検索
ブログパーツ
最新の記事
以前の記事
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
|
谷崎潤一郎の小説『少将滋幹の母』 (昭和24年)は、『鍵』や『瘋癲老人日記』と並ぶ戦後代表作のひとつです。この時期では私個人的に最も愛する谷崎作品であり、映画化への期待も長く募っていますが、国内外で映画化の噂は耳にするものの、残念ながらこれまで実現していません。(舞台やテレビドラマ化はされていますがいずれも未見) 物語は、老齢の大納言国経が、若く美しい妻北の方を左大臣時平に奪われる(譲り渡す)という、実に谷崎好み(というか作者の実体験に近い)と言える『今昔物語』の史実をもとにしています。 描かれるのは大きく三つの話です。一つ目は、老いた国経の美しい妻が略奪(譲渡)されるエピソードを王朝絵巻の絢爛を背景に描きます。見せ場としてのクライマックスはこの前半に置かれていると言えます。二つ目、物語から壮麗な色調が消え、妻を失った国経の諦念とグロテスクな不浄観(白骨とウジ)が描かれます。三つ目、再び物語は色調を変え、成長した滋幹(国経と北の方がもうけた一子)の母への思慕と再会のエピソードが透明感あふれる光の中に描かれます。 物語の中心となる北の方は、類い稀なる美女です。本来その美しさは、女性の肉体を崇拝し、その快楽を追求するために「漢語・雅語から、俗語や方言までを使いこなす端麗な文章」を駆使する谷崎の筆致によって細緻に描出されるはずのものです。 しかし『少将滋幹の母』では、北の方が類い稀なる美女であるということ以上の様相表現、性格描写を行いません。それは空虚な美として、周囲に渦巻くの男達の色欲や不浄観との相互補完的なコントラストを形成します。 およそ以上のような内容を持つ『少将滋幹の母』の映画化が実現しません。私はそれを嘆くと同時に、映画化が困難を極めるであろうことも十分想像できます。それでもしかし、企画中との噂のあったベルナルド・ベルトリッチ&ヴィットリオ・ストラーロの理想的なコンビは、上述した色彩変調をこちらの期待を超えて実現してくれるはずでした。 やはり問題は、滋幹の母=北の方です。 北の方の"類い稀なる美"を捉えるのは、フル・ショットかロング・ショットを原則とすべきだし、寄ったとしてもフルフィギュアであるべきです。仮にクローズ・アップを許すなら、それは顔ではなく手などの体の一部です。 そして私たちが映画館を出た後、北の方の"類い稀なる美"を最も雄弁に象徴する明媚な顔を思い起こそうとしても、画面に映っていたはずのそれは光の中に溶けてしまい、まるで日傘を持つモネ夫人のようにうまく像を結んでくれない、これが私の理想なのです。 フルフィギュアで捉えられるモネ夫人の顔に留まらず、もう少し過激に言えば、例えばムンクが描く女性たちのように、口づけできる距離に彼女がいるにも関わらず、つまり画面に映ることが積極的に選択されているにも関わらず、きっと美しいはずのその表情が、なぜか模糊として有耶無耶であるという奇っ怪な事態さえ望まれます。 これは谷崎の筆致が創造し得た、怪態と言って良い"美"への映像側からの挑戦です。...がしかし、これを映像でやると単なるモザイク処理になってしまうんじゃないか。 実際の撮影では、極力画面から北の方の顔を隠蔽しつつ、男達の浅はかさを通じて間接的にその美を描くことが目指されるのではないかと思います。しかし、原作に忠実な正攻法を映像に適用したとき、出来上がった映画が観客をフラストレーションで押し潰すであろうことは容易に想像できます。 かと言って、私が理想とするところのものはすでにオカルト的であり、王朝絵巻はホラー映画に接近してしまうことになるでしょう。これは困難な問題です。 過去の『少将滋幹の母』映画化の挫折は、少なくとも企画者側に芸術を世に問う最低限の資質があったならば、この困難も要因の一端にあったはずだし、またこの困難に魅せられたことこそが、企画立ち上げの要因の一端でもあったはずです。 困難の克服を模索してみます。ひとつは、例にひいたモネの絵が答えを与えてくれています。 そこに描かれたカミーユが"顔なし"なのは、逆光だったり印象派独特の筆致のせいだったりしますが、なによりも風に舞うヴェールのせいです。北の方であれば、当時身分の高い婦女子が顔を隠すために身に付けた衣被(きぬかづき)ということになるのでしょう。 絢爛たる色彩に溢れた『少将滋幹の母』は、こうして"類い稀なる美"を包む透過性の美しさを得ます。両義的と言える半透明の美は、時に目まぐるしい色彩変調の中に、静かな一貫性を与えることになるでしょう。 しかし、モネの例だけではやはり不十分です。それは優等生的な答えであるかもしれませんが、あくまで隠ぺいする姿勢であり、たまたまその効果を美学的に利用できているに過ぎません。より過激な例としてムンクの例を挙げておいた以上、その困難は解決されるべきです。 と、強く出ながら正直良い方策が思い浮かばないのですが、上に書いたこの困難はしかし、困難自身がすでにひとつのヒントを与えてくれているとも言えるのです。 つまり、『少将滋幹の母』が、北の方の美しさを通じて、ホラー映画に接近してしまうことがそれほど間違ったこととは思えない、という意味においてです。
by hychk126
| 2014-08-28 17:58
| 芸術
|
Comments(2)
面白いです。私も谷崎のファンなのですが、この小説は未読でした。それなりの規模の商業作品でそのような演出を実現させるのは難しそうですけれど、そういう映像を頭の中に思い浮かべるだけでも楽しいですね。
たしか谷崎の中篇「天鵞絨の夢」は、ある男が自分の理想の世界を映像化しようとする活動写真製作についての物語でしたが、それは逆に、「女優の顔のアップばかりで、何を伝えたいのか分からない」と、活動写真の会社が買ってくれないという内容だったのを思い出しました。
0
Commented
by
hychk126 at 2014-08-29 09:29
はい。やはりここに書いたのは私の夢の話に留まります。
舞台設定を考えても小規模な映画化というわけにはいかないので、やはりキャストでも集客できる商業映画にならざるを得ないですね。しかし安易に手を出すと時代劇スペシャル「母恋ひの記」(いちおう『少将滋幹の母』が原作)の黒木瞳にのようになってしまう。(黒木瞳が悪いわけではありませんが) 「天鵞絨の夢」は読んでるはずですが記憶にありません。おもしろそうですね。自宅ロフトの奥のほうに谷崎全集が眠っていますので久々に手にしてみたいと思います。谷崎にペンではなくカメラを持たせてみたらどんな欲望の発露が見られたか、興味深いです。
|
ファン申請 |
||