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アタラント号(本ブログ)の更新を怠けてますので、映画ネタだけでもここ直近まで追い付いておこうと、それなりにきちんと書いておきたい重要な作品も多く含みつつ、ひとまずここは手短か駆け足に。劇場観賞作とビデオ・フォローごちゃ混ぜで。内容的に今回は、Twitterでツイート済みのことをまとめてブログにタンキングして置く以上の意味合いは薄いかもしれない。
2回くらいに分けて本稿は4月までのことをピックアップ。 今年前半に来阪した特集上映の類では、やはりダントツに幸福なイベントだったと言っていい「ボリス・バルネット傑作選」は、第七芸術劇場で2本だけキャッチしました。『帽子箱を持った少女』(DYEVUSHKA S KOROBKOI 1927)と『騎手物語』(STARYI NAEZDNIK 1940)です。 ボリス・バルネット(Boris Barnett 1902-1965)はモスクワ生まれの映画監督。セルゲイ・M・エイゼンシュテインと同時代の旧ソ連を生きた人ですが、スタイルとしてはむしろグリフィス的だと言えますし、残された作品数こそ多くないものの扱う題材はバラエティに富んでいます。それらは共産党政権下のソビエト映画というバックボーンを甘受しながら、それでも目の覚めるようなキラメキと抜群の面白さを発揮させてしまう、その手腕こそが「映画の貴公子」と呼ばれる所以でしょう。 そのアンナ・ステン演じる本作のヒロインの気丈さと、男たちの体たらくがコメディの軸になっているわけですが、彼女が抱える大きな帽子箱がその気丈さの源泉になっており、実に秀逸な仕掛けだと言えます。それは商売道具であると同時に、彼女のボディ・ラインを隠す大きなコートと親和性を保ちながら、貞操を守る防御壁にもなるし、男たちに立ち向かう武器にもなるし、楽器にだってなる。だから劇中、帽子箱を手放した彼女が、とっさに手元にあったハサミを手にして男に立ち向かうシーンの、なんと頼りなげなことでしょうか。 上で話法がグリフィス的と書きましたが、しかし一方で、クレショフ出身(役者として)ということもあってかどうか、なかなか実験的というか、時にフォルム造形に風変りなセンスを発揮することもあるようで、『帽子箱を持った少女』では、雪景色の深いパースペクティヴの中に役者を放り出す不思議なシーンが多いのですね。このあたり、この時期のソビエト映画理論に与するものというよりは、バルネットの持つコミック・リリーフのセンスの一つだとは思いますが。 さらにクライマックスのレース・シーンでは、カットを割らないまま主人公とライバルの二輪馬車がかなりの速度で抜きつ抜かれつする凄まじいシーンもあります。で、そこに並走する撮影クルー車の陰が映り込んでしまうのも、エレガントとは無縁のライヴ感を高揚させてくれる。 つまりは多彩で良い意味でのオールラウンダーなのですね。ちなみに、そんなバルネットの最晩年は、アルコール中毒のすえ自殺に至るという、今回私が観た二本の作品の幸福さに対して、たいそう不釣り合いな幕引きとなっています。 さて、「馬が凄い」と言えば今年はスティーヴン・スピルバーグ監督『戦火の馬』(War Horse 2011)を外せません。先行する『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』(The Adventures Of Tintin: The Secret Of The Unicorn 2011)と合わせて、監督作としては『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』以来3年ぶり、もっと言えばルーカス引っ張られ仕事じゃなく真に自律的な作品としては、実に『ミュンヘン』以来6年ぶりの大放出イベントだと言えます。 驚愕のディティール描出が支えるものが、『タンタン』という冒険アニメであるということ。作品の質の高さを普通に歓迎するこちらの気持ちを遥かに上回ってしまうような事態。