検索
ブログパーツ
最新の記事
以前の記事
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
|
以下、前回投稿済みの「円錐体周遊 - 1」を前提として継承したものになります。特にベルクソンの記憶の円錐体についてご存知ない方は前回記事をご一読ください。 ではあらためて「記憶の円錐体」を載せておきます。再度ことわっておくと、青矢印はベルクソンの言うところの回転運動と置換運動を私が自分のイメージとして勝手に付図したものであり、ベルクソンがこのように提示しているわけではありません。 ▼ 引き続き物語である以上は 「映画の運動」には批判的な見解を示したベルクソンでしたが、彼の「記憶の円錐体」が図示する「持続」の概念が、如何に物語全般と近親性の高いものであるかを前回述べておきました。 「持続」の概念とは記憶の収縮運動のことであり、そこでは過去と現在を異なる点で表わすことはできず、あえて言うなら「現在」とは「持続」そのもののことであり、円錐"S-A-B"を貫く力学のことです。 物語の登場人物たちの、その時のその決断が如何に規定され、結果としてどのように行動し、記憶の突端"S-P"にどのような宇宙が表象されるのか、その説得力や共感、ときには意外性について、その繰り返しを普通の物語であれば描こうとするはずです。 繰り返すと、私はこの「記憶の円錐体」が喚起するイメージが大好きです。映画であれ小説であれ、およそ物語であるものに接する中でついついあの図形が想起される瞬間があるのですが、しかしどんな物語であってもそうなのかと問われると、必ずしもそうではない。 物語の流れが主人公の過去や記憶に大きく依存する構造であったとしても、必ずしもあの円錐体が私の眼前に現れるわけではない。むしろ多くの場合、感じられるのはやはり直線上に時系列で配置される独立した過去・現在・未来であるに留まります。 円錐体の力学としての持続が想起される作品と、直線上を進む時間として想起される作品との私が感じる違いについて、私は他人を納得させ得る明確な説明ができません。その違いは、フラッシュバックの有無や物語が時系列に(文字通り直線的に)語られるかどうかとも直接は関係なさそうです。もちろんその違いが作品の優劣を示すわけでもない。 ここでは一定の努力を試みますが、先回りして言っておくとこの違いを語ることはやはり困難です。 「物語である以上は」全てが等しくあの円錐体に重ねられて然るべきです。こうした物語と時間との関係はあまりにもベーシックなことであるため、例えばアンゲロプロスの物語とバーホーベンの物語とをさえ、この論理で明確に互いを差別化することが困難です。 仮にここで、ジス・ドゥルーズを持ち出して良いのなら困難の収拾は比較的簡単でしょう。上の例であれば、かたや「時間が運動に従属する映画=ハリウッド的=分かりやすい」、かたや「運動が時間に従属する映画=アンチハリウッド的=ちょっと小難しい」と差別化できる。 しかし、このシリーズの当初方針として「タルコフスキーなど持ち出さず」と書いたのは、「ドゥルーズまで進まず、素朴にベルクソンの円錐体に留まりながら、そこから物語を透かして観察してみる」くらいの意味でした。(この話題で『市民ケーン』を持ち出さないのもそのためです) もちろんドゥルーズもベルクソンに大きく依存はしているけれど、先の見事に簡潔な論理などはやはりドゥルーズのものです。 ここでがんばってベルクソンに留まってみることでも、さきほど差別化困難とした物語の持続の在り様に、程度の差を認めることはできそうです。あえて言ってみるなら、一方の主人公たちは円錐体の底面"A-B"に向けた弛緩に執着する傾向を持ち(この弛緩が収縮へのバネとなります)、一方の主人公たちはより突端"S"付近に執着する傾向が感じられます。"S"への執着を突き詰めて言えば、より反射神経に近い運動ということになります。 