検索
ブログパーツ
最新の記事
以前の記事
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
|
『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』(Rise Of The Planet Of The Apes ルパート・ワイヤット監督 2011)、『ブンミおじさんの森』(Uncle Boonmee Who Can Recall His Past Lives アピチャッポン・ウィーラセタクン監督 2010)、『SOMEWHERE』(SOMEWHERE ソフィア・コッポラ監督 2010)を立て続けに鑑賞した週末の話です。
Uncle Boonmee Who Can Recall His Past Lives 主にSF映画の主題が「前日譚」という分野に題材を求めていることについて、そこに形振り構わない資本主義的乱獲やアイディアの枯渇といったものを見てしまうよりも、"興味深い誕生秘話"といったノリで楽しめば良いということを、映画としての出来が良い『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』も『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』も、そしてまだ観ぬ『the Thing (2011)(遊星からの物体X)』もおそらく、十分に教えてくれます。 それにしても、『猿の惑星』シリーズ(1968-)というのは不思議なもので、私たち観客の感情移入の先が、回によって猿だったり人間だったりにフラフラと振れてしまうことを通じて、基本的には安易にマイノリティに寄って立ってしまうことや、体制側の醜悪さや反体制側の蜂起が喚起するカタルシスといったものが、あまりにも簡便で無批判なものに思えてしまうことについて、つくづく考えさせられたりします。もちろんそれはどんな映画でも、またフィクションでなくても言えることではありますが。... さて、『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』の主人公であるシーザーという名のマイノリティの象徴は、今回シリーズ初となるパフォーマンス・キャプチャーを駆使したVFXによって描かれていることで話題を呼んでいます。その驚きのリアルさは、そのクオリティの高さをそのままこの映画の価値として評価してしまって良いくらいのインパクトを持っており、そこでは、ジョン・リスゴーを除く人間たちの陰影の無い平坦さが、むしろ演出意図でさえあるかもしれないと思わせたり、逆にジョン・リスゴーのクローズアップの味わいが、もしかしたらVFXであるのかもしれないという疑念を抱かせたりもします。(というのは言い過ぎですが) 有り得ない視点、有り得ない存在、有り得ないアクションを、語源としてのファンタジー("可視化")にしてしまうVFXは、すでに(特に)ハリウッドの映画制作の中心に居座っており、それをポストプロダクションと呼ぶことにはすでに大きな違和感があります。そもそもVFXの氾濫のみならず、撮影素材のデジタル化自体がポストプロダクションの意味を変容させてしまった感があって、フィルム編集というものが主に「継続する時間の問題」を扱っていたのに対し、正しく「継続する面の問題」にまで決定的に作業範囲が及んでいることを考えると、それはもう映画におけるプロダクションそのものでしょう。 そんな状況下でも、映画におけるリアリスムが時に大きな評価指標になり得るわけですが、それはあくまでケース・バイ・ケースであって、基本的には"ド迫力のVFX大好き"な私です。それでもしかし「VFXには見えない」と評される『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』のリアルなキャラクター造形を観ていると、一体何が画面に写っていているのか?...私は一体何を観ているのか?...、といった、シェクスピアの登場人物が内包しそうなシリアスな混乱が生じることがあります。 