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▼ Introduction アンリ・ベルクソン (Henri-Louis Bergson 1859-1941)の主著『物質と記憶』(1896)に登場する、有名な「記憶の円錐体」の話。ここではその本質に迫ることは目的としていません。その巨大な思想の一部、ここでの論旨に必要な部分のみを最小限借用するに留めます。 本稿は映画の話なので、まず最初にベルクソンの思想と映画との近親性を確認しておきますが、映画が「記憶」や「持続」といったキーワードと無関係ではないことはもちろん、何よりも主著『物質と記憶』の中で、当時黎明期にあった“映画”そのものがとりあげられていることからも明らかです。そこでは、映画に対して批判的な立場のベルクソンを確認することができます。端折って言うなら、彼は映画を「ニセの運動である」と指摘しているわけですが、批判的であれ何であれ、ベルクソンの思想が「映画の作り出す運動」に対して無視を決め込むことができなかったのは事実です。 ベルクソンの「映画の運動批判」は、後にジル・ドゥルーズの大著『シネマ』において、超克すべき前提課題として取り上げられることになりますが、この興味深い問題は本稿では扱いません。一言しておくと、ベルクソンによる批判の仕方も、ドゥルーズの超克(回避)の仕方も、ともに天下の大理論家に相応しくない安易さが感じられてしまうのは私だけではないと思います。ものすごく大雑把に言えば、ベルクソンによる批判はどこか大人げないし、ドゥルーズによる超克はあっさりし過ぎてどこか厳密さが足りない、読み手にわだかまりを残すものになっています。繰り返しますがここでこの問題は扱いません。 ともかく、良くも悪くも映画をめぐる思考と無縁ではいられなかったベルクソンの思想に私も無関心ではいられず、いくつかの映画を語る際に付け焼刃とも言える知識で安易に引用する機会が少なからずありました。ブログやTwitterで触れてきたもの、そのいくつかにあらためてスポットを当て直し、ここに整理しておきたいというのが本稿の動機です。 それはたぶん、厳密さからは遠い感覚的なものになりそうです。あえて言えば、語り始めに持ってきた「記憶の円錐体」に導かれて、あの美しいイメージにいくつかの思索を重ね合わせたものになると思います。 こうした場合、一般的にはタルコフスキーなどが持ち出されて記憶をめぐる高難度で大変美しい論考となりがちですが、私の場合扱う題材も円錐の利用方法も、(相対的には)もっと肌感覚で分かりやすい通俗的なものを目指します。というかそれしかできません。 ということで、まずはベルクソンのよる「記憶の円錐体」のイメージを再確認することから始めたいと思います。以下は、どこまでがベルクソンの著書に忠実で、どれくらいがドゥルーズによる補完で、どれくらいが私の勝手な理解かが判然としませんので、引用元の記載は避けます。なお、「記憶の円錐体」についてご存知の方は次の小見出しを飛ばしていただいて問題ありません。 ▼ ベルクソンによる記憶の円錐体(逆円錐) 円錐の底面を"A-B"、頂点を"S"とします。このとき、円錐全体を構成する"S-A-B”は記憶の総体を表します。"A-B”は不動ですが"S”は不断に前進します。詳細は後述しますが、ひとまずここでは"S”を「現在」と考え、"A-B”に向かうほど深い過去であることをイメージすると分かりやすい。 "S”が接する平面"P”は、私に表象されている(私が表象している)世界や宇宙です。"P”の構成要素と"S"とのやりとりが現在の自分の実際の行動であり、現在の経験であると考えます。このとき突端"S"は、記憶が最も「収縮」した状態と言われます。 「収縮」があるなら「弛緩」がなければなりません。「弛緩」なくして「収縮」は起こりようがありません。逆も然りです。すなわち底面"A-B”が記憶の最も「弛緩」した状態です。