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いのち短し 恋せよ少女 ヒューマニズムと破壊衝動に引き裂かれながら、後者が前者を凌駕してしまう様がそのままスリリングに画面に貼り付いてしまう映像作家として、宮崎駿とスティーヴン・スピルバーグは双璧だと今でも思うし、それは一般的にも良く指摘されることでしょう。 宮崎監督について言えば特に、今世紀に入ってからは扱う題材をますますファンタジーの側に引き寄せながら、それに比例してドンドン抽象度を深めていくという、老齢にして発揮されるそうしたある種の過激さは、アニメーションに限らず世界中の巨匠と呼ばれる映像作家の中でも、特別頼もしく感じられる存在だと感じています。 しかし、抽象であることが常に歓迎されるものとは限らないし、抽象が具象よりも過激であるという理屈が存在するわけでもありません。 『風立ちぬ』では、例えば人声によるSEを得ることで、正しく「牙を剥くアニミズム」をストレートに爆発させた関東大震災の圧倒的に"新しい"描写にド肝を抜かれます。 しかし、そうしたもの以上に今回は、答えを出せないはずの主題に対する「回答保留」しない姿勢というものこそが、画面の運動を遥かに越えたところで過激なものとしてこちらに伝わってくる。 結論を先回りしてもう少し正確に言い直すなら、おそらく意図としては「正しさについての答えはない」であったはずのこと、つまり「否定などできない」であったはずのことが、作者自身の意図を食み出るほどの共鳴によって、おそらく「大いなる肯定」へと向かっているだろうということ。 おまけにラヴストーリーとしても逃げる気配がないわけですから、それはもう、たいへん過激であると言えそうな気がします。 先週鑑賞して以降、実はいまだ消化しきれないいる『風立ちぬ』について、ひとまず思ったことを書き残しておこうと思います。 なお、自分は実在の堀越二郎の真実も、堀辰雄の作品(「風立ちぬ」や「菜穂子」)のことも知らないし、宮崎駿の原作漫画も未読のままで、アニメーション作品『風立ちぬ』に接しています。 まず、アニメーションによって造形されたアクションの手応えについて言えば、本作がとんでもないステージにあるのはすでに多く語られているとおりだと感じます。 前述の震災シーンや、進んで困難が選択されている「風(に舞うもの)」の描写はもちろんのこと、計算尺や設計定規の惚れ惚れするような細部や、駅のホームで駆け寄る二人が抱き合う瞬間の体の軋みなど、数え上げればキリがないそうしたディティールが喚起する感動は、それだけで世界を海底に沈めるポニョの騎行に匹敵し得るアニメーションを見る快楽に直結するものです。 アニメーションにおいても、というかアニメーション故に「瑞々しく、何気ない、劇的ではない、日常の一コマ」といったものの描写がときに有難く感じられることがあるのに対して、ここでは物語の地味さに反して、画面の中はいちいち刺激的に仕上がっていると言えます。 時代の空気を活写するリアリズムと、命のないものに生命を吹き込む魔術との幸福な出会いに満ち満ちた画面。 しかし『風立ちぬ』は、宮崎アニメにおける運動の達成点にノックアウトされ、その運動と登場人物たちの想いが相似する様に感動とともに拍手喝采して済ませられる作品でないのは事実です。 上述のアクションを「手段」とまでは言わないけれど、少なくともそこで何が語られているのかについては考えないわけにはいかない。 「力を尽くして生きる」という言葉に曇りがあるわけではないけれど、でもしかし、上で(風の描写に対して)「進んで困難が選択されている」と書いたのと同じ意味で、この映画が伝えようとする主題もまた、本作が描こうとしないものとの関係によって幾分ややこしいものになっているように思うのです。 もちろん「力を尽くして生きる」はあらゆる状況に対して万能のメッセージであるかもしれません。 