Rise Of The Planet Of The Apes 映像の支持媒体がテレビ画面やPCモニターやスマートフォンのディスプレイであってさえ、それを"映画"と呼んで良いような器の大きさを映画は持ち得ていて、そんな画面の中に何が写ろうとも映画の何かが脅かされるわけではないのだけど、それでもしかし、先日見た『スカイライン-征服-』のエイリアンや宇宙船であれば混乱もなく楽しめるはずのところが、今回は、猿たちのみならず他の被写体、例えばあのゴールデンゲートブリッジやあのアメリカ杉も、とにかくそれらがリアルになればなるほど、本物に近づけば近づほど、余計にそれが「でも本物ではない」という事実を唐突に突き付けてくる瞬間というのがあって、それが上述の混乱を喚起することになります。 画面の上にある様々な要素には、カメラのピントに還元できないいくつかの存在の水準があって、それが良い意味で陰影を生むこともあれば、どうしようもなくだらしない画にしてしまうこともあるでしょう。上に書いた混乱は、そんな諸水準とは親和性のない、画面に走る亀裂のようなもの。この亀裂は必ずしもVFXを要因にしないけれど、VFXがそのリアルさ故に亀裂を作ることは少なくありません。 『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』では、スピードがこの亀裂を埋める役割を結果的に担ってはいます。 例えば、多くの線形によって構成されたゴールデンゲートブリッジを決戦の場として、その高低と奥行をアクションのスピードの中に昇華させたクライマックスなどは、文学からは絶対に感受できない、あえて言えば音楽に近い興奮を視覚的に生んでいる、とでも言いたくなるほど見事です。それは混乱するスキを与えないほどの快楽。 それでもあえて言っておきたいのは、すでに「1Q82」で前置きしておいたとおり、そこに誰のどんな痕跡を読み取れば良いのかという疑問、というか、そもそもその痕跡への興味さえもが喚起されないという、もしかしたら大した問題ではないかもしれない事実があります。 ...と、そう思いながら見つめる『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』のエンドクレジットが教えてくれるのは、あくまでもそこで行われている驚くほど整備されているであろう分業体制だったりします。一人の天才によって映画が完成しているわけではないのは、程度の差こそあれ映画誕生の当初からそうではあるけれど、しかしこれほど映画製作がマニュファクチャリングに接近して、なおかつそのマニュファクチャリング的成果が、マニュファクチャリング的産物に高いクリティを与えて完成しているのを見ると、痕跡の希薄化を指して、それを夢や祈りの希薄化として嘆く必要はないかもしれない、そして、結局はそこにひとつの大きな価値と、エステティックの一側面を認めることができる、という風に思うのでした。 上で書いてきたことの全く反対側から、それでも「私は今画面上に何を観ているのか?」という同種の問題にぶつかることも有り得るのが映画のおもしろいところです。ここで言う反対側は、同じく今年日本公開された、2010年のカンヌ国際映画祭とヴェネチア国際映画、それぞれの最高賞を受賞した2タイトル『ブンミおじさんの森』と『SOMEWHERE』です。いずれも『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』の翌日に立て続けにビデオで鑑賞したために多少混乱させられました。 Uncle Boonmee Who Can Recall His Past Lives 『ブンミおじさんの森』も『SOMEWHERE』も、分かりやすく言ってしまうと、「ストーリーらしいストーリーの無い映画」ということになるわけで、ここでの「私は今画面上に何を観ているのか?」という問題は、連続して追うべきストーリーの無さと、描かれているものの抽象度の高さという、そんな単純な理由によるところが大きい、とは言えるけど...、 おそらくもの凄くシンプルであろう思想に加えて、タイという国の経済発展の速度が生む齟齬や矛盾に対するどこかジャ・ジャンクー(中国)的な視座も絡んでおり、ここで描かれる超自然的なものや時空を超えたエピソードの交感は、実にややこしいものになっているのだけど、このややこしさは、たぶん「透明感溢れる瑞々しい映像に身をまかせればそれで良い」などというこちらの姿勢を求めていないはずだし、そもそもここでの映像は透明感に溢れてはおらず、それはそれ自体で極めて主張が強い。 