「収縮」した"S”は知覚-行動に近く、逆にユルユルバラバラに「弛緩」した底面"A-B”は運動とは無縁な夢想的な相です。 円錐の中には、この二つを両極とした無数の断面が存在します(下図)。この断面が様々な収縮の度合いを表しています。記憶の総体"S-A-B”は、こうして収縮-弛緩の不断の運動の中にあり、この状態が私たちの「持続」だとされます。 ベルクソンとは無縁な方でも、ここまではなんとなく「ふーん」程度に理解可能ではないかと思います。 "S”における記憶の収縮について、もう少し考えておきます。"S”の前進=現在とは、「過去がそこにみずからを差し込むことによって創造する」とされます。もう少し具体的に言うと、弛緩した無数の潜在的記憶の中から、現在の知覚-行動に必要な相をチョイスし、それを過去全体とともに"S”に押し込むことで、突端を"P”に突き立てる、これこそが現在の行動の形成であり、ひいては自らを未来へと推し進める運動だということです。 以上が"S”で起こっていること、そのために必要な記憶全体の収縮-弛緩の運動の概要です。これは革命といった大袈裟な運動の説明ではなく、コップを手に取る、前からきた車を避ける、といった私たちの日常生活の話です。 こうした収縮-弛緩による"S”の形成のために、"S-A-B”全体として二つの運動が必要である、とベルクソンは言います。 ひとつは「置換運動」と呼ばれており、上述のとおり"S”に向けて必要な記憶を押し込むための収縮運動のことです。下図のイメージですね。(以降の円錐への記号付図は、ベルクソンが提示したものではなく私が私の理解で勝手に作ったものであり、場合によっては誤解を招く可能性もありますのでご注意ください) ちなみに上図で底面に向かう点線の細い矢印は、弛緩、もしくは必要な記憶を"S”に召喚するために底面に向けた呼びかけを示しています。 もうひとつの運動は「回転運動」もしくは「自転運動」と呼ばれます。過去の記憶は意識されない限り分割されることなく、潜在的に存在しており、その全てが実現化されるわけではありません。そんな記憶の中で、現在の行動に必要な部分を明確なイメージとして形成し、現在の行動にとって最も有効と思われる面を、収縮へと差し向ける運動です。あえて付図するなら、下図のように私はイメージしています。小さく弧を描く形で置換運動に重ねてみました。 記憶全体の収縮-弛緩を中心としたこの二つの同時運動が円錐を満たし、私たちの現在の運動が成り立っているということですが、実際は上の図のようにサッパリしたものではなく、もっと複雑怪奇なうねりが円錐の内部を満たしていると考えられます。それがベルクソンの言う「持続」です。 では、こうしたメカニズムを意識することなく生活できている私が、それでも上述のような「持続」としてあることについて、もう少し理解を深めてみます。 こうした運動がなければ一体どうなるのかを考えてみる。運動がないとは、状態として記憶が最も収縮した突端"S”と、記憶が最も弛緩した底面"A-B”、この両極に執着してみるということです。 まず突端"S”。本当に完全に収縮し切った状態とはつまり、過去の表象力に一切頼らずに"P”に対峙することを意味します。そこではおそらく、いま手元で鳴っているスマートフォンに応答することもできないし、ある目的のために今座っている椅子から腰を上げ歩き始めることも困難でしょう。つまり、反射神経だけで生活し、刺激への反応を返すだけの人間ということになります。 ですので、私たちがどれだけ現在の知覚だけに身を置いたとしても、そこは突端の単なる点ではなく、必ず微量ながらも一定の記憶の厚み(深さ)が必ずあるはずです。 では逆に、完全に弛緩し切った底面"A-B"はどうか。それもまた通常では考えられません。完全な弛緩状態では、行動との関係を欠いたバラバラでランダムな記憶の再生があるのみです。それはなんとなく恐ろしいイメージです。 ちなみに、可能な限り最も弛緩した状態というのは、精神を持たない物質の存在に接近します。