『風立ちぬ』はしかし、製作段階における現実の時間として3.11と交錯しつつ、関東大震災の入魂の描写を据えながらも「震災後の日本」に直接響くメッセージの発信は担いませんし、また、史実の戦争を背景にしながら、学ぶべき教訓を持った物語や主人公の規範というものからも明らかに逸脱しています。 例えば(特に近代以降の)「夢」が、ときに暴力と結託してしまう様を「夢の追求」と「戦争責任」という分かりやすい構図のうちに描くことは、ここでは選択されていません。 つまり、二郎に苦悩を与えてその葛藤の経過を描くことには与しない。葛藤すべき主人公のあるべき姿というものに対して、本作での二郎の葛藤の無さには驚くべきものがあると言って良いほどです。 (話題を呼んだ主人公二朗の素晴らしいキャスティングは、その葛藤を隠ぺいするのではなく、葛藤の無さそのものが絶妙に達成されていると感じます。) 作者が、人間的に"あるべき"葛藤を垣間見せるのは「結果論」としてであり、その「結果論」としての有り方もまた、魂の遍歴を経た先に到達されるごとく描かれるわけではありません。 では、二郎のあの語り口のように全てが宙吊りなのか、と言えばそれはむしろ逆で、二郎のあの語り口のように全てが明確だと言えます。それが最初に書いた、作者によって与えられてしまう「大いなる肯定」のことです。 極端に言えば、ここでは戦争でさえ、二朗の夢の具現に対して有利に働いている側面さえあるように感じられます。というか、そう感じる余地を映画は十分残しており、そういう恐ろしさが『風立ちぬ』には確実にあり、そうした余地さえもが「大いなる肯定」の内部にあると言って良い。 作者である宮崎駿が、意図に反してとは言わないけれど、意図を超えてしまったところで与えられるこの肯定、モラルを超えた価値に対するものであるはずのこの肯定は、具体的に何に対するものなのか? アルプス山中のサナトリウムを舞台にしたドイツの教養小説「魔の山」(1924 トーマス・マン)は、第一次世界大戦前夜の情勢を背景に、主人公(ハンス・カストルブ)個人の精神的彷徨を描いています。 実際に小説を読まれた方なら分かるように、この小説は時間の概念を扱ったものでもあります。物理学者アルベルト・アインシュタインの相対性理論に遅れながら、文学者マンとして時間の相対性を扱ったものでもあるとも言えますが、歴史そのものの時間と主観との関係に加え、時に恐ろしいほど単調なペースで長大に展開する物語の読書体験として読者が強いられる時間までもが絡み合い、実に多層的な雰囲気を醸し出しています。 「魔の山」の舞台となるサナトリウムには「時」がなく、そこは時間の影響を受けない場所(であるかのよう)です。そこから下山するためには、病状の回復ではなく、おそらく何事かを成す、成すべきものを持ち、それを成すための強い意志が必要とされます。 ここでマンは、非常に遠回りながらも、時間の概念をめぐる時熟のありようにおいて、初期ハイデガーとサルトルの間を往復するような場所に立っているように思われます。 『風立ちぬ』の二朗は療養所を後にし、時間の圏内へと回帰するわけですが、当然そこには強い意志があります。 時間とは成すべき行動と同義であり、映画はその長さを「10年」と断言します。クリエイターとして迷いなく断言されるこの時間の意味は痛切です。 「創造的人生の持ち時間は10年だ」 「君の10年を、力を尽くして生きなさい」 上に書いた「大いなる肯定」が向かう「モラルを超えた価値」は、明らかにこの10年であり、「力を尽くして生きる」「生きねば」というキャッチが係るのもまた、この10年であるだろう。 この10年は、人生に対する「期間限定的」なものであるという意味で、取りようによってはネガティヴで恐ろしく響きますが、そう響く危険性を賭けてもなお、それでも声高に叫んでおきたい10年は、ときにどのような価値やモラルにも屈すべきではないものとして、強行に肯定されているだろう。 