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アンドレイ・タルコフスキー監督の遺作には、自らの世代に対する(自己)否定と、次に続く新しい世代への全幅の信頼というメッセージが託されているでしょう。しかし、そのような主題が力強く作品を支配して、そのメッセージが観る者の心を揺さぶるものになっているかと言えば少々疑問で、...というのも、あのストイックとも過剰とも言えそうな映像には、そのような主題よりも前面に立って全体のトーンを支配しているものがあって、それはたぶん、「芸術」に対する信頼と、「芸術」となら心中しても良い、という芸術崇拝の姿勢のようなもので、レオナルドの「東方三博士の礼拝」に描かれた生命の木を大写しにしながら、そこにバッハ「マタイ受難曲」のアリア「憐れみ給え、我が神よ」を流すという、そんな大文字かつ究極のヨーロッパ的知性と芸術の痕跡を刻むかのようなオープニングひとつ取っても、そこには、シンプルに「芸術最高!」といった強靭な想いが、表向きの主題(メッセージ)の幹から滲み出てしまっており、主題そのものを浸してしまう感じがするわけです。 このフランスとスウェーデンの資本でロシア人監督がメガフォンを取った『サクリファイス』は、そのような作家の姿勢がものすごく信用(共感)できるものとしてこちらの胸を打ちます。 そんな信用できる感じについて考えながら話を本題へと変えて行きますが、『アンチクライスト』がこちらの予想を裏切る上々の出来栄えだったラース・フォン・トリアー監督の『メランコリア』(MELANCHOLIA 2011)は、今回もクレジットやタイトルバックの役割を担わない、純粋な前奏曲を本編の前に堂々と置いています。 また、テレンス・マリック監督の『ツリー・オブ・ライフ』(The Tree Of Life 2011)からは、かつて文学の力を借りて芸術に接近しようとした映画の歴史を省みながら、映画の領分についての新しい認識を私たちに提示してくれるような感覚を与えてくれます。 ラース・フォン・トリアーは近作にフォーカスするまでもなく、例えば『奇跡の海』(1996)で章立ての合間に間奏曲を入れたり、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000)のOPでは実に暗幕をバックに、オリジナルのオーケストラ曲を乗せるなどしてきたわけですが(ビデオでは色彩のイメージに差し替わってましたね)、監督の映画に対するこのような姿勢は、一方でデビュー当初からクラシックな作劇手法にメスを入れるかのようなやんちゃぶりが顕著なのに対して、しかし一方では古いタイプの芸術信仰者としての拘りを表明しているようでもあります。 ここ二作では、ヘンデル「リナルド」の有名なアリア「私を泣かせてください」、ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲と、その意味性についてはあとで触れるとして、とにかく一見分裂症的に暴走するかに見える本編の内容に対して、一方で伝統や歴史性に根差した芸術への信仰が垣間見えて、不思議なバランスを醸しだすことに成功しているように思います。 だからここでの「トリスタンとイゾルデ」は背景ではなくむしろ前景にあって、前回同様ハイスピード撮影が作り出すスーパースローの映像がその後景を構成していると言えるのだけど、運動や現象の解析・計測用途であるはずのものがそのままエンターテイメントに搾取されたスーパースローの品格を、芸術の域にまで持ち上げる、もしくは、真の芸術は解析・計測的なものでなければならない、みたいなぶち上げ方として、前作以上に大変心動かされるものになっているわけですが、一方でそのようなOPに限らず作品全体が象徴主義的なものとして謎めいた雰囲気を存分に振り撒いてるのも事実で、このあたりのことはサイドメニューにリンクさせていただいているk.onoderaさんのブログで、デューラーの板画をモチーフとした解析をされててたいそう説得力あるものになっています。 映画批評 k.onoderaの日記 『メランコリア』 しかしまた一方で、ロマン主義ド真ん中の代名詞のようなの音楽に導かれて始まる本編の語り口たるや、むしろ耽美に寄ることなく、人の顔、顔、顔、...もちろんこれまでも物語の渦中に語り部を投入することで、カメラと被写体の関係性に脅迫的なほど意識的だった監督のキャリアを考えると、それは決して唐突なものではないけれど、それにしても顔に寄ったレイアウトを畳み掛けて、登場人物の作用と反作用を描き出すその手法は、これが象徴主義であるどころか、むしろ自然主義的な描出を固持しているかのようでさえあって、一見してとても彗星の地球衝突を描いているようには見えないわけです。 劇中あれだけテレスコープを覗くシーンが多いにも関わらず、光学的にメランコリアを捉える映像はことごとく排除され、あくまで肉眼で捉えるメランコリアだけが挿入されるのもそうです。