弛緩し切ったものの例として、道端に転がっている石ころをイメージしてみても良いかもしれません。しかしそれもまた最小限の深さを持ち、最小限収縮しているとされます。石ころもまた、微量ながらも収縮した「持続」であることによって、空間内に固体化されて存在するわけです。 そうなると完全に深さを持たない究極の弛緩状態というのは、単なる空間である、ということになります。 ちょっと話が少しややこしくなってきたのでこの辺で止めておきますが、日常生活を支えるこの運動が如何に複雑かつ有り難い処理であるか、なんとなく理解できた気がします。 少し脱線しますが、ドゥルーズの主著に『差異と反復』という大変難解な本があり、そこで「三つの反復」(三つの統合)というものが語られます。「三つの反復」の「第一の反復」と「第二の反復」は、そのまま今回用意したベルクソンの円錐体に付図できそうなのでちょっとやってみます。"黄"が第一、"青"が第二の反復(これはベルクソンの運動とほぼ同じ)を表します。 特に「第一の反復」の置き位置などは私のイメージする勝手なビジュアルであり、かなり怪しいものだと自分でも思いますが、ここでドゥルーズの反復にまで話を進めると映画の話ができなくなってしまいますので踏み込まずに流します。 いちおう、なぜ「第三の反復」を付図しないのかだけ説明しておくと、もちろん「第三の反復」こそが『差異と反復』の結論に近い最も重要なものだと理解しながらも、たぶんそれをここに付図すると円錐の図形内には収まらず、底面をさらに支えるものや、頂点のさらなる先の話になるだろうと思います。それはニーチェの永遠回帰に接近するし、あえてベルクソンで言えば『物質と記憶』を超えて『創造的進化』に向かう流れに近しいものです。それはそれで私の頭の中に美しいビジュアルとして勝手なイメージを持ってはいますが、ここでの論旨には無理な背伸びでしかないので省きます(というか語れないので逃げます)。 ▼ 物語がこの円錐体と無縁でないのは当たり前だが 少々長くなりましたが、ベルクソンによる記憶の円錐体について、いくぶん乱暴に整理してきました。 実は私、この逆円錐の図形が大好きなのです。私の感性に強く訴求してくる映画作品のいくつかによって、ときにこの逆円錐が強烈にイメージされてしまう瞬間が少なからずあるのですね。 映画は時間や記憶を扱い、時間や記憶に依存します。"S-P”がドラマとしてスパークし、そのときの主人公のその行動は、そのときに至るまでの"S-A-B”によって規定されるでしょう。普通の映画はそれを描きます。前置きで「扱う題材も円錐の利用の仕方も、もっと肌感覚で分かりやすい通俗的なものを目指す」と書いたのは、つまりそういうことです。 ▼ 母なる証明のワン・シーン ポン・ジュノ監督の映画『母なる証明』(마더 2009)は、“衝撃の真実”の衝撃の度合い、といった通俗的でテクニカルな問題とは関係なく、劇中のサスペンスがそれぞれ何に向かうサスペンスなのかが時に不明なまま、自己完結してしまったり、キチンとクライマックスへの道筋を準備したりと、予想できないヘンな膨張を繰り返す様が実にスリリングな映画です。 また、本作で扱われる主題や個性について、私は以前「ドストエフスキーの暗黒面が垣間見える」と書きましたが、今見なおしてもその表現を大袈裟だとは思いません。 印象的なシーンの多い映画ですが、ひときわ強烈に突き刺さってくるのは、刑務所で、殺人事件の容疑者であり知能障害を持つ息子(ウォンビン)に面会する母親(キム・ヘジャ)が、息子が口にした言葉に戦慄し絶叫するシーンです。 観ているこちらが事故にあったかのようなインパクトがありますが、一体あそこで何が起こっているのでしょうか。 文脈を確認しておきます。母親には無免許鍼灸師としての顔があり、針の施術によって「悪い記憶だけを消去する」ことができます。太ももの内側にあるツボを彼女のニードルが貫くと、忘れたい記憶は消えてしまう。