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様々なメディアミックス展開を見せる『進撃の巨人』(諫山創 原作)について、ファンにとっての目下の楽しみは、年末に総集編として準備されている劇場用アニメと、来年夏以降公開予定の樋口真嗣監督による実写映画ということになるかと思います。 私自身これまでのところテレビアニメ全26回でしか接していませんが、そこから感じられる魅力について触れておくと、「描かれているもの」と「表象されているもの」とのアンチノミーにクラクラさせられてしまう、ということが言えます。言い方を変えると、「捉えどころなく良くわからないもの」と「見誤ることがないくらい明瞭なもの」との二律背反の魅力ですね。 以前ツイートした「もし自分が巨人を実写化するなら」をここで少し丁寧に繰り返しておきます。 人類が知り得る限りの巨人という存在の解剖学的叙述、三つの城壁の建造に係る史料の評価検証、壁内における人類の生活様式の推移やカーストの考察、立体機動を中心とした武具および戦術の解析、巨人にまつわる目撃証言や伝承記録の検証、といったスペック羅列を2時間かけて執拗に描き、ラスト5分には生きた巨人に城壁を襲わせたい。つまり、メルヴィルの『白鯨』のようなワケの分からないものを目指したい。 こうして私によってめでたく実写化された『進撃の巨人』は、合成論や統計的アプローチによる「最適な説明への推論」を拠り所に「捉えどころなく良くわからないもの」へと接近しながら、それが無残にも粉砕される様を描きます。 しかしそれでは全然"進撃"ではないし、主人公も必要ないことになるし、「捉えどころなく良くわからないもの」にフォーカスした姿勢は、むしろ旧態のポストモダニズム的主題の圏内に露骨にしがみ付いたものでしかないかもしれません。 『新世紀エヴァンゲリオン』でも『魔法少女まどか☆マギカ』でもいいですが、彼ら彼女らが対峙することになる「捉えどころなく良くわからない」ものは、扱われる主題のみならず、表象そのものが組織化されていません。それらは非線形であり、還元主義では回収不可能な複雑系であり、量子力学における不確定性原理やカオス理論の守備範囲です。こうしたものが、前世紀末からいまだに一部(大人向けと呼ばれる)アニメのトレンドの一端を担い続けているのは事実だと思います。 最初に書いた、『進撃の巨人』における描くものと表象するものとのアンチノミー、「捉えどころなく良くわからないもの」と「見誤ることがないくらい明瞭に分かるもの」との二律背反というのは、前世紀末以降のトレンドに無縁ではない謎だらけの非還元主義的主題設定によって、積極的に組織化・構造化され得ないものを描きながら、そこ(私が実写化で目指したもの)には留まらず、あくまでも「見誤ることがないくらい明瞭に分かるもの」を通じてそれが表象されている、ということであり、明瞭に表象されているものとはつまり、完璧に組織化・構造化された"女型の巨人"の躍動美を指します。 それは、日本のSFアニメが長らく好んで描き続けてきた過度にノン・リニアなものを拒否する態度によって、美しいと言えます。 "女型の巨人"の人体模型的造形美には、正体をめぐるサスペンスに加え、巨人の存在論的な謎、つまり世界の謎が張り付いています。そうした非線形で組織化されない謎を巨大な体に張り付けたまま、アスリートのように走り、跳び、格闘する"女型の巨人"の姿の中に、私は最初に触れたアンチノミーを見ます。 しかし、体の部位に名称を与えて概念化する解剖学的存在感によって、"女型の巨人"は複雑系もカオス理論も寄せ付けません。見る側はそこに何を見ているのかを見誤ることはなく、アンチノミーは見たままの快楽の中に昇華されるのです。 それは、アニメに限らず洋の東西問わず、昨今の画面に溢れ返る非線形なもの、組織化されないもの、「なんだかよく分からないもの」を相手にし続けている私たちの疲れた目に、驚くほど新鮮で滋養に満ちた快楽を与えてくれます。 (※1) 以前"女型の巨人"のアクションについて、「近年のSFアニメが描いてきたものの中で最も価値あるものの一つ」と賞賛のツイートをしたのは以上の意味においてです。 ※1. 例は悪いかもしれませんが、マイケル・ベイの実写版『トランスフォーマー』シリーズなどを観るとき、ガシャガシャと喧騒極まりないインフレ状態の画面の中に(3Dならなおさらです)、私たちは一体何を観ているのか?と眼をショボショボさせながら自問してしまう瞬間があります。ポストモダニスム云々とは関係のないこうした単純な症状にも、"女型の巨人"は滋養強壮の効用を発揮するでしょう。
by hychk126
| 2014-08-26 18:18
| 映画
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