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前回記事:『うつせみ』を中心にキム・ギドク的主題を読み直すこと
キム・ギドク監督『アーメン/Amen(原題)』(2011)は、不思議な映画です。 観賞したのは二年ほど前、良い視聴環境ではありませんでした。動画投稿サイトで当然日本語字幕なしのものをノートブックで観賞したわけですが、字幕について言えば、後の『メビウス』(Moebius 2013)同様セリフはほぼありませんので全く問題なく、手持ちカメラによるビデオ映像や風防さえ無さそうな録音も含めて、そうした作りの粗さはサイトの動画品質で十分どころか、むしろ相応しいかもしれないと感じられたことは幸いです。 作品そのものについて言えば、そうした手法のあざとさは拭えないものの、ある種のライヴ感をもって流れる風景(パリやアヴィニョン)の中に、エトランゼとしてのヒロインの身体を前景にクッキリと浮かび上がらせることに成功していると感じましたし、彼女が恋人の名前を叫ぶ唯一のセリフが、要所要所の風景をピンで留めるのも実に効果的でした。 あらすじは次のようなものです。恋人を訪ねて欧州を訪れたヒロイン(キム・イェナ≒高岡早紀ソックリ)。寝台車で寝ている間に謎の男(ギドク本人がガスマスクを被って怪しげに演じます)にレイプされた彼女は、心ならずも妊娠します。その後も影のように付き纏い続ける謎の男は、(妊娠した子)を産んでほしいと彼女に懇願するのでした。 さて、"不思議な映画"と書きましたが、あらすじどおり摩訶不思議に捻じれた筋書きらしきものについて言えば、メロドラマによる復活を勝手に期待していた私の希望を裏切るものだとは言え、これまでのキム・ギドクのフィルモグラフィーに接する中で何度も驚いたり呆れたりしてきた私たちファンが、いまさら不思議がったりするほどの捻じれ具合ではないはずです。 ここには、『アリラン』(Arirang 2011)の隠遁から下山後のキム・ギドクが、本格的な復帰に向けて、(わざわざ)受胎告知という大袈裟なセレモニーを自らお膳立てするという大時代的な文脈が見え隠れします。 ならば、ヒロインが身に宿したものは、後続するはずの本格的な劇映画復帰作品であるでしょう。かつそれは、ギドク自身の復活再臨に他ならないわけで、それが困難を伴うこと、不条理な難産であることが、捻じれた筋書きとして示唆されていると言えます。 しかしまた一方で、「誰でも映画を作ることができるんだ」という本作に係る監督本人のメッセージからも分かるように、自ら監督・脚本・撮影・録音・編集・音響・出演をこなしつつ、製作期間たった2週間(カンヌ映画際渡欧中)、「製作費は寝台車のチケット代くらい」というスペックによって、自ら選択した土俵である映画製作というものの、本質的な簡便さ(簡便であるはず)や軽やかさ(軽やかであるべき)をも体現した作品でもあります。 総じて本作の70分という時間の中には、産声をあげる作品をめぐって、必要以上の儀礼的な深刻さ(難産)と、必要以上の創作的簡便さ(安産)とが同居しているという、そんな不思議さが感じられるわけです。そして、私にとっては、安産も難産も、自己正当化の身ぶりのように感じられる。大袈裟なジェスチュアとして、また、回りくどいエクスキューズのようなものとして。 まず、安産の身ぶりについて言えば、驚くべき上記の早撮りスペックは、これまでのギドクの早撮り・低予算ぶりを十分に知る私たちファンをも唸らせるものとして、かなり戦略的に強調されたものだと言えます。そこで目配せされているのは、プリプロダクションの段階から同時多発的に話題を呼んでいた同胞たちのスペックアップ、ステージチェンジ(米資本・英語映画)にあるでしょう。言うまでもなくそれはパク・チャヌク(『イノセント・ガーデン』)であり、ポン・ジュノ(『スノーピアサー』)であり、キム・ジウン(『ラスト・スタンド』)らです。 前回のギドクについてまとまった記事でも触れたように、こうしたキム・ギドクの創作手法は、私はそれをことさら賛美はしないけれど、韓国内におけるキャリアパスの多様性を保つものとしていちおう高く評価しておきましたし、今もそう思っています。しかしここでは、堅持するポリシーや哲学を強化バックアップするものとして、露骨に仮想敵を想定しているとも言えるでしょう。 次に難産の身ぶりについて言えば、『アリラン』における隠遁が、実際にあのような映像として残されていることからも明らかなように、隠遁の本気度が問われてしかるべきという前提に拘った上で、聖霊と天使ガブリエルと受精卵とを自ら同時に兼ねつつ、申し訳なさそうに「産んでくれ」と懇願した上で再降を果たそうとする『アーメン』の手続きは、監督本人以外にとっての必要性が極めて希薄な、呆れるほど大仰なエクスキューズではないか。 しかし、隠遁の本気度が問われるなら、ギドクの病状の度合い、その重度も問われるべきです。つまり、呆れるほど大仰なエクスキューズを用意するキム・ギドクに、『アリラン』から脈々と続く単なる自己正当化だけを見て済ませてしまうのではなく、引き続き病状が重症であることを認識しておくことが重要だろうということ。 同じ処女懐胎でも、ミリアム・ルーセル(『ゴダールのマリア』)には、ゴダールの欲望に貫かれている分かり易い構図があります。ゴダールは健全なのです。 一方キム・ギドクは、ヒロインに対して極めて依存的だと言えます。こうした関係は、その瞬間ヒロインの子宮内膜に着床したであろう『嘆きのピエタ』(Pieta 2012)や『メビウス』の中で執拗に描かれる情緒的近親姦にも繋がるものだと感じます。 要するに、ファンとして見慣れたゲリラ的早撮りや捻じれた筋立てを捉えて、「ギドク相変わらずじゃん!」と安心したり呆れたりするよりも、上述してきた文脈から、自己への執着と陶酔、つまり、自己愛性のパーソナリティ障害がますます進行している事態を見ておくべきだし、それを正当化する手続きが長編映画としてギリギリの体勢を保った『アーメン』の中に凝縮されているだろうということです。 すでに『嘆きのピエタ』や『メビウス』に接した現時点から振り返って書いているので、いくぶん後出しジャンケン感が拭えません。また、すでにヴェネチアやフィルメックスで上映された最新作『One On One』(2014)が新機軸を打ち出していると言われている以上、ここで書いたことは"持続する"キム・ギドクにとっての、過去のある瞬間をムリヤリ記述したにすぎません。 しかし、分析というものは静止状態においてしか記述し得ないことを言い訳にしつつ、リハビリを兼ねた小さい実験作程度の理解で済ませて良いはずの通過点について、あえてイジワルな詮索をしてみました。 言いがかりのような内容ながら、むしろ自分としては、『嘆きのピエタ』や『メビウス』の流れに正直疲労を感じながら、それでも引き続きマジカル・ギドクから目を離すことはできない、くらいの意味合いで書いたつもりです。
by hychk126
| 2015-03-26 08:57
| 映画
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