上述の面会シーンでの母親の絶叫は、かつて彼女の手で消し去ったはずの息子の記憶を、息子自ら取り戻したことへの驚きです。 具体的には、母親には幼少期の息子に農薬を飲ませ無理心中をはかった過去があり(息子の知能障害はその後遺症です)、それは息子にとって母親に殺されそうになった記憶です。「ギャーーっ!」 ▼ ベルクソンの一元論について ここで再度、円錐体を想い起してみます。 円錐体”S-A-B”は記憶の総量であり、”S”は現在でした。こう考えることは間違いではないでしょうし、古典的な時間の考え方にも比較的近しく理解しやすいものです。 しかし、こうして説明される円錐全体を貫く力学は、あくまで「持続」とされています。この持続の観点から再度円錐を捉えるなら、現在とされた"S”とはつまり、過去と分けて考えられる現在ではなく「過去の最も収縮したレベル」であると表現することが適切です。 ここでは、過去と現在は単線の直線上で示される二つの時間ではなく、共存する要素です。 「持続」とはつまり、過去と現在、さらに(上の方での考察を再度持ち出すなら)記憶と物質までをも存在論的に統一する概念です。 これはベルクソンによる一元論です。ベルクソンの中にも紆余曲折ありますが、結果的にはそういうことになります。アインシュタインの相対性理論に対する姿勢にも表れているように、ベルクソンが最後に立つ場所はやはり一元論です。 ちなみに、こうしたベルクソンの一元論は『創造的進化』において呆れるほど巨大化して行きます。そこでは無数の円錐力学がひとつの大きなうねりを形成するに至り、あなたも、私も、石ころも、全てが一つの時間に参加します。宇宙が一つの記憶である状態ですね。スピノザ的と言って良いこうした世界解釈は、ここではひとまず必要としない論理ですので話を戻します。 以上の理解に立つなら、『母なる証明』の母親が手にするニードルは、単に「過去の記憶を抹消する」以上の大きな力として立ち現われてきます。それは「持続」の運動に決定的な変化を起こす力であり、"S”及び表象"P”を別様に変化させる力です。すなわち、あるべきはずの記憶の消去(または改ざん)は、「現在の改変」に他ならず、「存在の書き換え」であると言えるでしょう。 ▼ それは悪魔的な力だ 手法はともかく、こうした記憶の操作はまさしく、"S-P”の矯正を目的とした医療分野においても珍しいことではないだろうと思います。しかし、現在を改変する力の行使において、『母なる証明』の中でその妥当性を測るのは力の行使者であり、記憶を消される本人の意思はもちろん、審員は存在しません。 現在を、そして存在を改変してしまう一方的かつ自在な力の行使、それは表象"P”=宇宙を別様に変化させてしまう力です。私はそのようなニードルの一刺しに大きな邪悪を見るし、これを「悪魔的な力」と呼ぶことができると思う。 今回せっかく作った円錐図をMOTTAINAI精神で最大限活用するため、悪魔的力によって宇宙が変容するイメージを作ってみました。ある行動を起こすに際しての、本来の"P”=宇宙の表象を左として、同じ状況下で行動を起こすに際して、特定の記憶が失われていた(×)場合の"P”=宇宙の表象が右です。 おそらく、回転運動は決定的な変化を被り、収縮の度合いも変化し、"S”において知覚が獲得する記憶の内容は異なり、"P”は別様とならざるを得ません。こうしたことを、一方的かつ自在になせる力のことを悪魔的と呼びました。 ちなみに、ジュノの隣にパク・チャヌク監督を見てみると、『オールドボーイ』にもおぞましい記憶を抹消できる催眠術師が登場します。しかしそこには主人公の請願書があり、力の行使者は第三者的審員でもあり、さらに映画は観客にも審判の一部を担わせようとします。美しいエンディングであるにも関わらず、審判の是非が観客の中にも蟠りとなって余韻をズシリと残すクロージングとなっていること、またチャヌクのトリロジー全体がそうした観客巻き込み型審判として後味悪く機能していることは、ご覧になった方なら分かるだろうと思います。 