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『イップ・マン 序章』(葉問 2008)の邦題は、続編にあたる『イップ・マン 葉問』(葉問2 2010)が日本では先行して公開されたため、わざわざ"序章"などと冠されており、原題と邦題の関係が少しややこしいですね。
今回ビデオで本来の製作順("序章"→"葉問")に鑑賞しました。あまり大きな期待なく『イップ・マン 序章』をレンタルしてきて、それが驚くほどおもしろかったので、すぐに返却&その足で即続編をレンタルしてしまうという慌ただしさの中で、夢中で一気に観てしまったのでした。 特に90年代以降、カンフー映画にとって幸福とは言えない時代が続いています。 ここでマニアックな話は避けたいとも思うので、誰もが知るところの香港映画の大文字現在史として、70年代~80年代のブルース・リー、ジャッキー・チェン、リー・リンチェイ(ジェット・リー)らが武術を駆使して強敵を倒す、あの真っ先にイメージし易いカンフー映画ブームを少し振り返っておきたいと思います。...『イップ・マン』と直接には関係ない話ですが。 小中学生当時の幼い私には無敵に感じられたあのカンフー映画ブーム、それを葬ったのは、直接的な外敵によるものではなく、香港映画自体のトレンドの変化によるものでした。 そのトドメの担い手として80年代半ばから登場したジョン・ウー&チョウ・ヨンファのクライム・アクションを私たちは容易に思い浮かべることができるでしょう。(..こんな話題で"私たち"って誰?..)。 しかしもう少し細部を眺めてみると、80年代当初の『悪漢探偵』(1982)に代表されるような、武術そのものに拘らない小粒のガジェット・アクション満載の活劇が大ヒットしたあたりから、見せ場としてのカンフーに資源集中させるような古典的カンフー映画の、その需給の衰退の兆しがすでに見受けられていたとも言えそうです。 その頃の80年代カンフー映画の担い手であるジャッキー・チェンを振り返ってみると、実に『悪漢探偵』と同じ年に、『ドラゴンロード』というすでに古典的カンフー映画の枠組みから少なからず逸脱し始めた「アクロバティックで多様な見せ場の確保」に意識的な作品を、監督として世に問うていることに気付きます。 やがて、この路線が推し進められた先に『プロジェクトA』(1984)を、さらに、この流れとしては必然的に現在劇へと舞台を移さざるを得ない中で『ポリス・ストーリー/香港国際警察』(1985)を完成させ、そしてジャッキーは香港映画スターのジャッキーではなく"世界のジャッキー"(つまりハリウッド公認のジャッキー)となって、古典的カンフー映画はこのあたりで終焉したといえるでしょう。 実際にはジャッキーも苦労してて、ハリウッドでのブレイクは1998年の『ラッシュアワー』なるクリス・タッカーとのバディ・ムービーを待たねばならず、やがてはCMディレクター出身の監督による『タキシード』という問題作(カンフー映画ファンにとってのね)でCGによって殺されるに至るのは、私たちの知るところです。("私たち"←誰?) と、なんだかカンフー映画ファンの嘆き節のようなことを書いてますが、実際は上に挙げたようなタイトルを敵視しているわけではありません。 単に、21世紀の側から振り返ってカンフー映画殺しの「犯人探し」をしてみながら、あぁ、こんな感じだったのだなぁ、としみじみ感じ入っているだけです。 最初に書いた「カンフー映画にとっての不幸」というのは、なにもブーム衰退の経緯だけを言っているのではありません。 21世紀に入ってからも再評価の兆しがチラつきながら、結局はそれも現在風にシェイプアップした武侠映画の再興に掻っ攫われた...という点がかなり惨めだと思います。 2000年にはアン・リー監督の『グリーン・デスティニー』(2000)が世界的にヒットすることで、カンフー映画を飛び越えた遡行で、いわゆる武侠映画ブームが世界規模に拡散し、つい最近までその熱は燻っていたように思います。 