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こちらから→[コンピュータグラフィックスは”鈍い意味”の夢を見るか 前編]
自ら欲望しても、CGの所産がその身には纏い得ないように思われる"鈍い意味"。ここでは近似の概念によってイビつに拡張され、すでにバルトの名を記すことさえはばかられます。いっそ表記も"鈍~い意味"くらいに変えておくべきかもしれません。 後編ではまず、主に実写映像との関係で見てきた"鈍い意味"をセルアニメとの関係で考えます。CGとの対比として分かりやすくセルアニメとしますが、彩色や撮影をデジタルで行うものも含めます。サザエさんがデジタルに移行した今、セル画に拘ることはほぼ不可能です。 大友克洋監督の劇場用長編アニメ『アキラ』は1988年に公開されました。CGは一部の効果を除きほぼ使用されていません。同時期のディズニー・アニメにおいても、『リトル・マーメイド』から『美女と野獣』へと、部分的なCG用途が徐々に拡大を見せ始める時期に当たります。(ディズニーを中心とした構造転換の背景はk.onoderaさんのブログ[『アナと雪の女王』少女を搾取するポップスター・プリンセス]に詳しいので一読をお勧めします) 90年代半ばには『トイ・ストーリー』など商業作品としての体をなしたフルCGアニメが続々と登場することを考えるなら、80年代の終わりというタイミングに繰り広げられるネオ東京の喧燥は、アニメーションをめぐるテクノロジーと産業構造の転換過渡期に打ち上げられた"カーニバル"であったのかもしれません。もちろんこれは言い過ぎで、実際には後の怪作『スチーム・ボーイ』(2004)のあの蒸気が手書きされていることからも分かるように、大友克洋という作家の偏執的な手書きへの情熱によるものだと言えるでしょう。 『アキラ』最大の見せ場である冒頭のバイク・アクションは、テールランプの鮮やかな残像を含め、手書きによるものとされています。 その時代における最先端のクオリティを見せつけるとは言え、本来CGの効力が最も美しく発揮される工業プロダクトとしてのモーターバイクのアウトラインが、手書きに起因するある種の"不完全さ"によって軋みを上げるのを見る時、そこから得られるスリルがなぜか有り難いものとして沁み入る一方、数少ないCG使用パートとして、超能力者のパターン・ウェーブのいかにも紋切り型なCG用途が思い起されます。あくまで今となっては。 アニメーションでは、クリエイターが全ての時間、全ての被写体を創造する以上、あらゆる瞬間の画面の隅々が意図的であると言えます。これはセルアニメもコンピュータ・アニメも同じです。 しかし相対的にセルアニメは、CGほどには全てが求心的に思われない、これは共通感覚としてある程度賛同を得やすい事実だと思います。 言うまでもなくそれは、押井守監督がアニメ作品の中に遠心的なショットを好んで導入し、物語に対して非貢献的な被写体への執着を見せるような、演出上の特異な例を言っているのではありません。もっと素朴に、上に見た金田のバイクの軋みの話です。 私は上で、それを「ある種の"不完全さ"」と書いてしまったことは、ひとまず留意しておくべきことです。 多くのアニメファンによってセルアニメへの愛が語られます。多くの場合それは、デジタル映像特有のテクスチャーに関するものであり、映画ファンがフィルムへの愛着を語るのに近いものがあります。 また、ほぼ全ての瞬間がキーフレームと言えるセルアニメでは、作品とクリエイターの繋がりがよりフィジカルなものとしてイメージされがちです。「使用セル数15万枚以上」という『アキラ』のスペックには、(物量においてディズニーの『白雪姫』に劣るとは言え、)良く分からないながらも私たちを惹きつけて共感させてしまう価値が感じられる。 こうした価値の認め方は、前回挙げておいた"祈りの痕跡"の問題にも近いものであり、デジタルよりもアナログを上位に置く価値観に基づきます。それは素朴であると同時に普遍的なもの。 こうした価値は必ずしも純粋なものとは言えず、"嗜好の問題"、"慣れの問題"、"無知の問題"などが含まれています。それでも普遍的なのは、私たちがコンピュータ・ピアノの自動演奏よりも生身のピアニストの演奏に価値を認めること、もっと言えば盲目のピアニストの素晴らしい演奏にそれら以上の感動を覚えてしまうことが、どうしようもないことだということです。