だから、音楽がロマン主義、語り口が自然主義、モチーフへのアプローチが象徴主義、と考えざるを得ないこの映画は、映画に先行する音楽や美術や文学の、その時代精神の見本市とも言えるような知性刺激型のアプローチが積み上げられてる感じがしないでもない。 さてここで、前奏曲としてだけでなく、本編中のライトモチーフとして執拗に繰り返される以上、「トリスタンとイゾルデ」が象徴するものについて考えざるを得ないわけですが、私自身は本作を二度劇場で観ながら、そのまま単純に婚礼を前にしたキルスティン・ダンストをイゾルデに、さらにメランコリアをトリスタンに置き換えて考えてきたのですが、それだといまひとつ作品のアウトラインがくっきりしなかったのですね。前半の婚礼パーティーで、これまで同様、罪の女の異端審問に近いバリエーションが見え隠れこそすれ、まずビジュアル的にラース作品のヒロインの系譜から食み出すような凡庸さを見せるキルスティン・ダンストが、どうもイゾルデには相応しくないように感じられてしまい、後半の彼女もイゾルデに準えてみればなんとも立ち位置と振る舞いが中途半端で仕方がないという、そんな感じでした。 で、この私の疑問についても、上に引用させていただいたk.onoderaさんところのブログが明快な解釈を与えており、個人的には非常にスッキリさせていただいたのでした。(今回は他人様頼りだな) つまり、メランコリアと地球との関係こそがまさしくトリスタンとイゾルデであって、二つの球体が織り成す「死のダンス」によって結合=「永遠の愛の死」に至るという、そんなフレームですね。こう考えるとキルティン・ダンストは「ただの巫女」ということで、私自身は非常に納得が行くわけです。 地球とメランコリアが織りなす「死のダンス」が、どこか鮮烈極まりない愛の形態として、メタファーを超越したリアリティをもってこちらに迫ってくるのは、その祝典と引き換えにされる全生命の消滅という悲劇がそれを裏付けます。つまり、惹かれあう男と女がその愛を成就するパワーは、時に周囲破壊的で死体の山を築くことさえあるのは、それが神話から近代文学に至るまでの礎でさえあるでしょう。「トリスタンとイゾルデ」も客観的には実にハタ迷惑な話ですし、近いところではブリュンヒルデ=ポニョが引き起こす大洪水もそうです。『メランコリア』は、その系譜の最大形であり極点であると言えるでしょう。 『メランコリア』における「トリスタンとイゾルデ」の意味性の解釈は、以上のように納得できるだけでなく、結局、題材として「どこまで壮大やねん」という話です。傍観するしかない人間たちと巫女に寄り添いながらも、森羅万象を愛の邂逅と死によって織り上げる、そこに見られるのは、芸術や思想がタコ壺化する以前の、旧時代的な、というか信仰をモチーフとした「大芸術」といったものに対する、畏怖であり、無批判な信仰であり、考古学的な憧憬、...といったものであると感じます。 そしておそらく、監督自身が首謀していたドグマ95の「純潔の誓い」とはつまり、商業性やポピュリズムに対する過激な禁欲性である以上に、ここで触れている「大芸術」への畏怖と憧憬に対して、現在の作家としてなんとか抗するための手段であった可能性があるんじゃないか。それはもちろん既成価値に裂け目を入れるためだけど、それでもやはり抗し切れるものではないヨーロッパの知の重み。透けて見える「芸術最高!」 テレンス・マリック監督『ツリー・オブ・ライフ』は、BDソフトの美しさはありがたいのだけど、周囲で評判良くなかったし、こちらの勝手なイメージで全く期待してなかったことも手伝って、劇場公開時にパスしてしまったことを深く悔いることになりました。 劇場公開時のコピーやCMでの売られ方から、これ主人公の回想による長大な大河ドラマだと思ってたのだけど、驚いたのは主人公の家族をめぐるドラマがシンプルを通り越してほとんど何も描いていないことです。 もちろん、信仰と世俗の二つの価値観に引き裂かれた主人公が、前者に価値を見つけながら、嫌悪する後者に身をやつさざるを得ないという苦悩が描かれてはいるし、弟がなぜ死なねばならなかったのかという問いが主人公の病となっていたりはするのだけど、しかし、映画の中でのそうした家族を軸にしたドラマの役割は、極端に言えば誰でも待っている他愛のない思い出、例えば子供の頃可愛がってたペットを事故で亡くしてしまったことや、知らぬ間に失くしてしまって二度と出てこない宝物の不思議、といったものにさえ置き換えできるくらいのものです。どういうことか? つまり、全生命の大きな奔流においては、その程度の他愛のない出来事の慎ましさと、宇宙が創造される森羅万象の力強さとが、全く同じ水準に在るということ。たぶんそこには、大きい小さいや重要性といったものの差異は無く、一方が一方に対して特権的でも支配的でもない、ということ。