ここで、『ブンミおじさんの森』の猿の精霊は、リアルなVFXへの置き換えが可能だが、『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』のシーザーは着ぐるみへの置き換えが不可能であり(それだけで作品の価値が転覆する)、故に、『ブンミおじさんの森』の映画作品としての強度(密度感)の方が、より高い次元にある....などと言いたいわけではありません。 ただ、『ブンミおじさんの森』が持つ価値には、どこを探しても前段で触れた隠すべき亀裂や、被写体の水準の気の利いた差異のようなものがないのは確かで、着ぐるみで鎮座する猿の精霊も、普通に女優さんがそこに居るだけの亡き妻の幽霊も、それらは他の登場人物や、森の深緑や、ブンミの家の家財具など、カメラに写るもの全てのものと同じ水準で、同じくらいの主張を持っていて、ここでは、記憶や時空間の差異にさえ、特別な深さを与えられていません。 だからこの映画をティム・バートンが言うように、「夢のようだ」と語るならば、どの瞬間も全てが同じくらい「夢のよう」だし、また、見た目の静けさに対して意外と情報量の多いオープニング、つまり、牛と人と森と精霊が登場するのを見るときも、それらが全部まとめて同じ水準にあることを教えてくれます。 ここでベラ・バラーシュの論を持ち出すと、「映画では、事物はほとんど(言葉を話す人と)同質になり、生気と意味を獲得する。事物は人間に劣らず喋るので、そのため事物はじつに多くのことを言う。これがどのような文学的能力も手のとどかぬところにある映画的雰囲気の謎なのである」、...ということになるわけですが、私もここまでは賛同できるものの、バラーシュの論には先があって、そういった事物の豊かな雄弁さもまた、人間と関係している限りにおいて意味を持ってくるという、結局は人間重視の結論に向かってしまうのは残念です。 上に書いてきた『ブンミおじさんの森』を例に書いてきたのは、そんな依存関係が成り立たない状態のことであって、それぞれの意味がダイナミックに画面に貼り付いている状態のことです。 カメラに写るもの全てに対して無配慮と言いたくなるほど等しく焦点を当て、全てが同水準で濃密に混ざり合う『ブンミおじさんの森』のニュンスというものが、仮に急速な経済発展が著しいタイが抱えている問題そのものを映し出しているとするなら、逆に、全てに等しくピントを「当てない」という時間の垂れ流しによって、逆の方向から全てが同水準の地平へと向かい、結果的に『ブンミおじさんの森』とニアミスを起こすかのような『SOMEWHERE』もまた、現在のアメリカ..というか先進国全体の虚無感のようなものを表現し得ている、と、大袈裟にもっともらしく言えるかもしれません。 主な舞台となるホテルのディテールと、主人公ジョニー(スティーヴン・ドーフ)の表情が、鑑賞後の私の記憶の中では、同じ水準で溶け合っているかのようです。 SOMEWHERE どこにもピントが合っていないニュアンスは、そのままソフィア・コッポラ好みの"行間"を読ませる作りにも貢献しているわけですが、読ませたい行間がやたらと目立ってしまう、つまり結果的にそれって行間じゃないじゃん..と思わせてしまう露骨さは、彼女のオリジナル・シナリオでこれまでも感じられたことです。ここで言う行間というのは、単純化して言ってしまうと「セレブリティの虚無、もしくは孤独」ということになりますが、そういったものを滲み出させるための、むやみに登場人物の心情に踏み込まないカメラや演出の距離感といったものは、一歩間違うと無責任な間延びにつながるわけで、そしておそらくここでは、残念ながら一歩間違えてしまっているのではないか...というのが個人的な感想です。 が、...しかし、そういった不満を相殺できそうなくらい魅力的なシーンが『SOMEWHERE』にはあって、それは言うまでもなく「救済の徴」=主人公の娘クレオ(エル・ファニング)が初めて登場するシーンです。 静かに画面に入ってくる彼女の右手。その手に持ったサインペンで、ジョニーのギプスに自分の名前とハートマークを落書きします。彼女の静かな心配りは、眠り惚けたジョニーを起こしてしまわないようにしているだけだろうけど、彼女自身が主人公にとっての「救済の徴」であること、つまり世界を変質させ得ることを自身が十分理解したうえで、全てが同じ水準で他に依存しない画面、そんな均等関係が成り立った静かな世界に揺らぎを与えてしまわぬよう、愛らしく配慮しているように見えるのでした。...ソフィア・コッポラって、引き続きやればできる人なのかもしれない、とも思う。 たまたま同じタイミングで鑑賞した上記3タイトルを、串刺しでまとめるような気の利いた締め方をしたかったのだけど、あまりに強引で無理があったので今回はこれで終わろうと思います。