需要者がそれぞれの出自を知るのであれば、需要している情報量は異なっているとも言える。 ジブリ鈴木Pが『アナと雪の女王』について語っていたように、CGであろうと手書きであろうと同じように人が作っているのであり、想像以上にアナログな作業が作品を支えているのだということ、手法を問わず優れた作品は観る者の心を動かすのだ、ということは正論であり、"無知の問題"をある程度戒めるものでもあります。 実際「使用セル○○枚」を武勇伝のように語るなら、エルサのドレスに駆使されたレイヤー数にだって驚くことは可能なはずです。 しかし、鈴木Pの語ることが正論なのは認めつつも、その語られ方をちゃんと読めば、結局は手間の多さを効率性の上位に置く姿勢に基づいていることに変わりはないわけです。 スタジオ・ジブリの『崖の上のポニョ』(2008)や『かぐや姫の物語』(2013)に至っては、ここで言うセルアニメに分類されるにも関わらず、アニメの作画としては本来描かない「動かない部分」までをも動画としての必要フレーム数描くことで、必要以上の非効率性を進んで引き受けています。そもそもアナログなものでさえ、さらなるアナログの効果が追求されているのです。 ちなみに、嗜好や慣れの問題について触れておくと、輪郭線が明瞭で平面的なものへの愛着は、浮世絵的ジャポニズムを源泉に持つのかもしれない、などと語られたりします。また、その裏返しとして3DCGの奥行を拒否する感情は、大澤真幸の言う反エクソシスト的嫌悪、つまり、正しい主体(人間の少女)が、間違ったこと(悪魔の言葉)を言う事態の不気味さの反転として、この場合、明らかに本物でないもの(CG)が、限りなく本物(現実)のように振る舞うことの不気味さへの嫌悪、に近い感情があるだろうと思います。 おもしろい題材ですが、ここではアナログ上位の価値観に吸収されるものとしておきます。 総じて、いまだに「CGは無機質である」という言われ方へと、傾向としては接近しがちです。 無機質を裏返しに言えば、アナログが感じさせるものは「人間的温もり」ということになります。それはフィジカルなものの相対量、非効率性と苦節への共感など、まるで手芸品のような経済価値の外側にある要素を伝搬させつつ、「味がある」とか「趣がある」とか、指示対象的でなく具体性を欠くもの、言語化困難だけどなんとなく理解し合えてしまうもの、つまり、ある種の"鈍い意味"的なものへと接近するでしょう。 しかし、こうして稚拙なボキャブラリーを尽くして語っても、すでに簡潔に結論づけられたものの周辺を無駄に戯れているようにしか感じられません。というのも、金田のバイクを語ろうとするならば、すでに「手書きに起因するある種の"不完全さ"」と語っておいたことこそが、簡潔であるだけでなく最も適切な気がするからです。 それは1秒あたりの描画数の問題であったり、時に十分には描出し切れていない奥行であったり、自在には動かないカメラワークだったり、好んでそのように目指された成果ではない。 自然な物語享受のプロセスにおいて、不自然なひっかかりとなるものの多くは"不完全さ"に端緒を持つ。これは理解しやすいことです。意図的な演出のもとに設計された画面にとって、意図せず紛れ込むなものは、その効用はともかくとして、"不完全なもの"であり演出の至らなさと同義です。 私がCGならこう言いたい。「"鈍い意味"だとか"非意図性"だとか"カーニバル"だとか、あげくに"味"だとか"趣"だとか、結局おまえが優位に置こうとするものは、単なる"不完全さ"のことのことなのか?」 半ば呆れ顔となるCGの言い分はもっともです。しかし、ここで語られているものが"至らなさ"に端緒を持つのだとしても、未だ見ぬ”意図の外部なる領域”への憧憬と欲望は、引き続きCGの内に秘められているのではないか。 前編で触れたピクサー・アニメーションのNG集にその発露を見るのは行き過ぎだとしても、セルシェーディングを始め3DCGのマチエールにアナログ的質感を装わせる技術の数多い存在から、効率性と"慣れの問題"の関係を解決する段階的対策としての意味以上のものが感じられるならば、何かが本末転倒なのです。 さて、『第三の意味』を出発点に長々と考えてきた"鈍い意味"は、"至らなさ"や"不完全さ"を大きく内包しつつあります。ひいては「味」や「趣」があると。こうしたことはすでに前編の段階から薄々感じられていたとは言え、あえて言葉にしてみることで議論が極めて低次元化してきた気がします。 - 小休止 - ♪ 「私も彼らのように「海は緑で<ある>、あの空の白い点はカモメで<ある>」と言っていた。しかし、それが存在していること、カモメが<存在するカモメ>であることに気づかなかった。ふだん、存在は隠れている。」 『嘔吐』(ジャン=ポール・サルトル 1938)の主人公ロカンタンが、「黒く節くれだった、生地そのままの塊」としてある公園のマロニエの木の根に存在の恐怖を見て嫌悪し、存在の意味の啓示を得るシーンの一節です。 「存在は隠れている」と語られるその場所は、そのものが担う役割や意味といった社会的コードの裏側だと解釈できます。 しかし、社会的コードの向こう側の存在に突き至るなど、私がそれをシミュレートしようにも(かつてモネの眼にチャレンジしたように!) それはきっと大きな困難です。世界が言葉によって分節されて認知されるという(ソシュール的)理解に立つなら、物になんらかの名前が付されている時点で、存在への到達は不可能に思える。 低次元化した議論にムリヤリ威厳を回復させるため、大サルトルや大ソシュールが持ち出されてしまいました。それが幾分大仰なら、次のように薄めておきます。 上に見た社会的コード(存在を隠蔽するもの)が、映画の中で与えられた役割に相当します。人、物を問わず、作られた小道具か自然のものかも問わず、通常、画面に写るもの全てが何らかの役割を担っているはずです。それは"第一の意味"と"第二の意味"に相当するでしょう。 では社会的コードによって隠された存在とは何か? 画面の中に写りながらも、役割を剥ぎ取られたもの、もしくは役割が行き届いていないもの、と言えそうです。つまり"鈍い意味"。 もう少し正確に言うなら、役割を剥ぎ取られたものが"意図的な鈍い意味"、役割が行き届いていないものが"非意図的な鈍い意味"です。 「映画では、事物はほとんど(言葉を話す人と)同質になり、生気と意味を獲得する。事物は人間に劣らず喋るので、そのため事物は実に多くのことを言う。これがどのような文学的能力も手のとどかぬところにある映画的雰囲気の謎なのである」、これは以前にも引用したベラ・バラーシュの言葉です。再度繰り返すと、バラーシュの論には先があって、そういった事物の雄弁さもまた、人間と関係している限りにおいてであるという人間重視の結論に向かってしまうのが残念です。 ここで「文学的能力も手のとどかぬところにある映画的雰囲気」が指摘されるなら、私はむしろ「<図らずも、事物が>生気と意味を獲得<してしまう>」と考えたい。これは、ロカンタンが受けた啓示を薄めた映画的一例です。 "至らなさ"、"不完全さ"に続いて、"図らずも"、"行き届かない"。確かにこうした要素はありきたりです。しかし同時に、そうしたものは長らく論じられ続けてきた息の長い考察要素でもあります。それはいまだ明確に定義付けられず、その評価においても曖昧なまま放置されている要素です。 曖昧である要因はおそらく、表現者の意図の有無が明確にされないまま、語り方しだいで良い方にも悪い方にも利用できる、といういい加減さにあるように思われます。 パゾリーニが『ポエジーとしての映画』の中で、「事物自体の持つ純粋で不気味な美のごときもの」と語るときの、"純粋"や"不気味"と表現されるもの、また「本筋とはあまり関係ないような部分についての異様なまでの固執」と表現されるもの、これらは社会的コードの向こう側に他なりません。パゾリーニ自身の映像作品が醸し出す、ザラリと喉通りの悪い感触は、まさしくそうしたものに寄るところが大きい。 パゾリーニの論では、自由間接話法というテクニカルな部分にスポットが当てられることで、"意図性"と"非意図性"をめぐる曖昧さは払拭されているとは言え、こうした概念は、私たちが映画の中に「事物自体の持つ純粋で不気味な美のごときもの」を感知してしまった時、意図の有無を問わないまま「これって"ポエジー"だよね」と受売り的に口にしてしまうことを許す概念でもあります。 ドゥルーズの"時間-イメージ"はさらに議論をややこしいものにします。 それは、戦後のネオレアリズモやヌーヴェルバーグを境に出現する概念です。つまり、それまでの感覚運動図式(運動-イメージ)では処理不可能な、「純粋に光学的・聴覚的な状況」が画面に現れる事態(時間-イメージ)。 なんとなく古いタイプの映画と、なんとなく新しいタイプの映画とを、極めて明瞭に差異化する概念の出現です。