もちろん、主人公の全行動を反射神経だけで構成する物語はちょっと想像できませんし、逆に、存在が底面"A-B"と一体化することで空間へ溶解してしまう映画というものも想像できません。やはりここには程度の問題があります。 こうしたややこしさを抱えたまま自分にできるのは、眼前に現れた円錐体の形状と運動が際立って美しいものに感じられる作品について、その美しさを語ってみることしかできない。今回の動機はまずそこにあります。 ▼ ある女スパイの回想 アン・リー監督の『ラスト、コーション』(Lust, Caution 色・戒 2007)は、ひと際美しい円錐体が私の眼前に立ち現われる作品のひとつであることを過去に何度か語ってきました。 物語の舞台は日本軍占領下の香港と上海。抗日組織を弾圧する特務機関員イー(トニー・レオン)と、彼の暗殺を目的に身分を偽って接近するヒロイン=抗日工作員ワン・チアチー(タン・ウェイ)。正確には「敵を愛した女スパイ」といったテンプレートには収まらないところが魅力なのだけど、160分間という長尺をざっくりしたあらすじとして理解するにはひとまずそういうことでも構わないこの映画について、以下もう少し丁寧に流れを追っておきたいと思います。 映画を愛し、スクリーンのヒロインに激しく感情を移入する女の子として描かれる本作のヒロインは、仲間たちの稚い愛国・抗日精神が結束を欠くなか、ただ一人政治的イデオロギーとは無縁なものに突き動かされています。それは、今の自分ではない別の人格(架空の女性=マイ夫人)を演じることへの情熱です。 そのためなら、口にしたことのないタバコを吸うことはもちろん処女を捨てることさえ厭わない、そうした”他者を演じること”への情熱は、ターゲットである特務機関員イーの持つ鉄壁の警戒心をしだいに解いていきます。 この間に描かれる執拗な性描写の過激さが話題となりました。レイプまがいのものから始まり、しだいに二人が絶頂の瞬間を共有するに至るまで(D.H.ロレンス的昇天の達成)幾度かの過激なセックスシーンによって、アメリカでNC-17指定、日本でR-18指定、中国で短縮版上映という事態、つまり成人映画ですね。 そうした描写の必然性についてはここでいちいち論じませんが、過激な情交を含む二人の心理戦の先に、最終的にイーがヒロインに見せてしまうのは相手への信頼と依存の感情であり、ヒロインがそこに見ることになるのはイーの孤独や苦悩であり、「愛」とは少し趣を異にするものです。 また先に書いたように、ヒロインを両側から引き裂くそうした感情の一方の端にあるものもまた、愛国精神や任務への責務といったものではなく、当初はきっかけであったかもしれない仲間のリーダー的存在クァン(ワン・リーホン)に対する恋心でもなく、やはり自らの存在価値をそこに認める女優的達成にあります。 このような劇中の構造は、本作のヒロインに抜擢されて大物トニー・レオンに体当たりで挑む新人女優タン・ウェイという図式に重なるもので、それが本作に生々しい効果を与えています。 やがてヒロインは、工作員としての最終目的である暗殺のトラップへとイーを誘導することに成功します。映画は作戦決行当日から始まり、そこに至るまでの過去の経緯がヒロインの長いフラッシュバックによって描かれて行きます。 つまり、この映画を通じて私たちが見るものの大部分はヒロインの記憶であり、回想です。こうした構成自体は決して珍しいものではないし、手法そのものが特段優れているわけでもありません。 作戦決行を前に喫茶店でターゲットを待つ現在のヒロインは、一人静かに円錐体の底面へと沈み、やがて戦火を逃れて仲間たちと香港に移住する学生時代の光景にその着地点を見出します。 そこは、大きな収縮運動が必要とする記憶の開始点です。 ▼ 大きな収縮が収斂する先 現在の私たちの行動とは、「現在の知覚-行動に必要な記憶を、過去全体の収縮とともに"S"に押し込み、"P"に突き立てる」、ことでした。 