カンフー映画ではなく武侠映画。... いや、そもそも「カンフー映画と武侠映画では何が違うのだ?同じじゃないか?」と問われれば、厳密な定義はできないけれど、次ぎの二つの条件が"AND"で満たされれば武侠映画だ、と勝手に私は解釈しています。「時代劇であること」、「駆使される技が超人のそれであること」。 「その定義からすると『イップ・マン』ってもしかして武侠映画になっちゃうの?」と不安に思われそうですが、『イップ・マン 葉問』で大人2人が円形テーブルの上でバランスを取りながら闘うシーンは、超人のそれではなくギリっギリセーフの人間技(?)ですし、時代背景もギリギリ時代劇より現在に近いです。 (..ということにしておいて、)話がやっと『イップ・マン』に戻ったのでこのまま『イップ・マン』の話を進めたいのだけど、もう少し脱線させてもらいます。 武侠映画にはやはり、京劇から剣劇への香港映画黎明期のクラシックな流れが透けて見え、もっと言えば武術と同レベルもしくはそれ以上に、「恋愛」や「冒険」や「謎解き」の要素が色濃く、そのあまりの雑多な"大盛り"ぶりから、歌謡映画の影さえ見え隠れするに対して、(全てとは言えないものの)カンフー映画は、記録された肉体の運動を見せ物とする、最も純粋なアクション映画のひとつであると言いいたい。 もちろん武侠映画同様、カットのつなぎによって実際以上の強さが演出されることには違いないけれど、しかし、強制収容所を例にして「映画はその役割を果たす術を知らなかった」..ことを、ジャン=リュック・ゴダールとともに嘆くよりも、ブルース・リーがヌンチャクを振るうときの肉体の躍動と中空でヌンチャクが弧を描くイメージ、(そしてこの際)勝新座頭市がカウンターの逆手斬りで空間を斬り裂くイメージ、...この二つが「映画」によって記録されたことだけでも、例えば写真で言うなら、高速撮影と連続写真によって馬のギャロップが解明されたことに匹敵する、素晴らしい功績です。... ちょっと大きく出過ぎましたけど...、そこにはモーション・キャプチャでは解析しきれない、瞬間の全体を焼き付けた断面の連続によって記録し、それがどう見えるかを観客に委ねる「映画」だからこそ果せた役割と功績がきっとある。 えー....、だから、映画万歳。カンフー映画万歳。(この際ついでに)座頭市やっぱサイコー。 ...そうだ、話をカンフー映画に戻さないと。...というか、すみません、書き始めを見てもらえば分かるように、本来本論にしたかった『イップ・マン』に話を戻さないといけないのだけど、ひとまず「カンフー映画にとって決して幸福とは言えない時代」の流れを見てきた中で、ついついファン丸出しでカンフー映画を賞賛してしまったわけですが、武侠映画だけが一時的に復興し得たことを羨むカンフー映画の不幸についてもう少しだけ考えておくと、武侠映画では上に書いたような雑多なジャンルの詰め込みによって前提がキワモノとしての"荒唐無稽さ"が寛容に許されるのに対して、カンフー映画も十分キワモノかもしれないけれど、そこに最低限必要とされる説得力というのがあって、「素手で戦う」ことの倫理が否応も無く揺れ動くことになるのだと思います。 説得力(自然さ)と荒唐無稽さ(不自然さ)との葛藤は確かにあるのだけど、私たち(?)カンフー映画ファンにはその荒唐無稽さを許容する度量があって、武道大会の舞台となる要塞化した孤島に銃火器の持込みが禁じられているまではまだマシながら、まさかあれだけの反社会的組織であるところの当の島主までもが一切の銃火器を所持していない事態や、木製のからくり人形に勝利して下山を許されるような修行にも、本気で付き合えるはずなです。 しかし当のカンフー映画本人の自戒は、結果的に合法的な根拠付けのために現在劇における犯罪者と警察官という設定を定番化させざるを得ないのだろうと思います。 