それはメッツなどの言語学的アプローチからは引き出せない、映画の独自性に基づいた美しい概念だと思わせます。「さすがはドゥルーズだ」と。 この「さすが」がアザとなります。"時間-イメージ"から多岐に派生する諸例を畳み掛けるドゥルーズの独壇場にはとても付いていけない。そして思うのです。「それって程度の差こそあれ、実写映像であれば多少なりとも紛れ込まざるを得ないものじゃないの?」 そのとおり、ドゥルーズが言わんとしているのは、そこにポンと置いて回せばひとまず何事かが写ってしまう、カメラというものの凄さのことでもあるのですね。 そういう意味で、"時間-イメージ"は新しいどころか「映画の前提」であるとも言える。"運動-イメージ"はそうしたカメラの凄さを演出によって排除し、意味を組織化しようとする力の方に位置づけられます。だから"時間-イメージ"が新しい(運動-イメージの後に置かれる)とするなら、それが積極的に画面の中に召喚され始めたという点においてです。 ドゥルーズは、作者の意図の介在について特段問い詰めようとはしません。そして、さきほどのポエジーと同じく概念の乱用を幅広く許すことになります。 フォード、ホークスの"運動-イメージ"に対して、クリント・イーストウッド独特の緩慢な身体が、時にだらしなく見える画面の中に置かれるとき、それが醸し出す比類ない雰囲気は、天然の手クセなのか、"時間-イマージュ"なのか。こうした語られ方がなされてきました。 散漫に感じられる画面、逸脱的要素への執着、イーストウッド周辺のこうした事態に言葉を尽くす価値があるのは当然として、明らかに未熟なアマチュア映画特有の画面のだらしなさはどうなのか。演出の行き届かない画面上の部分的な"緩み"、意図せず画面に紛れ込んでしまう想定外のもの、不自然な間を生むショットの持続時間、こうした目指されたわけではないものとの関係はどうなのか。 こうした問題に目配せしないままドンドン進むドゥルーズは、明らかに拡大解釈的です。しかしそれは、映画を作り手の意図から需要側の解釈に取り戻す姿勢として、間違ったものとは思われないのです。 少し長くなりましたが、"至らなさ"や"不完全さ"は、議論を低次元化させるどころか、"鈍い意味"の濃厚な構成要素としてキチンと把握しておく必要があることを、大袈裟な署名を連ねつつ確認してきました。 前編で幾人かの論者の概念を借りながら、芸術作品の本質を、意味(組織化)だけでなく、余剰(逸脱)だけでもなく、「相対する諸力の関係性の中にこそ位置づけられるもの」と理解しておいたことを思い出すべきです。それは程度の差こそあれ、優れた芸術作品は妥協的産物に他ならないということです。 ますますCGの所産からはこうした議論が熟成しようがないように思われる中で、CGもさきほどのように呆れ顔でいることはできないはずです。引き続きそれを欲望こそしても。 強引に言うなら、前編で見てきた数々の例もまた、そこに"不完全さ"を内包していると言えるでしょう。 『イワン雷帝』の戴冠式における廷臣のメイクや髪型などは、エイゼンシュタインの装飾趣味が好んで召喚する"不完全さのニュアンス"であると言えます。 また、壮大なモブ・シーンや命懸けのスタント・アクションも、需要者にとってそれが繰り返し可能なものとは考えられず、非効率なものの苦節の一端が感知されるのなら、その時需要者が画面に見ているものは、そこに写っている見事な成果だけでなく、その裏返しに存在している"不完全さ"をも同時に見ているのではないか。 もちろん"不完全さ"にも一括りにできない諸々の原因があります。特異ながらも身近な例として、時間の経過とともに醸成される"鈍い意味"を挙げることができます。当初こそ組織化に貢献的であったはずのものが、しだいに非意図的なものへと変化する事態、簡単に言ってしまえば陳腐化のことです。 正確に言えば、変化しているものは、画面に写る具象ではなく、需要側の眼であり意識です。画面上のものはそれに抗うことはできません。 『ベン・ハー』の海戦シーンが伝えるのは、主人公を見舞う波乱万丈のエピソード(第一の意味)であり、ガレー船の意匠や奴隷たちの存在が垣間見せる紀元前ローマの放蕩ぶり(第二の意味)です。さらにもう一つ、ミニチュアからリアリティとスケールを引き出そうとする表現者の意匠とその限界があります。そのニュアンスは時間の経過によって変化します。