『母なる証明』の中で、審員を欠いたまま一方的に現在を改変するニードルの一刺し、それがおぞましい力であることは、ラストで母親が自らに対してその力を行使するシーンと、それを捉えるカメラにも顕著です。 先に引いたパク・チャヌクの映画では、主人公の愚行を赦すことを促すかのような風景と音楽が用意されるのに対して、『母なる証明』のラストショットが示すのは、それがまるで正視に堪えないおぞましいものであるかのような突き放した感触です。 ▼ それは聖なる力だ 再び問題の面会のシーンに戻ります。あらためて、あそこでは何が起こっているのか。 母親のふるうニードルが悪魔的であるのなら、それに抗する力もまた存在します。この映画の中でそれは、「呪いのこめかみ」と呼ばれます。 知能障害を患う息子は、もともと記憶の維持が苦手であり、日頃から両手のグーで自分のこめかみをグリグリと圧することで、不意に失われた記憶が蘇るという特異技を持っています。これが劇中で「呪いのこめかみ」と呼ばれ、蘇る記憶がときに的外れだったりすることが前半のコメディ・ネタとして有効に活用されており、実際笑えます。 面会のシーンでは、悪魔的力によって失われていたはずの遠い記憶が「呪いのこめかみ」によって不意に回復してしまったことが母親に告げられることで、一気に戦慄が走ります。 「呪いのこめかみ」が、邪悪な悪魔的力に抗する手段になり得るのであれば、それが改変された存在に、変化を被った宇宙に、再び本来の姿を取り戻させる力であるのなら、ここではそれを「聖なる力」と呼んでもいいでしょう。 私は、聖なる力を「呪いのこめかみ」などと名付けるジュノのネーミング・センスを、心から愛しています。 そしてこの「聖なる力」は、白痴の無垢なるものとして装備されています。ドストエフスキーは、白痴の純真無垢をある種のアナーキスム的破壊力としても描写します。つまり、置かれた時代が純真さを欠くならば、無垢こそが死体の山を築くわけです。 そのとおり、まさしくこの「聖なる力」の破壊力たるや絶大です。「ギャーっ!」 ここまでの理屈に無理がないとするなら、あの面会シーンは聖なるものと悪魔との頂上決戦として描かれていることになります。 あのただならぬ叫び声は悪魔の側の断末魔である、そう理解しないとあの瞬間のインパクトは説明できません。あの面会室では邪悪と無垢とが火花を散らしており、上述の無垢のアナーキスムを考えるなら、正義を前提としない壮絶な戦いだと言えます。 母親はその場でニードルを取り出して再び息子の記憶を奪おうとし、それに対して「今度は母さんは針で殺そうとした。」と聖なる無垢は答えます。 この大勝負は、中盤ながらも最大のクライマックスをそこに築いています。もちろん無垢なものが発揮するアナーキスムは、ラスト付近で悪魔にトドメの引導を渡しますが、そこではすでにラストに相応しい静けさだと言えるでしょう。 ▼ 悪魔的力に限らずとも 映画終盤、息子の無実を信じていた母親は、衝撃の事実に直面します。ここに至って、事実を知る以前の自分に戻ることできません。母親にとって世界は変質し、後戻りは不可能です。ここでは、悪魔的な力の介在なく、事実を知ることによって"S”が決定的に変化し、"P”が一気に変容する様が描かれています。つまり青天の霹靂による世界の一変です。知ってしまった事実は、明瞭な輪郭をもって記憶の諸相に刻みつけられ、あらゆる収縮に介在してくるはずです。 『母なる証明』は、悪魔的力の行使や、決定的な事実の獲得による宇宙の変質、"P”が目まぐるしく色彩を変化させる様を描きます。 最初のほうにも書いたように、それは本作に限定的に言えることではなく、物語主人公一般の在り様であり、物語一般の在り様そのものです。ならば、物語そのものが悪魔的であるとも言えます。これは「物語の残酷さ」の一端であるでしょう。 ただ、ジュノについてのみ言えることもあります。