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香川京子「溝口監督の『近松物語』が一番」FIAF賞受賞会見できっぱり - 2011年9月6日
円熟を如何に示すか。 ........ 溝口健二監督『近松物語』は、必殺技の連発が華麗に炸裂したりしないし、一見「この紋どころが目に入らぬ」仕上がりであるけれど、ときに慎ましくさえ見える画面に張りつめているのは、おさんを演じる香川京子の美しさに勝るとも劣らない、監督・溝口健二のキャリアが昇華した、言葉を絶する美しさです。 だからこの映画について何事かを語るのなら、当然言葉を絶する美しい言葉で語らなければならないのだけど、そんなこと無理ですと最初に断りを入れておきます。 『近松物語』(1954年)は、近松門左衛門の世話物演目「大経師昔暦」を下敷きにして、川口松太郎が書いた戯曲「おさん茂兵衛」を、巨匠溝口健二監督が映画化した作品です。 物語は実際の不義密通事件に材を得ており、その名のとおり実在したおさんと茂兵衛は引廻し処刑のすえ、磔刑にて5日間その身を晒したとのこと。 なお、近松作の「大経師昔暦」が、主人公の二人が処刑を逃れるハッピーエンドな幕引きとなっていることは、戯曲や映画でだけこのエピソードに接する人には意外と知られていません。 私自身は、人形浄瑠璃はもちろん歌舞伎でさえライヴでは鑑賞したことのない人間なので、ここで近松浄瑠璃の魅力を語ることはできないし、映画を語るにも、おそらくは近松的なものや、浄瑠璃や歌舞伎との距離を測って、エイゼンシュテインのように相対的に映画作品を語ることもできないので、そうした奥行きを欠いた論になることを断ったうえで、あくまで世界映画史上最高の1本であるこの作品に寄り添って語りたいと思うのだけど、先に書いたような円熟のうちに慎ましくさえ見える本作について、その素晴らしさを語るのは意外と難しい気がします。 (...というかそんな理屈抜きにして、単に好き過ぎてうまく語れないのですが) こうした"円熟"の達成については後ほどの論旨として戻ってきたいと思いますが、ひとまずここで、溝口健二への傾倒で知られるジャン・リュック・ゴダールの言葉を引きます。 ゴダールは『近松物語』について、シンプルに"力と輝き"という言葉を残しています。 実際そのとおりだと思うけれど、"力"であり"輝き"でありながら、(あるいはだからこそと言うべきか、)多くの近松の世話物浄瑠璃がそうであるように、本作は死へと向かう映画です。もう少し言い方を変えると、結果的に死が訪れるのではなく、あらかじめ"死"が用意され、そこへと向かう映画です。"死"はレールの終点に置かれているようなものです。 そして映画は、早い段階で終点に置かれる"死"のイメージを、先回りして提示します。 本作では、曳きまわしのすえクロスの上に身を晒す男女の果てた映像が、後に武満徹にも受け継がれることになる早坂文雄のSEのような前衛的な音楽を得て、観る者に鮮烈な印象を残します。 物語の説話上、この段階にあっては単なる罪人であること以上の意味は与えられていないにも関わらず、男に至っては股下を支える木片がまるで勃起したペニスのようにさえ見えてしまうことが象徴的であるように、ここにあるのはかつては激しく愛し合い、合一していたはずの二つの肉体でり、生の蕩尽の果ての姿であることを、雄弁に語ろうとするショットです。 こうして、物語に大きな波が訪れる前にレールは敷かれているわけですが、それでもしかし、"力と輝き"である本作は、「曽根崎心中」や「心中天網島」などの"死へ一直線"と言える「心中もの」と比較するなら、決して全編が"死"に塗られた映画ではありません。「大経師昔暦」は、いわゆる「姦通もの」です。 (ちなみに「大経師昔暦」は、「堀川波鼓」、「鑓の権三重帷子」と並んで近松三大「姦通もの」とされています。前者は今井正が、後者は篠田正浩が映画化しています) 例えば、多くの増村保造作品がそうであるようにどう評して良いか態度を決めかねる『曽根崎心中』(1978)の血染めの梶芽衣子は横に置くとしても、(確かサーストン・ムーアが日本映画のフェイバリットに挙げていたはずの)『心中天網島』(篠田正浩監督 1969)などは、映画全編が死臭を発散していると言えます。 