私は、それがあまりに大きいノイズとして許せないのではなく、受入れることができます。理由は、50年前の古い映画だからです。 "古いから許せること"。それは"鈍い意味"の一構成要素であり、"不完全さ"のバリエーションです。最初に見た金田のバイクも、結局ここに含まれます。 例えばD.W.グリフィスのメロドラマや、フリッツ・ラングのSFについて、そこで扱われる主題や事件を「現在の私達にも通じる普遍性を持ち得ており、云々」と語ってしまうことは、尤もながらも退屈な説明に感じられます。 名作としての普遍性を語るなら、これも以前書きましたが、前提としてゴダールの『フォーエヴァー・モーツアルト』で引用されるオリヴェイラの言葉を思い起こすべきです。「私は映画のそこが好きだ。説明不在の光を浴びる壮麗な徴たちの飽和。」 「そこが好き」と言われる"そこ"では、全ての映画が土俵を同じくしているのであり、題材の通俗性や、時代の古さはどうでも良いということです。そこでは、"古いのだから許せる"などといったハンデは必要とされない。 そうした意味で、グリフィスの直情的なメロドラマ性は"古いから許せる"のではないし、ラングのSFも言うまでもなく名作です。 そうした前提とは別次元で、画面にはやはり昔の映画だからこそ許せる要素が写っているはずです。 それが私たちの住む社会の未来を描いているのなら、当時としては予測し得なかったことに起因する、現実離れしたギャップが存在するでしょう。また、高層ビルが林立するメトロポリスは、それが絵やミニチュアであることが画面を通じて時に露骨に伝わります。必ずしも独創的なデザインや想像力の素晴らしさの価値を貶めるものではないこれら"古いから許せること"は、「組織化に直接貢献しない画面上の具象」であり、"鈍い意味"の一員です。 ハリーハウゼンが手掛けるストップモーション・アニメには「味」や「趣」があります。現在の観客がシンドバットの冒険に純粋に手に汗握ろうとするなら、襲いかかる6本腕の陰母神カーリーの動きは"亀裂"になり得ます。それは "古いから許せること"ですが、もちろん人によっては許せないかもしれません。 カーリーの動きは、同時代の意図によって不完全なのではなく、時間の経過とともに"鈍い意味"が醸成されてしまったということです。 『2001年宇宙の旅』のように、40年分のハンデをほとんど必要としない例外も存在すれば(スリッドスキャンの光の洪水など、部分的なハンデは必要ですが)、わずか5年前の映画の画面に"古いから許せること"が写り込むことがあり得る。これはどうしようもないことです。 長く続いた記事の中で、"不完全さ"を経由して"古いから許せること"に至ったのには意味がありそうです。つまり、CGがどうしようもなく欠かざるを得なかった"意図されない領域"は、遂にココにこそ見つけることができるのではないか? 91年当時、『ターミネーター2』に登場する液体金属製アンドロイドT1000は、その自在な擬態を支えるCG(モーフィング)技術によって、私たちの度肝を抜きました。 さらに遡ること10年、世界初の本格的なCG導入作品と言われる『トロン』(1982)は、当時「コンピュータを使用した映像は卑怯」と言わしめるほど斬新なものでした。 CGだから実現できるユニークなアイディアが劇中で果たす役割には、今もきっと人を興奮させるものがあります。しかしCGの所産そのものについて言えば、陳腐化へと向かう経過の中に確実に位置づけられます。これはデジタル技術にとって抗えない宿命です。 そして、ある種のパロディや異化が目指されるのでない限り、陳腐化は意図されたものではありません。それは、当初意図されていた驚きとは幾分異なる意味において、私たちの興味を鈍く引きつけることになるでしょう。 CGが欲望してきた"意図されない領域"、CGがその身に纏いようがなかった"鈍い意味"、その探究の結末は、どこか悲劇的です。 「CGは"鈍い意味"の夢を見るか?」 考えられる結論の一部でしかないとは言え、ひとまずの答えは実にやりきれないものです。 CGが製作者の意図から逸脱し得るには、条件として、時間の経過と需要側の眼と意識の変化を必要とします。そうして、他力本願ながらもやっと獲得されたかに見える"非意図的なもの"、夢にまで見たそれは、"古いから許せること"、つまり陳腐化のことでした。それは望まずとも、むしろ否が応にも向こうからやってくる抗えない宿命。