あのCGの恐竜を見ても分かるように、ここでのマリックは使用する映像に迷いがなく自信たっぷりで、都会のビルディングの直線群は、岩土肌の織り成す神秘的な曲線や血液が循環する血管系の微細さに対して対等であり、一方が一方より高尚にならない。『ツリー・オブ・ライフ』は、そういうことを表現するために眩いばかりの天上的な映像群をひたすら駆使する。 ちなみに、画面に映るもの皆時空を超えて同水準、ということで言えば、個人的には昨年の『ブンミおじさんの森』が想起させられるのだけど、アピチャッポンの場合、大芸術への信仰どころかむしろ極めて現在的な思考と手法で、音楽で言えばヒップホップに通じるように感じられたのに対して、マリックはやはり臆面もなく古いタイプの芸術家だと思う。だから、上の『メランコリア』で書いたことを再びここで繰り返すなら、その試みは「どんだけ壮大やねん」ということです。 これをスクリーンで観た人の「プラネタリウムのよう」という意見はものすごく理解できるもので、それはそのままマリックの「美しい映像」の危うさであるのもまた、すごく理解できるものです。特に90年代以降のテレンス・マリックの仕事はその映像だけ切り取ると、例えばナショナル・ジオグラフィックやWIREDに掲載される自然科学とデジタルの視座から私たちのライフスタイルに訴求するような映像、といったものから差別化する要素が中々見え難かったりして、映画観ててヒヤヒヤさせられる瞬間が多いのは事実なのですね。 私は、そこを力づくで救いあげたいというほど熱心なファンでもないのだけど、それでも『ツリー・オブ・ライフ』には深く感動した挙句に涙してしまったという、それはやはり「芸術大好き」という気概においてであって、ここでもやはり、慎みや恥ずかしげもなく「最高!」であるわけです。しかも映画が映画であることにおいて。 というのも、かつての映画には、文学の威厳を拝借して自らの地位を芸術に近づけようとした時期があったわけですが、おそらくマリックは、ヴァージニア・ウルフやジェームス・ジョイスらが文学を土俵に描き出そうとした「意識の流れ」、つまり、時に歪み、時に美化され、時に脈略を欠き、時に断片的であり、散文と物語の重力に揺れ動く純然たる「意識の流れ」というものに対して、その時代精神を借り受けるのではなく、映画であればこうできる、と、まさしく返歌しているから。 「無数の印象があらゆる方向から絶え間ない雨となって降りそそぐ」 - Virginia Woolf これは、何も特別な瞬間を言っているのではなく、日常の私たちの意識を言い表しているのだと思うのですが、マリックがここで描こうとしているものは多分これでしょう。マリックの映画で頻繁に挿入される持ち主不明のナレーションだってそうだ。 先に挙げた、わざわざマリックの映画で無くても良いかもしれない、雑誌やWEBサイトを彩る目を疑うような美しい映像群は、それら個々おのおのはマリックの「美しい映像」と呼応するかもしれない。しかし、マリックの野心は私たちの「意識の循環」を形式としてまず採用しながら、大風呂敷を広げたようなベルクソニズムに寄った進化論から、汎神論の視覚的イメージと聖堂の天上に描かれた人格神を同時に内包しつつ、印象派絵画からフレスコ画や壁画までを貫き、エイドスの向こうのイデアを目指すような、そんな大伽藍を描くことあるわけで、そこでは個々の映像が自立的に眩さを放ちながらも、しかし目指すべきはモード的な価値の集合ではなく、過去の偉大な芸術家や思想家たちのあくなき挑戦と、成果と、敗北の屍が集積した場所にある大時代的な価値であり、「芸術の名において」という大義名分を掲げてこそ挑める壮大なもの。...というのはきっと言い過ぎだけど、とにかくそれくらい大袈裟な作品だと感じるわけです。 それはヒーリング用のBGVにも使えそうな本作に、必要以上に面倒くさいオーラを与えてしまうものかもしれないけれど、でもやはりここでも信用できてしまうテレンス・マリックの、濁ることのない芸術信仰の姿勢。 上に見てきた二人の映画監督の大文字芸術への信仰は、どこか重鈍な印象のものです。また喩えは悪いかもしれないけれど、例えば、余裕さえあれば本腰入れて読んでみても良いかもしれない...と考える人も多いであろうハイデガーやヘーゲルなどを、しかし「今読んでる場合か?」という理由でついつい退けてしまうのは、おそらくそれらには、私たちの生命に関わる政治そのものをクリティカルに論じたり、社会学的見地から世代批評を行うような昨今流行りの言論に比べて、即効性や実効性のようなものが圧倒的に不足しているからでしょう。実際には、即効性と実効性に代わる価値として、考え方次第では万能鍵に成り得るヒントを発見できるかもしれない類のものではあるけれど。 こうした価値選別は、思想や文学だけではもちろんなく、音楽も映画も全てのエンターテイメントについても、そこで求められる(もしくは急がれる)実効性は、広い意味で言うと貨幣還元だと言えなくもないだろうし、それはつまり、(資本主義的な意味での)有用性を重視する姿勢のことです。