私にとって円錐体が立ち現われる映画とは、まさしく「現在」がこの美しい定義に相応しい運動として描かれる映画のことです。 都度個別的な記憶の収縮は劇中幾度もヒロインの決断と行動を描きはしますが、それは最初の方に触れた「程度の問題」です。 この映画に見るべきはやはり、2時間以上を要して描かれてきた一つの大きな記憶のうねりです。それは最終的な突端"S"に収斂するための一つの大きな運動でもある。それが現在の知覚と重なることによって如何なる突端を形成し、世界をどのように突き刺すのか。トラップの舞台となる街路に面した宝石店の店内で、本作のクライマックスが描くのは正しくそうしたものです。 ご覧になった方であればすでにお分かりのように、大きな持続の運動は、現在のヒロインの口を衝いて出る小さなセリフへと収斂します。イーから贈られた指輪を手にしたヒロインは、躊躇ののち消え入るような小さな声で「逃げて」という言葉を口にする。 すでに彼女に対して心を開いているイーに対して呟かれるこのセリフは、映画がこれまで描いてきたものの全てが大きな運動とともに最大限収縮し切る瞬間です。日本語にしてわずか3文字、英語字幕に至ってはアルファベットでわずか2文字(Go)のセリフが、この大作のクライマックスを不足なく担っていると言ってよいでしょう。 それは収縮の頂点、文字通り突端の"点"と呼ぶに相応しい、小さなセリフです。 言うまでもなくそれは「今あなたが私とこの場所にいるのは私と仲間による罠であり、このままではあなたは殺されてしまう。だから今すぐ逃げてほしい。」という意味です。 正確にはそのセリフが口を衝いて出る瞬間の全てのニュアンスというべきものが、突端"S"です。 弛緩の着地点から現在に至るまで長く語られてきた記憶の総量の大きな収縮が、そのニュアンスを構成するものであり、未来へと彼女を不断に前進させる力です。 「持続」の観点から見た時、このクライマックスは以上のように説明できます。 この瞬間のニュアンスを不足なく描くために要する記憶の総量を考えるとき、フラッシュバックの着地点(弛緩の度合い)の的確さは完璧なものに思われます。映画はそうしたものに必要なだけ時間を遡り、不要なものは省略し、現在に至るまでの様々な回転(自転)運動を見せてきました。 ここにおいて映画全体とほぼ等価である収縮の運動量と、そうして形作られた円錐体の形状は、無駄や濁りのない極めて美しいものに感じられます。それは収斂先への完璧な貢献を示すでしょう。 弛緩の着地点があの場所でなかったなら、おそらく映画は幾分かの贅肉を纏ったかもしれないし、逆に不足があったかもしれない。それは彼女の決断="S"を構成するニュアンスに、幾分かの変化を与えたかもしれません。 そのように描かれる"S"のニュアンスは、現在の行動を説明するあの美しい表現、「現在の知覚-行動に必要な記憶を、過去全体の収縮とともに”S”に押し込む」ことに相応しく構成され、そして「"P"に突き立てる」に相応しい鋭利さを持っています。 その突端が鋭利であるのは、すでにヒロイン自らの死がイメージされていることも関係しているでしょう。作戦放棄が招く工作員としての死だけではなく、彼女の情熱が終焉をむかえる意味においてもです。 それはまた、結果的にスナイパーによる暗殺を免れたはずのイーにとっても、致命傷と言えるほど鋭利ないものであったことは想像できます。彼女が突き立てたのはそのようなものです。 そして映画は残された短い時間をかけて彼女が表象する宇宙を描きます。 ▼ 小さな自転運動が差し向けるもの 「収縮」するためには「弛緩」が、「弛緩」するためには「収縮」が必要です。自らターゲットを逃したヒロインは、しばし弛緩のうちに一切の回転(自転)運動を停止することで自失しているかのようです。 やがてショーウィンドウ越しに通りかかった一台の自転車(乗客を運ぶ三輪車)を認めて反射的に呼びとめます。 