠組み(属性、国家、権力etc…)からの、逃走・解放が大きく目指されていると言えるでしょう。 それを実現するのが”変異”であり、そのスピードです。 『千のプラトー』で展開されるのは、ベンヤミンの『暴力批判論』のように必ずしも暴力にフォーカスした主題ではありませんし、ベンヤミンを直接引き継ぐ役割も負っていません。 もちろん無縁というわけではなく、例えば第13章「捕獲装置」では暴力の4つの区分として、”闘争”、”戦争”、”犯罪”、”警察”が取り上げられ、中でも”警察”としての暴力=「法の暴力」こそが暴力そのものを定義可能であるという点において、非常に分かり易いベンヤミンとの親和性を見せてはいます。 しかし、ここで理解しておくべきは両者の違いです。”神”を持ち出したりしないD=Gにおいては、生の在り方・多様性を解放する力=”変異”について、それもまたある種の暴力としながら、それをポジティヴに肯定しているということ。 以上を押さえたうえで、D=Gの真骨頂として、またマッドマックス・シリーズを語るにあたって参照しておきたいのは、上述の”条理空間”と”平滑空間”のことが語られる第12章「遊牧論あるいは戦争機械」です。 国家としての”条理空間”と、その外部に広がる不毛(国家にとっての不毛)の大地としてある”平滑空間”。D=G自ら遊牧民の例を持ち出すように、そうイメージするとひとまず分かり易いわけですが、実際は碁盤上に配置された白黒の碁石のように、双方混在した状態の中から”平滑空間”の拡大が目指されます。 一旦の結論を先回りするなら、マッドマックス・シリーズがシリーズ第2作で見せた急展開とは、“条理空間”から”平滑空間”への急激な舞台の”変異”に他なりません。そして、シリーズが20世紀を代表するヴァイオレンス映画であり得るのは、”神話的暴力”の問題に留まろうとはせず、形の上で、暴力のバリエーションを通じた20世紀思想を猛スピードで滑走する格好になっているからです。 映画的紋切り型として私の批判の的となった、“核戦争による文明崩壊後の不毛の大地”。それは条理化の力が無効であるという意味で”平滑空間”です。もちろんD=Gが目指すものは隠蔽されている生の可能性であり、核戦争を望んでいるわけではありません。 映画的紋切り型としての近未来像、いちおうそこは”核戦争による文明崩壊後の不毛の大地”という意味を設定上は引き受けていますが、ビジュアルとして手垢に塗れ過ぎた果てに、あらゆるジャンルにおいて抽象化しています。 核戦争も文明崩壊もウソかホントか分からない、それは約束事ではあっても、ドラマにとっての重要性は極めて乏しいペラペラの設定です。 そうした場所で叫ばれる「ヒャッハーっ!」が、第1作にあった”暴力の本質に触れた苦悩”とは無縁な、ある種のヘルシーな響きを感じさせるとするならば、それはきっと”平滑空間”を滑走することへの謳歌のはずです。 バータータウンの警備隊(『マッドマックス/サンダードーム』)も、シタデルのウォーボーイズ(『マッドマックス 怒りのデス・ロード』)も、外部へと向かう出陣にあたって叫ばれる「ヒャッハーっ!」が感じさせるのは、統治された内部(バータータウンやシタデルの砦)はすでに、”条理化”の悪しき発芽であるだろうということです。 ジョージ・ミラー監督が無反省にも引き受け続ける紋切り型は、きっと”平滑空間”のことであり、そのポジティヴな側面のことです。その時、”核戦争による文明崩壊後の不毛の大地”という退屈でだらしないフレームの、実はどーでも良かったりするその意味は一気に剥がれおち、画面は”平滑空間”としての精彩を帯びます。 最新作の画面に漲る問答無用ぶりは、以上のようにしか説明できない。 上でも触れたマッドマックス・シリーズについての次のような言説、 「当初こそ過激なヴァイオレンス映画だったが、2作目以降は派手なアクション映画となった。」 バタイユを引っ張り出すなら、タブーがあるからこそエロティシズムが存在するのであり、同様に、ルール(条理)があるからこそ、ヴァイオレンスは高まります。 