こうしたものに対置される概念を探すと、一番分かり易いのはおそらくバタイユの「呪われた部分」が言うところの、豪奢であり、余剰であり、蕩尽になると思う。 上に書いた大時代的な重鈍さというのはつまり、この概念に近いかもしれません。芸術がそっちに向かうのが絶対的な理想だと言うつもりはなく、ただ、芸術にとっては当たり前の概念だったはずなのに、意外なほど今貴重なものになりつつあると思う。 映画は、情報量の多さゆえに欲望実現に極めて適した分野であって、他の芸術を俯瞰で捉え得るミクスチャー装置として、良くも悪くも適してものであるでしょう。しかし、ここで触れた二作に似たスケールで、大芸術に対する心酔を豪奢に表現してしまう古いタイプの芸術家は、それほど多く思いつかない。 ちなみに、映画作家なら『ファウスト』が待ち遠しいアレクサンドル・ソクーロフとかは近いかもしれないけれど、これがゴダールになると最終的には無批判な信仰ではなくゴダール自身に行き着いてしまう感じがするし、やはり教育的側面の強い批評装置になってしまうだろうし、上で触れた実効性をも発揮してしまうと思うのです。また、(私自身視野が広くないので引ける作家名に限界があるけど、)例えば見た目が大芸術家然としていなくもないミヒャエル・ハネケなら、(一時期のベルイマンのように、)心酔や信仰ではなく、あくまで見事なフレームの借用のように感じます。(ハネケは好きです) 臆面もなく古いタイプの芸術家が牙を剥いて、有用性や合理性から離れた距離の大きさによって、非合理な呪われた部分へと向かう。東京スカイツリーは600m以上の高さを誇りながら、観光施設であるがゆえではなく、その新しさやあの造形ゆえでもなく、電波の送信設備を備えているがゆえに、古い聖堂から得られる畏怖とは無縁の建造物だ。畏怖とは、有用性や実用性から離れる距離の大きさに比例して大きくなる。合理的思考では、それはただの「浪費」かもしれない。そんな「浪費」と紙一重のものに打ちのめされる衝撃。『メランコリア』など、まさしく芸術における豪奢な蕩尽そのものじゃないか。
by hychk126
| 2012-05-24 22:14
| 映画
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Comments(3)
記事を引用いただいてありがとうございます。楽しく読みました。
トリアーの「純潔の誓い」を、「商業性やポピュリズムに対する過激な禁欲性」とされるような指摘は初めて読みましたが、頷かされました。たぶんそうなのでしょう。 とすると、かなり過激に反商業性を意識している作家ということになりますね。 彼の映画の、サディスティックなまでの悲劇性というのは、これである程度説明がつくかもしれません。
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大上段に芸術志向な作品は、確かに現在では貴重ですよね。
エクスキューズなく「芸術最高!」な態度を取ることがクラシカルであるという風潮は、個人的にはつまらなさを感じるところです。 例えば、アピチャッポンやタランティーノのような作家は、文学的なアプローチや、大きい枠組みの普遍からそこまで遠いところにあるというふうにも思わないのですが、とくにある時代からの多くの映画における「反芸術」、ともすればロックンロールとして賛美すらされるような態度が、商業性と安易に結びつく場合が多い状況を危惧しています。 『ツリー・オブ・ライフ』は、手際の悪い作品だとは思うのですが、それでも批判する気になれないのは、やはり映画の未踏部分を広げようとする意志の希少さにあります。だからこそ不恰好にもなるし、スリリングでもありますよね。 このような勇敢さを放棄することがスマートなのか、時代の流れと呼んでいいのか、というところに、とくに最近は違和感を感じるところです。
Commented
by
hychk126 at 2012-05-26 11:30
こんにちは。こんな地味なコメント欄でやりとりさせていただくのがもったいないくらい大事なことに言及していただいてて、いろいろ言いたいことはあるのですが、とりあえず1点、「ツリー・オブ・ライフは手際の悪い作品・・・それでも・・・意思の希少さ・・・」というのは正しくそうで、私もたいそうに書きながらもコレ、完成度の高い傑作だとは思ってないのですね。例えば上で書いたヘーゲル(この例はちょっと良くないですが)なんかも、文章がヘタで読めたもんじゃないわけです。
基本的に、ここで書いたような姿勢で今創作するというのは、前提が負け戦だろうと思うのです。その敗走の美しさなのだ、などというとあまりにも感傷的で適切ではないのですけど。
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