行き先が定まらないまま乗車した自転車の座席から彼女が目にするのは、ハンドルに飾り付けられた風車と、運転する男の無邪気に明るい表情です。 このシーンが感動的であるのは、デスプラによる「こんなメロディ、安易にスコアにするな!」と怒鳴りたくなるくらいシンプルで美しい旋律のせいもあるのだけど、それはやはり彼女が記憶を突き立てた先が、結果的にそのような無邪気で優しいものとして表象してあることにほかなりません。 それはこれまでの彼女と、現在の彼女の意思(自死)を赦そうとする光景です。こうして"P"の表象を含んだひとつの大きな記憶の円錐体が完成しました。 しかし、ラストシーンに向けて映画はもうひとつの小さな運動を描こうとします。 それは小さな回転(自転)運動が不意に拾い上げる記憶の一端、香港での学生時代仲間たちが彼女に名前を呼び掛ける懐かしい光景です。この回転運動は映画の中では数秒のカットとして、序盤で使用された映像をそのままリピートする形で挿入されます。 反射的に差し向けられたようなこの小さな記憶の回転は、ここまで映画が描いてきた大きな持続と比べるなら、突端付近にのみ関与する小さな収縮でしかありません。しかしそれは決定的な運動として彼女に作用します 服毒しようとする彼女の手は止まり、このうえなく美しく描き終わったと思われた円錐体は、こうして新たに置換されます。 自分は赦されてなどいないこと、裏切った仲間たちに会わねばならないこと、そう気付いた彼女の最後の決断は、"P"を真逆のものへと変容させます。 それは、処刑場で彼女を責める仲間たちの苦悶の表情と、どこまでも深く闇に沈む暗い谷底の光景。映画は、彼女が最終的に選んだものの中へと暗転していきます。 ▼ もう一度確認しておくと いくぶん余計な情緒に流された感じもありますが、『ラスト、コーション』という映画の美しさが、映画全体の収縮運動として描かれる円錐体の形状の美しさと等価であるということを確認してきました。 しかし困ったことに、このように円錐体の美しさを賛美することは、私による後付けの論理でしかありません。ここには結局どのようにでも説明できてしまうことの(容易さではなく)難しさがあります。 意図的に議論を単純化するなら、映画のヒーローたちは常に決断を迫られています。例えば、シルベスター・スタローン扮するベトナム帰還兵の絶望と怒りの理由を、映画は描くわけです。若くて美しい女スパイであろうと、マッチョで孤独な男性であろうと、そこに持続が収縮していることには違いがなく、最初に触れておいた程度の問題だけがあります。 「現在の知覚-行動に必要な記憶を、過去全体の収縮とともに"S"に押し込み、"P"に突き立てる」 これは、私たちの現在と宇宙との関係を簡潔に説明し得る私が知る限り最も美しい表現です。それは美しいと同時に、朝起きて夜寝るまで、生を受けて死ぬまでのあらゆる瞬間を網羅します。 やはり差別化の難しさとは、この思想の器の大きさに起因するものであり、何を論じても「当り前さ」に吸収されることの難しさであるようです。逆に言えば当り前であるから美しいのですけど。 もちろんここで言われる「当たり前さ」にいちいち執着してみることには意味があるし、むしろそうした議論は好きでさえあります。しかし、あくまでそれは現象学的探究による「自明の理」の徹底解剖といった類のものであり、芸術から受ける感銘の話とは違います。 ベルクソンの円錐体のイメージとともに持続の運動が可視化される瞬間の稀有な価値を、そうした「当り前さ」から切り離して大仰に特筆しておきたい。さきほどの『ラスト、コーション』の読み方はそういう試みでした。 しかしそれが成功したようには到底思えません。『ラスト、コーション』から少し離れて相対的な違いをもう少し考えてみることにします。 ▼ ノスタルジア さきほどのランボーの例はさすがに乱暴すぎたかもしれません。