武満徹(音楽家)と富岡多恵子(詩人)が脚本を担当し、劇中に黒装束・黒頭巾の介添を登場させた前衛的な『心中天網島』は、この種のATGテイストをあまり好まないはずの私も、なぜか好きな一本です。岩下志摩が小春とおさんという二人のヒロインをその身に憑依させた熱演を見せる壮絶な"女の義理"を前に、最初から最後まで全ての登場人物が喪に沈んだ作品だと言えます。 心中天網島(1969) こうした「心中もの」と比べたときの『近松物語』には、"死"が用意されながらも、"死臭"とは真逆のある種の健全さと言えるほどの雰囲気に包まれていると言えます。 もちろん、ヒロインが香川京子である時点で、本作が進んで死臭を発散しようとする作品でないのは明らかであり、むしろ生を希求し、生を蕩尽する映画として、その成就が死によってしかなされないという意味で、レールは敷かれます。 「いまわのきわなら罰もあたりますまい。 この世に心が残らぬよう、一言お聞きくださりまし。 茂兵衛はとうからあなた様をお慕い申しておりました。」 「えっ私を? お前の今の一言で死ねんようになった。 死ぬのはいやや、生きていたい。」 こうして、「心中もの」ではゴールであるはずのシーンが物語の半ばに用意され、これをテコに後半の生の蕩尽へと華麗にキック・ターンされることになります。 最初に「必殺技の連発が華麗に炸裂したりしない」と書きましたが、ここは溝口得意の水辺のシーンとして特権的にキメられていますね。 非常に美しいシーンですが、それでもやはり"死"と無縁でないのは、このシーンが、もともと言われなき誤解のうちに逃亡することになってしまった男女が、ここに至って初めて誤解を実にしてしまい、力強く共犯関係を結ぶシーンであるからでしょう。 もちろん共犯とは言え、『愛の亡霊』(大島渚監督 1978)の藤竜也と吉行和子ように、情欲の世界が排他的に作用した末の殺人を犯したわけではないのだけど、時代背景としては不倫(姦通・不義密通)は、死を持って償われるべきれっきとした大罪です。 こうした罪はいわゆる親告罪であり、夫を告訴権者とするのが相場であったようです。なお、旧刑法が適用されている間は明治以降もこうした罪状が存在していたようで、第二次世界大戦後の日本国憲法14条で男女平等が定められることで、刑法改正に至ったとのこと。 (再び余談ですが、私が今滞在しているベトナムでは近年、不倫の急増が問題化しているらしく、取り締まりが厳しくなっているとのことです。もちろんその罪は死によって償われるのではなく、現行犯による罰金は日本円で数千円と聞きました。) 「もし愛が美しいものなら、それは男と女が犯す過ちの美しさに他ならない。」 強固な共犯関係が成立する上述のシーンは、上村一夫の「同棲時代」を引くまでもなく、ただでさえ美しい香川京子の理性が感情に屈する様を見せるわけですから、それはもうたいそう美しく撮れています。 それにしてもやはり、この映画には優しさがある。 西鶴の「好色五人女」では、同じ題材をおさんの積極的な情欲にスポットを当てていたことに比べたとき、おさんの夫を徹底的な悪役に仕立て上げ(映画では『山椒大夫』に続き進藤英太郎の憎たらしさたるや絶品!)、誤解と事故のうちに不可避的に罪に至るシチュエーションを丁寧に作り上げる近松の「大経師昔暦」は、上で触れたように劇のラストで二人が死を回避することと併せて、やはり優しい。 そして二人に"死"を与えるにも関わらず『近松物語』もまた、この近松的モチーフにおける例外的な優しさを受け継いでいると言えるし、近松から離れて、視線を溝口的モチーフに向けても、例えば"女性の自立"や"犠牲的内助"、といったものに発揮される厳しさや過酷さのようなものとは趣を異にする、ある種の"たおやか"な雰囲気を醸し出してさえいます。 こうした雰囲気は、溝口健二のキャリアの中では(意外にも)異例な、純粋な意味での「恋愛もの」であることから単純に説明してしまって良いようには思いません。 ...