『母なる証明』以前の作品、『殺人の追憶』や『グエムル-漢江の怪物-』の結末を想い起こしてみると、そこにはむしろ、決定的に引き返しがきかない変質を、驚くほど被らない主人公たちが思い浮かびます。 そういう意味で、ジュノにとっての『母なる証明』は少しばかり異例であるようにも感じられます。それでもしかし、悪魔的力を自らに行使して結局は「なかったこと」にしてしまう母親というのは、やはり徹頭徹尾ジュノ的引力にひっぱられた人物である、とも言えるのですが。 以上ここまで、ベルクソンの「持続」の概念をもとに、記憶の抹消が「現在の改変」「存在の書き換え」「宇宙の変容」に他ならないこと、そうした力の行使を悪魔的と考え、それに抗する聖なるアナーキスムとの対立構図を、公開時には”母の愛”のような形で押し売りされていた『母なる証明』の中に見てきました。 もちろんここで書いてきたことのさらに上の視点から、息子の罪も自分の罪も全て消してしまう、そうしたおぞましさを包含し得る“母の愛”、といった形で”愛”を語ることは可能かもしれません。 邪悪のみならず聖なる力の側にも無垢な暴力を潜ませることで、本気か冗談か分からなくなる展開の中にドストエフスキー的暗黒面をズッシリと感じさせる、『母なる証明』がそんな傑作であることは間違いないと思います。 ▼ To be continued 引き続き、一般的とも言える物語の在り様と円錐体との近接性について、それでもしかしそこで描かれる円錐の形状のひときわ抜きん出た美しさにおいて、わざわざ特筆しておきたい映画のことに触れてみたいのですが、このまま続けるつもりが、文字数に制限があるため稿を次回以降に割りたいと思います。
by hychk126
| 2014-07-26 11:15
| 映画
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Comments(2)
映画に対して否定的であるベルクソンの概念を利用しての映画の論考、興味深く読みました。
面会のシーンを悪魔との頂上対決とすることで、ラストシーンがより明確に、重みを増しますね。 直接関係が無いかもしれませんが、円錐形の運動から、以前書かれていた「メエルシュトレエムに呑まれて」との関連に思いをはせずにいられません。 また、これも以前書かれてた、「純粋知覚」を獲得しようとする「モネの眼」ですが、これが記憶の遮断という悪魔の力によって達成しうるのか。このあたりの問題が、hychkさんの意識する問題(私にとっても興味ある問題)に、まさに円錐状に収斂されていく感じがして、スリリングです。
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hychk126 at 2014-07-29 11:25
>k.onodera様
コメントありがとうございます。やはりブログにコメントをいただくのは嬉しいものですね(久々なので)。 ベルクソンにポーのメエルシュトレエムやモネの眼を重ねるって、もうそれだけで映画と哲学と文学と絵画芸術を総合する魅惑的な題材じゃないですか!ご指摘受けるまで全く意識はしていませんでしたが(笑)。 こうした論考は時代遅れで流行らないとは思いますが、ワクワクできるものですよね。 私は難しい論題ほど頭の中を単純な図象で満たして「こういうことか」と一人で合点する傾向があります。と書くと数学的でカッコ良く響くかもしれませんが、基本的には文系人間でポエムに寄っており、頭の中のイメージを見せるとかなり恥ずかしい幼稚な思考です。 新作の議論に絡めないのでわざわざこんな旧くて大袈裟なものに思考が向くのだと思います。最近すごいことになっているonoderaさんのブログも残念ながら半年後くらいにビデオ観賞後追いかけて読んでいる状況です。 あ、何か物言える立場ではありませんが、ついついマーニーは読みました。 後ほどTwitterのほうにもおじゃまします。
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