もう少し類似性の高いもの、それは題材によってではなく、例えば記憶と現在、時間の経過といったものが重要な要素として扱われ、かつ同じように3時間級(またはそれ以上)の大作のことを、駆け足で思い浮かべてみたいと思います。 ベトナム戦争出征前の結婚パーティー、または社会理想への想いを馳せるハーバード大学の卒業式、マイケル・チミノによって冒頭長々と描かれるこうした時間は、やがて経過とともに「引き返せない過去」となります。それは現在との残酷なコントラストを示すでしょう。 こうして過ぎ去ってゆく時間や記憶、さらには、タイタニック号の惨事に自身のロマンスを重ねて語る現在の老女に刻まれたシワ、こういったものはおそらく時間を語るうえで最も身近な感覚に寄り添うノスタルジーであり、映画が一定時間(上映時間)をかけて「それ以上の時間(物語内の経過時間)」を描こうとすることが必然的に喚起してしまう、ある種のセンチメンタリズムです。 アルフレードの残したフィルムを目の当たりにするトトが流す涙は、舞台となる映画館周辺の風景の変容(風化)といったものと一括りにして「ノスタルジーじゃん!」で済ませることがたぶん許されるし、セルジオ・レオーネの素晴らしい遺作が「アマポーラ」や「イエスタデイ」に乗せて描く「過去と現在」は、青春のリグレットとその清算です。 ここで「ある種のセンチメンタリズム」のことを「所詮は感傷」などと言うつもりは全くありません。私はそんな感傷が大好きだし嫌いな人はそういないはずです。 しかしこれらの作品で描かれる記憶の諸相は、円錐体の形状を競うよりむしろ、直線上に配置される方が相応しいように思う。念のためここでも繰り返しておくとそれは、これらの作品が作品として劣っていることを意味しません。 振り返られる過去は、「振り返る」と表現されることですでに前後を意味し、直線上に配置される時間経過を想起させます。 振り返られる過去、取り出された記憶や時間経過、そのように物語が扱うときの「時間」は、活劇における「銃」や「美女」のようなエレメントです。それは「持続」とは直接関係のない話です。 あれほど円錐体に引き寄せて語ってきた『ラスト、コーション』でも、「汚れない時代に引き返すことができないヒロイン」といったものを直線上に配置できてしまう瞬間は幾度となくありました。 だからここではベルクソンのみならず、過去の哲人たちが「時間」を扱う際に細心の注意を怠らなかったあの慎重な手つきが必要なのです。 それほど全ての人の共通感覚に訴求できてしまう「振り返られる過去」は、物語の中で絶大な効果を発揮する残酷さのエレメントだと言えます。 少し脱線しますが、時間経過に残酷さのエレメントを見るなら、その突飛な例として『A.I.』を思い起こしても良いかもしれません。経過省略や場面転換の手法として誰もが親しみのあるテロップを使った「…80万年後」という驚愕の切断!その承認を押しつけてくるスピルバーグ的なエゲツなさには鳥肌立ちました。それは残酷を通り越してすでに直接的な暴力じゃないかとさえ思わせます。 それはともかく話を戻します。総じて言うなら、上に見てきたものは主に記憶の再生です。つまり、一点に向けた収縮を必ずしも前提としない弛緩の傾向を示しているでしょう。それは、記憶全体を突き立てることで直接世界と関わるために動員される記憶ではないし、美しい円錐体を必要ともしません。 「持続」とは今現在の運動のことであり、そのために必要な過去が如何に動員されるかを示すものが「持続」だからです しかしベルクソンは、最終的にはあらゆる存在を「持続」の概念に包括するのでした。ならば記憶の再生=弛緩の傾向に照準したものを「持続」から完全に閉め出してしまうのはやはり大きな間違いであるように思われる。 では、弛緩の傾向を示しつつそれでも私たちをベルクソン的存在論へと誘わずにおれないような作品は存在しないのか。 文字数制限が近づいてきました。最後に、そうしたものを代表する作品の一つに触れておくことで本稿を終えたいと思います。 ▼ ある娼婦の回想 そこに劇的な収縮が描かれなくとも「持続」への接近は可能だろう。 溝口健二監督『西鶴一代女』(1952)はいわゆる「女の一生もの」であり「一代記」の形式で主人公お春の薄幸の人生を辿ります。 映画は表現主義かと思わせる夕闇の中にひっそりと佇む廃寺の風景から始まり、そこに娼婦に身を堕した現在のお春を捉えます。ふと立ち寄った仏殿の中で、静然と並ぶ多数の仏像のひとつに若き日の恋人の面影を重ねる彼女は、記憶の底面"A-B"へと静かに身を沈めていきます。 仏殿で深い回想に耽るお春は「弛緩」の側に振り切ったお春です。前回、石ころの存在を例に確認したように、底面“A-B”付近で限りなく弛緩しきった状態であるもの、すなわち存在として最低限の収縮のみで持続しているものは「物質」でした。さらにその先には「空間」があります。 「振り返られる過去」といった生やさしいものはここにはありません。ここで溝口が描いているものはきっと、物質である仏像と存在論的に一になるお春です。 それはまさしく、収縮の運動量を誇ることなくべルクソン的存在論の「一元論的核心」にまで接近し得ているように私には感じられます。 ここでのお春が、最低限の持続によってかつての恋人との一体化を成就したように見ることにも甘さが残ります。「物質」や「空間」への接近はそんな情緒が完全に切断された世界です。物質が固体を保つために行う持続の運動というものを私たちは想像してみることさえできませんが、これまで溝口が描いてきた(特に女性たちに対する)ある種の苛烈さの頂上に、そうした前人未到の世界を置くことに不思議な納得感があります。 究極の弛緩は「空間」への溶解です。思えば『西鶴一代女』の語り始めに広がるこの世のものならざる夕闇の風景は、そのイメージとしてのわずかな一端を感じさせてくれるようにさえ思われるのです。 ▼ To Be Continued 収縮の側のドラマティックな例として女スパイの回想を、弛緩の側の極端な例として老いた娼婦の回想をそれぞれ見てきました。少し議論が散漫化したようです。私に崇高な議論は無理だとしても、通俗性に寄った進め方に徹することが、かえって破たんを起こし始めていることも事実です。 破たんしてきた一方で、このような厳密さの足りない議論が許されるのなら、ほっとけば際限なく出来てしまうという、実にいいかげんな感じもプンプンしてきました。散漫にキリがなくなることを自省して次回を最終回としたいと思います。
by hychk126
| 2014-08-02 22:47
| 映画
|
Comments(2)
Commented
by
カモ
at 2014-08-03 00:01
x
はじめまして。最近ディアハンターを観たのもあって、興味深く読ませていただきました。逆三角錐の図も、物語におけるカタルシスを図示されたようで面白かったのですが、逆”円”錐である必要はどこから来ているのかが疑問でコメントさせていただきました。もちろん回転運動ということはわかってるんですが(そしてイメージもしやすいのですが)、例えば逆三角錐では表現できない理由があるならば教えていただきたいです。
0
Commented
by
hychk126 at 2014-08-03 10:24
はじめましてカモさん
なぜ三角錐でないのか?それはよくわかりませんねー。 三角錐のほうがちょっとクリスタルな感じがして記憶の断片には相性良さそうですが、やはり持続を表現するとなると頂点が4つもあってはいけないんだろうと、思います。 私はむしろ、なんでこの円錐体が逆円錐なんだろうかと、実はそこがいまだによく分からなかったります。たぶん「物質と記憶」を読み直しても、三角錐ではいけない理由も、転倒していなければいけない理由も書いてなかったと思います。 だからここではそれを問わず、全部「美しい」で済ませてしまってます。(笑)
|
ファン申請 |
||