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ラース・フォン・トリアー監督『ニンフォマニアック』(Nymphomanic :Vol.I, Vol.II 2014) について、私が物足りなく退屈に感じられた理由を下記の二点に集約して、簡単に触れておこうと思います。
以下の私のネガティヴな意見は、(今回に限って言えば、)意外にも多かった比較的高評価な意見に対して積極的に反論したり、賛同を得るために他人を説得したいといった類のものではありません。 ご一読いただければ分かるように、悪しきファンの典型として、過去のラース・フォン・トリアー監督の作品に自分が惹かれた部分とのギャップによる不満を並べただけであり、『ニンフォマニアック』そのものの価値を問うものになっていません。(そのものの価値もあまり高く見ていませんがここでは細部に踏み込みません) 不満1.過激な売られ方に反する健全さ この映画は、ヒロインの社会適応性とその処方をめぐる冒険と学びの物語です。彼女は過去の罪の女たちと時空を超えて繋がることもなく、異端審問の場に立つことも、不条理な受難と成就をトレードすることもありません。ここにあるのはオドロオドロしさや驚嘆ではなく、この世界で生きること一般への有効性であり、ある種の健全さだと感じます。 [トリアー作品における罪の女モチーフについて] 不満2.作品の長大さに反するスケールダウン フライフィッシング、フィボナッチ数列、バッハのポリフォニー、この世の代謝を説明するチョット博識なキーワードは、知的好奇心を刺激するタイプのスマートなものであり、過去に垣間見えた芸術への豪奢的、蕩尽的な畏怖と憧憬、重鈍な信仰とは対極にあり、映像的にもセンスに物を言わせたな装飾的な感じが否めません。それはモチーフのスケールダウンであり、モチーフを余裕でハンドリングできている感じです。 [呪われた部分へと通じるあからさまな芸術信仰] 併せてここで指摘しておきたいのは、以上の2点をポジティヴの側に裏返すならば、つまり今回の変化を良い方に解釈するなら、「鬱三部作」の最後を飾るのに(解決編として)相応しいとも言えるということです。もっと言えば、自らの病やナチス発言を経由した監督本人が、(映画の中のヒロインと同じように、)生命の樹を発見し得たこと(精神的克服)をも意味するかもしれないということ。 それくらい普通に真っ当な映画として、さすがに4時間が退屈に感じられたということです。 ファンとして今後に絶望しているわけじゃないけれど、引き続き「何事かをやらかしてくれる」不穏な感じ、そうした期待が希薄化したのは確かです。 最後に付け足し程度の触れ方になりますが、ヒロインの父を演じるクリスチャン・スレーターが(汚れ含めて)すごく良かったです。
by hychk126
| 2015-03-18 20:48
| 映画
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