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M・ナイト・シャマラン原案・製作によるザ・ナイト・クロニクルシリーズ第一弾、『デビル』(DEVIL 2011)を鑑賞。シャマランのアイディアを新鋭のスタッフ&キャストを起用して映画化する本シリーズ、今回の監督は『REC:レック/ザ・クアランティン』(Quarantine 2008)のジョン・エリック・ドゥードルです。
私はシャマランのネーム・バリューに引っ張られて劇場に足を運んだ口だけど、ジョン・エリック・ドゥードル監督についてのリサーチはしておこうと事前にレンタルしてきたのが、何を勘違いしたのか『REC/レック2』([REC]2 2009)。...そう、実はスペイン映画『REC/レック』(ジャウマ・バラゲロ&パコ・プラサ監督 [REC] 2007)の米国リメイク版が『REC:レック/ザ・クアランティン』だという事情が理解できておらず、ジョン・エリック・ドゥードルこそがオリジナル『REC/レック』&『REC/レック2』の監督だと思い込んでしまってたのですね。で、『REC/レック』自体はすでに観ていたので、未見の続編『REC/レック2』を観ておこうと考えたわけです。 ...なんか書いてるだけでややこしいのですが。 その『REC/レック2』ですが、以前こちら(ロメロ・ゾンビの原理主義)でも触れたように、主観撮影の本位が有視界の制限によるが気配ザワザワ感から、逆に、選りすぐりの決定的瞬間がオートマティックに視界を流れるレール式アトラクションのお気軽感へと変遷した後の、その極に配置できるアクション映画として、『REC/レック』をそのまま継承しています。複数主観の交錯に多少のバリエーションも盛り込んでいるとは言え、ストーリーもそのまま継承、映画としては画面構成の手腕が大きく問われる縦に長い閉鎖空間の舞台設定もそのまま継承、という勇ましさは買いたいと思いますが、端緒となる真相がデフォルメっぽく感じられるほどオカルトに引っ張られたり、かと思うと、「結局"4"以降のバイオハザード(ゲームの方)かよ」..と落胆させられるようなオカルトとは対極の寄生虫が視覚的に表現されてしまったりと、アクションの原動力が形振り構わずみたいに暴走してしまってる点に、上手く乗れる呆れるかで評価は大きく分かれると思います。私は、乗りきれなかったけど、監督のジャウマ・バラゲロ&パコ・プラサの力量は、まだ底が知れないとは感じさせられはしました。 と、勘違いでフォローしてしまった『REC/レック2』で、結局お目当てだったジョン・エリック・ドゥードル監督のリサーチは全くできないまま『デビル』に挑んだ次第です。 シャマラン・ファンとしては、事前に、ダメなら監督のせいにして、良ければシャマランの手柄にする心づもりだったのですが、結論から言うと『デビル』はかなりおもしろいです。 ちなみに、表現の斬新さは驚くほどなく、むしろクラシックでさえあって、ゆえに、正直ジョン・エリック・ドゥードル監督の演出力も無視できないものがあります。 ストーリーは極めてシンプルで、エレベーターの一室に閉じ込められた5人の男女という極度にミニマムなシチュエーションで展開する"そして誰もいなくなった"ですね。 鑑賞前に想像していたのは、もしかしたら上映時間のほぼ全編がエレベーター内部で展開するような、近年流行りのシチュエーション・スリラーの手法、(『ソウ』とか『パラノーマル・アクティビティー』とか)、つまり、極度に限定的で閉鎖された舞台設定そのものがミクロコスモスを形成し、その小さい世界に充満するエーテルが内側から映画を圧し、映画という大きい器を"持て余さない"様が、そのままスリルとサスペンスとして語れてしまう感じのスタイルが、とうとう"エレベーターの一室"なる小さい箱にまで行き着いた、…という、興奮していいのか心配になっていいのか分からない感慨だったりするのですが、蓋を開けると実際はそこまで過激ではありません。 もちろん、多くの時間と重要な出来事のほとんどがエレベーターの内部で起こる本作には、先に触れたミクロコスモスが映画(物語)の大きさを圧するスリルとして語れる魅力を兼ね備えてはいますが、再度繰り返すと、『デビル』はシチュエーションの奇抜さに多くを頼った、気張った感じの過激さとは無縁な、クラシックな仕上がりです。シチュエーションの過激さで言えば最近では『リミット』(2010)のように棺桶の中で展開するものまであるわけですし。(スペインってこういうの好きなのですね...) エレベーターの一室という閉塞性の中で緊迫感を煽るカメラは、主観撮影ではなくあくまで出来事に対して雄弁に振る舞いますし、そもそも全編がエレベーター内で展開するわけでもなく、5人を救出しようとする警備員や刑事によって進められるエレベーターの外部の物語も並走するわけで、観客にも十分な酸素量を供給してくれるそれなりに開放的なドラマであるわけです。 とは言え、ここでタイトルにも冠されたデビルは、余程映画に対して理解がある悪魔なのか、その超常的な力は、シチュエーション・スリラーの設定に実に都合よく発揮されることになります。 その力はまず、決定的な瞬間(エレベーターの内部で人が死ぬ瞬間)において常にエレベーターの照明を断続的に切断することで、漆黒の画面の中に叫び声と不気味な物音だけを浮かび上がらせようとします。照明が戻ると眼前にとんでもない状況が映し出されるびっくり箱効果は、サスペンスのみならずコメディにおいても馴染みのもので、それは観客と登場人物たちに対する犯人隠しと猜疑心を煽るお決まりパターンである以上に、首や血飛沫がとぶような残酷シーンをことごとく回避することで、ストレートな視覚効果に頼ったホラー映画になろうとしない慎みとともに、超常現象に支えられながらも、あえて上質なスリラー、サスペンスとしての体裁をクライマックスギリギリまで保持することに成功しています。 