例えば、最大の見せ場として用意されているバイク・チェイスシーンの、あの目を疑うようなワン・カット(って言うのかなアレ、)の煌びやかさのためにそれが駆使されているならまだしも、完璧に意識された光源位置と光の強弱、そしてアニメであることを気張らない自然なアングルと、実写ではギリギリ有り得ない巧妙にアクロバットなカメラ配置の数々といったものが、映画のどの瞬間を切り取っても緩むことなく満ち溢れているのを見ると、感動を通り越して驚きや恐怖に近いものを感じてしまう。 もちろん『タンタン』の技術的クオリティは数年後には当たり前で古いものになる。しかし少なくとも、ここ数年のCGアニメーションは明らかにその可能性が頭打ちした感じがあって、つまりは普通のものとして全体が平準化してしまいつつある局面において、もちろんそこで問われるべきは作品が描く本質的な主題に移るという当たり前の状況にあるのだろうけど、すでにピクサーを差別化することさえ難しい中で、内容的にはインディ・ジョーンズとなんら変わりない『タンタン』の実現を可能にする全ての要素が、現時点でダントツ頭一つ飛び抜けなくては「意味ナシ!」という、そんな自らへの至上命令が確実にあって、その意思は強靭なだけでなく、『宇宙戦争』や『ミュンヘン』を満たしていたあの、「この世に私だけ」といった完璧主義者独走の病がとり憑いてるかのよう。 スピルバーグにとって関わり方が多少のストレスであったかもしれないCGアニメーションはしかし、全てが制御可能な世界であったのに対して、同時期一方で「本物の馬」という制御の不自由さを進んで引き受けるような『戦火の馬』は、スピルバーグがついに西部劇を撮る、というファン側の勘ぐりと拡大解釈に対して、第一次大戦前夜のイギリスを舞台に置くというエクスキューズこそありながら、しかし自身もまた進んで意識的に多くのものを引き受けてしまうことで、やはりここでも欲望の実現に剛腕を振るう様に驚かされます。 ただ個人的に感じるのは、その驚きを誘う要素群は、傾斜をもった小高い平原と、頂に立つ帰るべきスウィートホーム(エミリ・ワトソンの見事なエプロンぶり!)を舞台とする前半と終盤に集中してしまっており、それらに挟まれた戦場に赴いてからの展開は、もちろん非凡な出来ではあるにしても、どうも現在のスピルバーグを基準にして絶賛を送れる類のものではない、比較的『ジュラシック・パーク』の頃のスピルバーグでも撮れたのではないか、という感じがします。 こんなこと書いてしまう時点ですでに、自分はどんなスペシャルなものをスピルバーグに求めてるのか、ということになってしまいますが、あえてその点をはぐらかして単純に言ってしまうと、騎馬隊の突撃も、戦場を駆け抜ける馬も、前半の土を耕すシーンの興奮に及ばないのはやはり物足りず、だから上に書いてきた常に「こちらの想定外」へと食み出すことの驚きは、この映画では比較的柔らかかったということです。 とは言え、かつてのアメリカ映画のカラー・アイデンティティに対して、忠誠を超越した反旗にまで至る、そんな極端なオレンジに染め上げられた「おかえり」のエンディングがあまりにも壮絶なだけに、やはり残る後味は極めてスピルバーグのそれであるのは確かです。 ジェームズ・キャメロン監督が、映画史への記名につながる超大作志向へとシフトした『タイタニック』(TITANIC 1997)を、私はこれまで劇場で鑑賞できていないということもあり、今回の『タイタニック 3D』(2012)を逃す手は無いだろうと劇場に駆けつけました。 作品そのものについてはやはり傑作であるということ以上に今更ここで私が書きつけることもあまりないので、後付けされた3D効果の質に関してだけ触れておくと、甲板上での前景と後景の地味な奥行きに唸らされる瞬間が2、3個所チラホラあった程度だと言えます。 もちろんSFである『アバター』でさえ、そこで見られた価値の多くは、ビックリ効果に走らない地味な奥行きへの貢献であったことを思えば当然と言えば当然なのだけど、3Dを劇場体験する価値をソコに求められない自分としてはやはり3Dに相応しいアトラクション性を期待するところで、ならば選ぶべき素材は『タイタニック』ではなく、『殺人魚フライング・キラー』まで戻れとは言わないまでも、せめて『アビス』や『ターミネーター2』こそが素材として相応しかったんじゃないかとは思う。 