無法地帯で炸裂する暴力に恐怖を感じる時、私たちは”条理”のノスタルジーを引きずっているに過ぎず、ひとたび”平滑空間”に飛び出したならば、そこではきっと、”条理”に基づく”善”と”悪”が戦っているわけではないでしょう。 D=Gによる暴力の4つの区分に従えば、それは”闘争”に近いものであり(詳細は省きます)、それもまたD=Gにとって”変異”へと繋がる暴力のポジティヴな側面です。 「アクション映画に移行した」と言われるシリーズ第2作以降、私たちが画面に観ているのはそうしたものであり、ヴァイオレンスは薄まったのではなく、異なるステージ(暴力のポジティヴな側面)へとアップデートされたため、見え難くなっているに過ぎないのです。 ▼ まとめ ベンヤミンが考察した権力、”神話的暴力”というものは、現在の私たちにとってますます身近なものとして感じられます。同じ意味で、1979年に日本で公開された『マッドマックス』も、今となっては禁欲的なカーアクションの見ごたえを含め、魅力を失っていません。 とは言え、国家を権力の暴走として危険視する思考だけでは、明らかに何かが足りません。少なくとも、警察が私たちを暴力から守ってくれているという事実について熟慮すべきだし、それだけでなく、凝り固まった思考によって、より高次かつ重要な問題を見落とす可能性があります。 例えば、管理型社会というものの功罪を、”神話的暴力”によって考察することは無理があるはずです。 D=Gの思想もまた、部分的には時代の要請に応え切れるものではないかもしれませんが、彼らが提示する生の多様性とその可能性を問う探究は、引き続き”条理”の内部を生きる私たちに隠蔽されたものを、驚くほどのスケールで提示してくれる貴重なものです。 “戦争機械”、”戦士”、これらもまたD=Gが様々な切り口で表現する”変異”のポジティヴな側面へと繋がる諸概念です。”戦争”をそのまま”国家装置”と繋げがちな私たちの通常の思考では、これらをポジティヴなものとして把握することは容易ではありません。ここでは”戦士”について少し引用しておくに留めます。 戦士の独自性・奇矯性は国家の観点からは必然的に否定的形態のもとに現われる。 戦士とは、軍務さえも含めたすべてを裏切りうる人間、さもなければ、何も理解しない人間なのである。 一読すれば分かるとおり、“マックス”マクシミリアン・ロカタンスキーとは”戦士”に他なりません。 彼は、ムーサへの祈りで詠われる「数多くの苦難を経験したあの男」であり、オデュッセウスです。ホメーロスの『オデュッセイア』は、『2001: A Space Odyssey』と用いられるごとく、語義から転じて“長い航海”の意味でも使われます。それは宇宙であり、海であり、”条理”の外に広がる”平滑空間”のこと。そこを旅し、条理と衝突し、新たな歴史を記述する者。 ベンヤミンを経由しながらD=Gへと突き抜けるがゆえに、”20世紀を代表するヴァイオレンス映画”と捉えてみたマッドマックス・シリーズについて、言いかえれば、”21世紀を代表するヴァイオレンス映画”には成り得ないかもしれない、と上で触れておきました。 それはシリーズ第2作以降、強化こそされても、さらなるステージ・アップの気配を見せないことに加え、D=Gの思想が21世紀においても有効であるかどうかとも関係するでしょう。 それはすでに有効ではない、クリティカルではないと言えるかもしれないし、国会前を中心としたデモの主体が組織から個へと変遷しているの見る時、『千のプラトー』が指し示す世界がますますリアリティを増している、とも言えるかもしれません。 いずれにしても、アップデートされる気配がまるでなく、それでも最高としか言いようがない最新作に接する限り、マッドマックス・シリーズは前世紀を代表したまんま、21世紀前半という現在を、今しばらく堂々と、無遠慮に走り続けることになりそうです。
by hychk126
| 2015-09-03 20:56
| 映画
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