by hychk126
| 2011-10-26 12:34
| 映画
|
Comments(4)
私はhychkさんほどにはソフィア・コッポラを許せていなくて、画面にそれぞれ等価に張り付いて見える事物の多くが、ご指摘のとおり短い文章への置き換えが可能だったり、テーマに関わらない事物はファッション誌のグラビア的美(この場合はその場限りの…という意味です)に感じてしまいます。
ソフィア・コッポラの作品に内包される、「読ませたい行間」と「グラビア感覚」の差異というのが、面白く感じるというよりは、どうしてもイージーに見えてしまうという問題があると思います(すでにhychkさんは文中でご指摘かとも思いますが…)。 対して、ウィーラーセタクンの見事さが際立つ(というように私が感じる)のは、メディア・アートという異物がそのまま映画に落とし込まれ、その差異が指摘できないようなほどの「等価値化」が達成できている素晴らしさですね。もともと彼のヴィデオ・インスタレーションが映画的だということもありますが。
0
Commented
by
hychk126 at 2011-11-02 18:53
「メディア・アートという異物がそのまま映画に落とし込まれ、その差異が指摘できないようなほどの「等価値化」が達成できている」・・・私はウィーラーセタクンの仕事をこの映画しか知らなくて、手探りで回りくどいことを書いた気がしますが、たぶん知らないなりに私の言いたかったこともそういうことだと思います。...
ソフィア・コッポラについては自分とほぼ同世代なこともあってか、なんとも愛憎が入り交じってるところがあるのですが、やっぱり「グラビア感覚」ですか?いつもそこで彼女への評価がふらつくんです。 何を天秤に乗せてふらついているかというと、「やっぱコッポラの作るビジュアルってグラビアだよ」と確実に理解している自分と、そういうイージーにスタイリッシュなものを以前ほど嫌わなくなった自分です。 が、いずれにしても「SOMEWHERE」がこれではダメなのは確かで、賞を授与したタランティーノにも問題ありです。
例えば『SOMEWHERE』の前半のパーティで、スティーヴン・ドーフが氷の入ったグラスに酒を注ぐシーンで、そのグラスを大きく写します。そのとき、わざわざ彼は照明のすぐ近くにいるのですが、これはまず間違いなく、氷と液体を、筋立てとは無関係に、むしろ「筋立てを従属させてでも美しく」とらえようとしているグラビア的箇所だと思います。
ただ、それが悪いのかどうか、むしろストーリーよりショットを優先させる姿勢は、より野心的ではないかという指摘もあると思うのですが、問題はそこを切り取った理由にあって、すごく低俗で語弊がある例えをすると、女性がファッション誌を片手に、「これかわいいよね?」と言って見せてくるようなそれに酷似したもの…無論ガールズ・ムーヴィーであれば何の問題も無いセンスではあると思いますが、今回のオヤジ映画ですらそれを抑えられないミーハーさですね。 ではなぜこの題材を選んだのか、という厳しい目を向けられるべきだったと思います。他に受賞すべき良いタイトルがあったので、私もある種の疑問を持ってしまいます。
Commented
by
hychk126 at 2011-11-03 12:02
流れの中で論理的に説明のつかない「理屈じゃない」ことが時に素晴らしかったりするのは、そういうことが稀だからであって、ソフィア・コッポラの映画でそういう瞬間がどれくらいあったかを考えると、我ながら黙り込んでしまいます。
ご指摘の氷の入ったグラスの大写しなどは、ついやってしまう悪いクセの好例かもしれません。
|
ファン申請 |
||