まぁそれはともかく、『アビス』や『T2』では非・線形の蠢きに執着してきたキャメロンが、タイタニック号が90分かけて沈んでいく際に見せてくれる、スクリーン上を縦・横・斜めに走る入魂の巨大な線形はやはり圧巻で、しかし、それらの線形と重力とが、時間経過の中で変遷交錯していく圧倒的なビジュアルというものに対して、そしてもちろん主人公二人の悲恋というものに対しても、ここで3Dが貢献できていることというのはあまりにも少ない...というのは、若干の進歩があるとは言え引き続き負荷でしかない3Dメガネを、3時間掛け続ける身にしてみれば少々空しいものがありました。 さて、ニコラス・ウィンディング・レフン監督を全く未フォローだった私は、周囲の絶賛ぶりに引っ張られる形で『ドライヴ』(DRIVE 2011)を観るべく劇場に足を運びました。この映画、すでに言われているように、ノワールなクライム・サスペンスや往年のアウトローもの(特にウェスタン)などから豊かな資産を継承しながら、(ひとまずは)それらをミニマムかつキレ味良く作劇してはいるのですが...、 まずはこの映画を満たす「誠実な感じ」に触れておきたいのですが、それは映画ファンの方を向いた温故知新的なアプローチが醸す雰囲気も大きいのだけれど、どう見てもスクリーン映えするタイプではないライアン・ロズリングとキャリー・マリガン(好き)の、いたって「普通な顔」である素材の誠実さも大きいだろうと思います。 とは言え見せ場はやはりアクション。長い歴史の中ですでに完成し尽くされているカー・アクションのジャンルで、今さら視覚的な斬新さで勝負しようとはしないハイド・アンド・シークのカー・アクションは、あくまで主人公の謙虚な闇稼業の設定、つまり逃がし屋というアシストのプロフェッショナルであることの徹底によって、惚れ惚れするような緩急の転換を構成しています。 例えば、序盤の仕事でヘリにキャッチされるシーンでは、目の前にサーチライトが迫る中、速度維持したまま橋上を直進せざるを得ず、プロフェッショナルも「祈り」に頼るしかない瞬間があることが無表情に透けて見えるあたり実に印象的で、キャッチされるや否や「祈り」を捨ててフルスロットルに切り替える転換がまた素晴らしく、主人公の鼓動を共有できるほどスリリングです。 そうした個々の作劇の見事さに対して、上でミニマムかつキレ味良くなどと書いておきながら一方で、作品全体を見渡したときの緩急はというと、どうもコール・アンド・レスポンスの心地よさを進んで拒否するような不思議なリズムを持っている映画でもあります。だから、無批判に耽溺し続けることはできず、どうも手放しに絶賛させてくれない、どこか珍奇で納まりの悪い映画でもあるのですね。 例えば、マスクをつけたロズリングが、悪役のロン・パールマンを追い詰める『ハロウィン』のごとき一連のシーンなんかは、本作のクライマックスと言って良いシーンなのに、映画が何に応えてどこに向かおうとしているのかが分からなくなるという、そんな理解不全を誘う凄みを湛えています。 また、デート・シーンをセリフ・レスの歌モノにしてしまうことを厭わないなど、劇中全体を恥ずかしさスレスレでスタイリッシュにインサートされる音楽の使い方ひとつとってもそうで、狙いがストレートなのかジャンルの関節を外そうとしているのか実に微妙だったりして、エレベーター内でのキス・シーンもそうですが、狙いはピュアかもしれないけど、少なくとも肥大化した部分の「やり過ぎ感」というのがこちらを時に警戒させるのは確かで、それが最初に書いた「誠実な感じ」と反発し合って、最後は「ヘンな映画だったな」と、呟いてしまうに至るのでした。 「ヘンな映画」などと、褒めてるのか貶してるのか分からん歯切れの悪さが自分でも気持悪くなってきたので、ぜひ絶賛しておきたい映画を挙げておきます。 ジェームズ・ワン監督の『インシディアス』(INSIDIOUS 2011)。これはあえて安易に言ってしまえば、ホラー映画における様式美の復活でしょう。...だから、『サスペリア』のリメイクなんかはワンに撮らせるとかなり濃いものになるんじゃないかと個人的には思ったりします。 ここでのワンは、「衝撃の真実」とか、「擬似ドキュメンタリー」とか、「パズル読解」といった、観客巻き込みタイプの、長く海外ホラー映画にとってのポスト・モダンであり続ける三点重力から自由になって、今一度モダンを継承し直して何ができるか、という勇ましい課題に、真摯に取り組んでるように思われます。 