というのも、ここまで書き連ねてきたことを振り返ると、明らかに提示された"死"、用意された"死"へと不可避的に向かう共犯の物語でありながら、一方で"健全"だとか"優しい"とか語らせてしまう『近松物語』は、ここで結論を先回りして言うなら、「恋愛もの」であるがゆえの甘さがあるのではなく、実際は、近松的「心中もの」や、1930年代に代表される溝口的過酷さ、といったものとは逆の側から、それでもしかし同じ苛烈さに突き至っている、と言えるのではないか。 その苛烈さについては最終的に触れ直したいと思いますが、少なくとも、それが直接的な悲劇性を通じてなされているわけではないため、なかなか見えてこない。むしろ感じられるのは、懸念なく初心者にも勧められる分かりやすさを持った、シンプルな作劇の魅力です。 複雑さが観ている側に複雑さとして伝わらない、むしろ他の溝口作品と比較しても、作劇のシンプルさが際立つ、という不思議さが、『近松物語』にはあって、こうしたことは、最初に書いた円熟の話とも無関係ではないだろう、ということ。 円熟を如何に示すか。 誰もを驚嘆させる大伽藍を建造するのもその一つではあるし、溝口健二は大伽藍と呼ぶに相応しい作品も十分に撮り上げています。そして『近松物語』は、適度な上映時間も相まって、溝口作品の入門編に相応しいと言えるほどのシンプルな印象を与えます。それは、軽やかさと言っていいし、エレガンスと言っていい。 何よりも、同じ時代劇の名作でも、『近松物語』と同年の『山椒大夫』(1954)や『西鶴一代女』(1952)を鑑賞する際に要する、こちらの事前のコンディション調整を必要としません。 つまりこれ見よがしに技術が炸裂せず、全てが"語り"を中心とした表現の需要に吸収された結果の「軽さ」です。例えば、誰もが知るところの、カメラの移動を伴う溝口的長回しひとつとっても、本作でもそれなりに長いショットもあるものの、それほど特権的なものではなく、的確なカット割りの影に隠れているとさえ言えます。 主人公二人の逃避行が始まるまでの前半は、カメラはほとんど舞台となる大経師邸宅から外に出ようとしませんが、広い敷地内の座敷や廊下、炊事場やその二階に位置する茂兵衛の寝間などの構造を、オープニング早々の登場人物たちの慌ただしい出入りに合わせて、的確なカット割りとつなぎによって、観客へのガイドとなって教えてくれます。 こうしたものは、舞台のスケールが違うとは言え、大作『元禄忠臣蔵』(1941)が、豪華なセットに従属的な形で、義務的としか言いようのないカメラ移動と長いショットを重ねていたことと比べた時、最初に書いた"円熟の慎ましさ"の好例だと言えるでしょう。 こうして、カメラも人も屋内に留まる映画の前半は、"死"と磔刑に至ることが予め告知されながらも、軽やかにドンドン進んでいくことになります。夜這い待ち伏せの人違いシーンに至っては、それが二人の逃避行が始まるキッカケであるにも関わらず、そのテンポと切り口はまるで、1930~40年代のハリウッド映画の、不可視のセックスをめぐるスクリューボール・コメディのごとくです。 ドタバタと言って良いこのイベントをキッカケに、映画はロケーションを屋外へと移し、逃走劇へと突入していきます。そして上述の心中未遂に至る告白シーン。映画を突き動かすエンジンは、上述の「軽やかさ」から、「火のついたおさんのハート」へとその動力を変更し、クライマックスへと雪崩込んで行きます。 逃走劇であるということは、つまりは追跡劇です。映画は直接的なイメージを持つ分、追われる者に対して、寄り添う優しさ以上に、むしろ逃げ場を用意しない残酷な仕掛けとして作用すると言えます。カメラは二人を逃がすことなく追い続ける。 こうした残酷さの発揮が、どれほど美しいシーンの数々を見せてくれるかは、下の画像へと続くゴダール『映画史』の引用を持ち出すまでもないでしょう。 もともと長谷川一夫の能面ぶりは役どころを心得たもので、思いのたけを発露した後も、官能のさなかにあってさえ主従関係を崩さぬその姿勢を、その所作だけでなく表情においても描出し続けますが、やはり何よりも、香川京子のビジュアルの変遷が見事に映画の前後半の熱とカラーを分かりやすく対比付けます。 大経師の御家様でありながら、フレッシュで可愛い役どころを担うお玉役の南田洋子に勝るとも劣らない甘えた声色の愛らしさを、当初の段階から発揮してしまっているのは事実ながらも、お歯黒がとれ、結われた髪がくずれ、着物が汚れ、それでもしかしクライマックスに向けて瞳の輝きが増し続ける彼女の美しさなくして、本作の"力と輝き"は成立しません。 (上のほうで何やら理屈っぽく"力と輝き"について書いてきましたが、結局は香川京子のこと、みたいなオチでごめんなさい) そして上で書いた「逃げる者と追う者」を追う、映画の残酷さ、というものに対して、恐れることなく牙を剥くのが、終盤に発揮される恋愛物語としての破壊力の大きさでしょう。 劇中で二人の逃避行には異なる二つの追っ手が迫ります。ひとつは、二人の不義密通を明るみに出すことで大経師の転覆を図る一団、もうひとつは、スキャンダルを葬るべく画策する大経師の手代。後者や二人の親族にとって、このスキャンダルは凄まじい破壊力を持つ爆弾です。 しかし、スキャンダルなどという俗な言葉を持ち出すまでもなく、引き離そうとする力に対して、分子結合のごとく互いを引き寄せ合う恋愛成就の力の作用が、時にその周辺に瓦礫や屍の山を築いてしまうのは、神話の時代からの必然事項でもあります。 そういう意味で、一度は引き離されて実家に連れ戻されたおさんの元を茂兵衛が訪れるシーンこそは、本作の白眉だと言えます。 そこで茂兵衛口をついて出る、「お連れ申しにまいりました、」という一言、...あるいはまた、「あなたの傍に行きたい、」という『シテール島への船出』(テオ・アンゲロプロス監督 1983)の老女の一言でも良い。...そうした想いの発露が、周囲を一瞬で凍り尽かせる瞬間を、巨匠たちは"戦慄"として捉えるし、その戦慄は、観客を鋭利に突き刺します。 そうしたものは、世界が変わる瞬間と言っていい。つまり、ああいうのも一種のカタストロフだと思うわけです。『崖の上のポニョ』(宮崎駿監督 2008)ならその力が街をひとつ沈めてしまうし、『メランコリア』(ラース・フォン・トリアー監督 2011)に至っては互いに引き寄せ合うトリスタンとイゾルデの力が、全宇宙の生命体を消滅させてしまう。 そうしたものと同じく、求め合う力の破壊力とカタルシスが、『近松物語』のあの狭い居間で静かに炸裂していると言っていい。 そして上で"戦慄"と書いたのは、ここまで逃げる二人をカメラとともに追いかけてきた観客がそこに見ることになるものが、とうとう二人が捕らわれに至る瞬間では決してなく、追う側が追うことを諦めるしかない瞬間だからです。 この戦慄のことを、中盤で先回りして、"これまでと同じ苛烈さ"、と表現しておきました。 再度ここで繰り返すと、悲劇性や現実の過酷さといった、これまでの溝口的モチーフとは逆の側から、つまり恋愛の成就、もっと言えば勝利、というある意味溝口的にも異例と言って良いシンプルかつ幸福なモチーフによって、それがなされているだろう。 その瞬間、画面に見ることができるのは、強く互いの体を求めあう男女の姿です。 私は何本かの映画を通じてしか近松作品を知らないけれど、愛し合う者が頻繁に口にする「心はひとつ」、というセリフは、「心がひとつ」に溶けう合うことなど少なくとも生を得ている間は不可能であること、また、唯一それが可能なのは肉体によってでしかないことを、近松の登場人物達はよく心得ているのだろうと思います。 映画のラストシーン、捕らわれた身を民衆に晒す馬上の二人の表情は、かつての二人を知る者から「晴れやか」と表現されます。しかしカメラはなぜか、物語の幕に相応しいはずの二人の安らかな表情を、長々とは捉えようとしません。あくまで通過する馬上の二人を、民衆視点と変わらぬ位置から、それが通り過ぎるの茫然と見送ることしかできない。 つまり、先ほど触れた破壊力と、そうして訪れたカタルシスによって、カメラも観客も、すでに劇中の物語に対して特権的な位置に立つことが叶わない。......すなわち、愛の勝利です。 溝口健二は本作の後、企画優先型であまり幸福とは思えない『楊貴妃』(1955)と『新・平家物語』(1955)という珍妙にエキゾチックな2本を監督し、1956年、溝口らしいと言える86分の幸福な小品『赤線地帯』を撮った後、この世を去ります。 『近松物語』はやはり、円熟の到達点を示す名作でしょう。
by hychk126
| 2013-03-26 19:51
| 映画
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