また、身に纏うようなものでは決してなく、未来から見た過去の自分自身の存在に他ならなかったわけです。 最後にもう一度、書き始めに置かれていた前提を思い返すべきです。それはCGにとって、些細なことかもしれないし、そもそも必要性がないかもしれないことです。夢を見させたのは私の誘導にほかなりません。 そして、ここまで書いてきたことはおそらく、価値の置き方をまるまる反転させることが可能です。映画におけるCGの可能性、表現のみならず経済価値まで含めたその真価を、今ここでいちから語り直すのは大変な労力と時間が必要です。それができるまでは、ひとまず本稿を逆に読み換えるだけで十分だろうと思うのです。 → [補足]
by hychk126
| 2014-10-02 21:30
| 映画
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Comments(4)
意図しないところから発現するから「第三の意味」なのであって、意図的にそれを獲得しようとすれば「第二の意味」に捕まってしまう…そのことがCGにおいて宿命的なことなのかどうなのか、非常にスリリングな論考ですし、現代の観客の多くが、少なくとも無意識的に感じている問題だと思いました。
伝え聞くところによりますと、『ロード・オブ・ザ・リング』の群集シーンのCGは、ひとりひとりの動きに変化が出るように、それぞれがランダムに行動するようプログラミングされているそうです。また、「アナ雪」の雪のCGに関しては、雪玉のぶつかり合いや飛び散り方もランダムで計算され、百回雪がぶつかれば、おそらく百通りの結果が生まれるようになってるはずなんです。 ですがそれも、「意図された枠の中での偶然性だ」と断じてしまえばそれまでなんですよね。
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文章にあるように、唯一の希望が、意図せざるテクノロジーの陳腐化によってもたらされるものだとする見方は、私は考えていなかったことですし、非常に説得力があります。
ただ、CG技術の商業的な成功とは別に、このような問題をhychkさんが考えるようになるくらいの領域に来たというのは、CG技術が稚拙ながらも偶然性を備える努力を始めたからなのかもしれないと感じました。 しかし、現状まだまだ懐疑的にならざるを得ないというのも個人的な見解です。
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hychk126 at 2014-10-03 12:20
onoderaさん
哲学とは概念の創出だと言われますが、ここで大事なのはネーミングセンスだと思うんです。誰もが存在を感じてそれを認めているけど、まだ名付けられていないがゆえに良く分からない概念。必ずしもバルトは好きじゃないんですが、そうした意味で"鈍い意味"(第三の意味)っていうのは完璧な命名だと思うんです。 実際はバルトの言う"鈍い意味"は意図的なものだと思います。例がエイゼンシュタインだから何とかなったものの、本来それだとメタファー(第二の意味)に近すぎるんですよね。 だから、必ずしもここで大々的にフューチャーするのは適切ではないのですが、"鈍い意味"というネーミングの素晴らしさと、取っ掛かりとしての分かりやすさから前面に押し出しました。
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hychk126 at 2014-10-03 12:47
onoderaさん
ご指摘のランダムな動作を与えるプログラムというのはとてもおもしろいです。ただ、それが観客に"鈍い意味"として伝わるかと言えば、なかなかそうではないとは思われます。ランダムになることによって、ますます第一、第二の意味に貢献するとは思いますが。 正直、陳腐化を結論に持ってきた時点で、この記事の公開を止めようかとも思ったんです。我ながら結局その程度の話かと。 しかし、現時点でどう考えても、製作者の意図の外に存在して、かつ観客にとってのひっかかりとなる"鈍い意味"を考えると、それしか思いつかなかったんです。 自信のないこと(というかつまらないこと)だったので、説得力あると言ってもらえるのはとても嬉しいです。
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