自ら『ソウ』のようなインパクトある上述の重力圏内作品を世に問うているだけに、ここでの仕事には説得力がありますし、垂れ流し的に拡散してしまっているトレンドに対して、これ一本で批評的なリフレクションを即する効果があるんじゃないかとさえ思う。 ここで登場する幽霊や、あちら側の世界、といったものの造形や映像処理や添えられる音楽はもちろん、目に見えないはずのものが、劇中の家族と映画を観る私たち観客に対して、しだいに目に見えるものになっていく過程の、その時間経過配分の妙まで含めて、観ているこっちは「久しぶり」では済まない、実に新鮮な興奮に包まれることになります。 例えば、いまどき普通なら、ボス・キャラについて「悪魔(デビル)よ。」なんて紹介されたらそこでちょっと興醒めすると思うのですが、しかし、あそこまでゴージャスな演出による悪魔の登場を観てしまうと、もう「悪魔上等!」なわけです。とにかく野心が空回りしておらず、自信もたっぷりなんですね。それが凄く伝わります。 そんなワンほどの成果が伴わず、空回りが目立つのは事実ながらも、確実に似た野心に導かれた日本の映画監督として清水崇監督からも引き続き目が離せないと感じます。『呪怨』(2003)関連の仕事の素晴らしさをここで振り返ることはしませんが、その後の『呪怨』以外の仕事について考えると(私は劇場用長編映画としての監督作しか見てませんが)、狙いに対する完成度を横に置かせてもらっていいなら(いいのか?)、どれも志は非常に高いものだと感じるのです。 現時点の最新作『ラビット・ホラー3D』(2011)は、『戦慄迷宮3D 』(2009)から派生した内容として自律性が弱いうえに、オチ的にも斬新を欠いてしまっているけれど、それでもウサギの着ぐるみを中心に「怖くも何ともないかもしれない事態」と紙一重の場所で、格闘してる。 何かよく分からないものが映り込んでいる、または、都市伝説的な親近感とともにこちらの想像力に適度に応答する、といった、あまりにも大きくなってしまったJホラーの重力は、上で書いた西洋圏のトレンドにも準えることができますが、清水崇監督の『輪廻』(2005)にしろ『戦慄迷宮3D』(2009)にしろ、それらをワンのような様式美からのカウンターとは言わないけれど、例えば「ラビリンス(迷宮)」などという時代に要請されていない言葉のチョイスから感じられるのは、一方で有り難がられる「ゾっとできる日常のライヴ感」といったもののその先に、きっと用意できるはずの恐怖撒散の新しい映像表現の可能性に果敢に立ち向かうという、創造欲求の熱であり、それがヒシヒシと伝わるのですね。 その熱は「自ら加担したものに安住しない」という意思のようなものかもしれないけれど、それでも成果としてブレイク・スルーしてくれない迷走ぶりというものを残念ながら露呈し続けてる感じはあります。...ちなみに、中田秀夫監督の『インシテミル 7日間のデス・ゲーム』や『Chatroom/チャットルーム』にも、ほぼ同じことを感じます。いずれも勇猛果敢な良い映画です。 さて、エキサイトブログの仕様で文字数制限の関係があるのだけど、もう一本いけるか?...『ミッション:8ミニッツ』(SOURCE CODE 2011)。 これ、「映画ファンほど騙される」というキャッチがいまだに気になってて、「騙されなかったぜ!」という手ごたえが無いということは、おそらく騙されてる可能性大なんですが(笑、ここで衝撃的に考えさせられたのはループ・トリックそのものよりも、主人公の置かれたあまりにも悲惨な状況と、役務(ミッション)と、対価(死)、というものの関係についてでした。 映画はここで、密かに無間地獄の恐怖を描いているし、その先にある仄かだけど想像を絶する可能性にまで足を踏み入れてる気がする。 この先もサイエンス・フィクションは、現実の事件や私たちの想像力とますます過酷な競争を強いられるのでしょうが、命ではなく死を奪われた主人公の状況設定には、労働と死をめぐる私たちの想像力に対して、遥か彼方ではなく、見事に1.5歩程度先を行く、最適度な問題提起をなしていると感じました。
by hychk126
| 2012-06-05 19:13
| 映画
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