そして悪魔の力はさらに、エレベーター内部の状況を外部(警備室)に伝える広角カメラの粗雑な映像と、外部からの音声を届けるスピーカーの機能を生かしながら、エレベーター内の音声を外部に届けるはずのマイクの機能だけをピンポイントで壊すことにより、情報(音声)の一方通行という、程よく(最低限)困難な状況を作り上げることで、程よいサスペンスを盛り上げようとします。 "じらしテク"として映画的旨みを理解した悪魔による、このようにサスペンスを盛り上げるためにしかあり得ない仕掛けといったものが、ご都合主義的とも言える開き直りっぷりを見せることで、早い段階からこの事件が超常現象であることを丸出しにしてしまうことになりますが、照明の途切れと復旧が浮かび上がらせる地獄絵図のコントラストにしろ、情報(音声)の一方通行が煽る事態解読の程よい混乱にしろ、これらはいずれもスリラーの常套手段と言えるもので、それを、アイディア一発のシチュエーション・スリラーとしての奇抜さとは異なる、どこか丁寧でクラシックな感触として上で書いておいたわけです。 つまり、もっと奇をてれえるはずのこの映画は、もう少し志の高い土俵で勝負しようとしている。 ...これは、シリーズと言いながらどれくらいの息の長さを見せるのかが幾分怪しい"ザ・ナイト・クロニクル"の基本ポリシーであると理解したい。そして、シャマラン・ファンは、このポリシーこそまさしくナイト・シャマランその人のキャリアそのものであることに気づくはずです。 クライマックスで唐突に挿入されるフラッシュバックでシャマランのテイストが全開になったりもする『デビル』で、原案と製作としてどの程度作品の仕上がりに介在しているのかは不明ながらも、やはりここでナイト・シャマランについて考えておく必要がありそうです。 私自身は、彼のデビュー以来尽きぬイマジネーションに驚かされる一方で、尽きぬどころかむしろ苦悩と難産が透けて見えたりもしますし、実際は手クセが強く似たようなモチーフの変奏を繰り返しているだけのようにも感じられます。逆に言えばいまどき珍しく一貫した哲学を堅持する勇ましい作家だとも言えるのですが、早い段階で見限ってしまってすで眼中になかったりする人も多いだろうと想像します。 ここでは主題論に特化しますが、彼の映画の多くでは、"帰依"すべきシステムが大きく描かれており、その徴し(痕跡)と、それへの気づきと、それとの距離に応じて自らをアイデンティファイすること、によってストーリーが成り立ち、見せ場が構成されているように感られます。 "帰依"すべきシステムというのは、社会システムよりも大きい超越的なものですので、彼の映画は一応広義のSFに分類されることが多いですし、そこへの帰依といったときも、社会的な従属のニュアンスとは異なるものです。 そして、物語の構成要請である「徴し」も、「気づき」も、「アイデンティファイする」ことも、彼の映画ではそこに畏怖の念が常に伴い、その感情がそのまま映画の主要な題材になっていると言えるでしょう。 シャマランの作品には、以上のことを極端に単純化して「結局は宗教」、と切り捨ててしまえる危うさが常に付きまとっていますが、しかし、シャマランはやはり根っからの映画作家です。上述の"気づき"の過程をそのまま極上のサスペンスに仕上げることもあれば、アイデンティファイの達成がクライマックスを華麗に形成するものもありますし、また、現実的には帰依すべきものも、徴しも、全てが自らの主観の中にしか存在しないようなものもや、また、帰依すべきものの底が抜けており、それが実は超越的でもなんでもないにも関わらず(ヒロインの視覚障害ゆえに)畏怖の念とともにシャマラン的なアイデンティファイが達成されてしまうような仕掛けもあったりします。 いずれにしろ、主人公たちはそのような物語の過程で、ある程度は超越的なシステムの公理化を果たしながらも、畏怖の念とともに、引き続き"神"は参照されるべき存在であり続けているようです。 これらは、監督デビュー作『シックス・センス』(1999)以降どうしてもされがちな、"衝撃の真実"的な語られ方や期待というものに対して、時にたまたま相性の良いマッチングを見せることがあっても、基本的には質を異にするものです。 そしてシャマラン・ファンの多くは、悔い改めることで(" I’m so sorry ")、不可避と思われた死を免れてしまう『デビル』のクライマックスを観ながら、その展開に呆れたりシラけたりする一歩手前で、上述のようなシャマラン的な世界感が強固に貫徹されることに感慨を深めるのではないか、と想像します。 徴し(痕跡)への気づき = 神の意志を垣間見る、という、ごく小さいけれど人知にとっては僅かに残された大きい可能性にスポットが当たるシャマランの作品の中では、「悔い改めることで獲得可能な恩恵」(ルター)や、さらには、人の行いが神の決断を左右し得る、という可能性さえもが、払拭されることなく残っているわけです。 だからデビルというタイトルには、ゴッドへの置換可能性が含まれており、(似た意味は多少幼稚なセリフ回しで『デビル』のラスト・シーンにも置かれていますが、)それはなお参照されるべき存在であり続けています。 すでにSFが連れて行ってくれる"どこか"の魅力が、私たちの想像力のみならず現実と比しても乏しく感じられることがある昨今、シャマランの扱う主題、つまり"帰依"すべきシステムと私たちの関係というものは、「旧くない」に留まらず、ますます時代の要請に応えうるものであるような気がするのでした。
by hychk126
| 2011-08-20 11:08
| 映画
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Comments(2)
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