そう考えられるこの肯定は、おそらく過度だし、行き過ぎだし、やりすぎだし、足をすくわれ兼ねないものですが、そうした価値の認め方は確実に透けて見えてしまっているし、作者は無理に隠そうともしていません。 そこが時間の静止した魔の山でない以上、他者や歴史の時間と交錯しなければならない。そこが魔の山でない以上、誰も傷つけず誰からも傷つけられないことは不可能かもしれない。 そうであってもなお、大いに肯定されるべき価値が「人生で一番創造的な10年」にはある。そうした肯定のなり振り構わなさには、戦慄しても良いほどだと思う。 そして、菜穂子もまた静止していられません。彼女の成すべきことによって下山し、時間へと回帰します。 ここにもまた、療養所を抜け出てきた彼女を帰らせることなく無条件に受け止める、という意味において、他のあらゆる価値やモラルを越えた肯定と、価値の認め方があります。 冒頭に引いた「ゴンドラの唄」は、成すべきことに立ち向かう場所から時間が時熟すること、そしてそれが否応もなく有限であることを残酷な美しさとして謳っています。 男にとって「夢と直結した仕事」であったものが、女にとっては「自分が美しく在れる時間」という形で対置されるのは、さすがに時代背景を考慮する必要があるのかもしれませんが、女性における美のプライオリティは時代越えていると思いますし、薄幸の美少女という形で単純化された「悲劇の装置」は、どの時代の物語に対しても普遍的な力を与えるものだし、個人的には大好き。 ところで、薄幸の美少女でない私たちは「力を尽くして生きる」べき10年の後、さらに数十年の人生を生きねばなりません。それは最終的に生きることを選択した二郎についても同じです。また、子供向けとは言い難い本作の観客の多くはすでに、10年の機を逸しているはずです。 こうして力強く肯定されたはずの生は、必然的に裏返しの怖さを含みます。 10年に対するモラルを越えた形振り構わない肯定は、10年の外部については"直接には"手当しようとはしていない。 おそらくここで私たちが思い起こすべきはヴァレリーの詩でしょう。 堀辰雄によって意訳されたエピグラフとして、映画のオープニングに掲げられていました。 "Le vent se leve, il faut tenter de vivre" "風立ちぬ、いざ生きめやも" "生きめやも"の意味が理解できなかったので、意味を調べてみました。 「いざ生きめやも」の「め・やも」は、未来推量・意志の助動詞の「む」の已然形「め」と、反語の「やも」を繋げた「生きようか、いやそんなことはない」の意であるが、「いざ」は、「さあ」という意の強い語感で「め」に係り、「生きようじゃないか」という意が同時に含まれている。ヴァレリーの詩の直訳である「生きることを試みなければならない」という意志的なものと、その後に襲ってくる不安な状況を予覚したものが一体となっている。 つまり「いざ」と言われながらも、意志が揺らぐ様が含意されており、結果的に「とにかく生きてみるか、」くらいの表現に着地しているニュアンスが感じられます。これは、10年に対する「力の限り生きる」といった強い調子とは、明らかに質を異にします。 この絶妙なユルさの中に、映画が本編の中心主題として描いてきた10年に対する大いなる肯定の外部、つまり、それでも生きなければならない数十年にこそ相応しい意志を読むことが、可能なのではないか。 堀辰雄の文壇での活躍は、1930年のデビューから約10年でした。以降はほとんどの時間を闘病生活に費やしています。 肯定された10年の外部で、10年の十字架を背負う人もいるでしょう。そうした10年の外部に対して語りかける言葉はきっと「(引き続き)力の限り生きる」ではないはずです。 「いざ生きめやも」 カプローニは「いいワインがあるんだ」とイタリア人らしく言い換えますが、おそらく似たようなものでしょう。
by hychk126
| 2013-08-10 11:56
| 映画
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