もちろん90年代以降も、カンフー映画全盛期の愉悦を感じさせる人体の動きを記録し得た作品がないわけではなく、例えばジャッキー・チェン主演の『酔拳2』(Drunken Master Ⅱ1994)のクライマックスなどは、『ヤング・マスター/師弟出馬』(1980)や『ドラゴンロード』の悪役ウォン・インシクとの死闘を彷彿させる名シーンだと言いたいし、カンフー映画と言えるかどうかはともかく2003年にはタイ産の超絶ムエタイ映画『マッハ!』のようなものが登場したりして、それなりにファンを歓喜させているのも事実です。 ちなみに、『酔拳2』のエンドロールのNG集で驚かされるのは、ジャッキーが本物の火の中に倒れこむシーンよりむしろ、口の中からシャボン玉を出すシーンがCGではなかったことだったりします。 さすがにそろそろ『イップ・マン』に話を移します。 後でも少し触れますが、先回りして言っておくと『イップ・マン 葉問』はサモ・ハン・キンポーの雄姿を観れるという点以外はあまり観るべきところがなく、第1作にあたる『イップ・マン 序章』こそが観られるべきです。 全体のアウトラインそのものはいかにも形式的なカンフー映画である『イップ・マン 序章』は、ブルース・リーにとっての唯一の師匠としても知られる"詠春拳(えいしゅんけん)"の達人、イップ・マン(葉問)の伝記の体裁をとっており、許容すべき荒唐無稽さは極めて小さく、真面目すぎるくらい小奇麗にまとまっています。 手抜きのない野外セットの素晴らしさも特筆すべきものがあって、強い説得力に支えられたカンフー映画ですね。 一方でなかなかユニークな構成が魅力に感じられる点もあって、日中戦争を境にした没落の苦境が物語の背景の大部分を占めるとは言え、そもそものヒーローの出自は、最初からブルジョワであり、最初から人徳と権力を持ち、最初から完成された武術の達人であり、最初から絵に書いたような幸福な家庭を持っている、...ということで、要するに『バットマン』や『アイアンマン』のような、ワーキングクラス・ヒーローの対極に置かれるブルジョワ・ヒーローの系譜にも収まってしまいそうな主人公が、それでもしかし、大きな権力に対する民衆蜂起のシンボルとしての役割を十二分に果たすことで、ドラマが形成されている点がおもしろいです。 そんなちょと出来過ぎのヒーローではあるけれど、ひとつには、イップ・マンが達人として体得している"詠春拳"のスタイルそのものが、すでに民衆蜂起のシンボルとして実に象徴的である、ということは言えると思います。 つまり、上半身中心のミニマムな動きを基本として飛んだり跳ねたりしないという慎ましさの中で、カウンターを中心にしながらチャンスを見出すやポカポカ連打で果敢に打って出る(劇中で描かれる)"詠春拳"のスタイルそのものが、弱者蜂起のシンボルとして活き活きと機能しているのですね。 だから、攻撃的な型の北方拳法を操る道場破りも、空手の名手で強力な蹴りを繰り出す日本軍将校も、一撃必殺のパンチ力と西欧人種的なマッチョイズムで肉体の強靭さに物を言わせるボクシング・チャンピオンも、それらは実に強圧的で大袈裟に描かれており、対して慎ましく、上に書いた機能を十全なものに仕立てるための役回りを"詠春拳"自体が担っているわけです。 そして民衆が蜂起すべき対象の設定は、日本占領下の中国を背景にした『イップ・マン 序章』、1950年代のイギリス統治下の香港を背景にした『イップ・マン 葉問』ともに愛国主義の掲揚が大いに盛り上がるものになっており、本国での記録的大ヒットが大いに頷けます。 やっぱりこういうのは文句なしに盛り上がるのですね。例えば一見イデオロギー的な観点とは無縁に思える『マッハ!』なんかでも、単純に先進諸国人とのvsがあったり、もっと複雑にミャンマー(ビルマ)の格闘技使いがライバルになったりと、こういうことには大胆かつ露骨です。 ただ、『イップ・マン 序章』における日本人との闘いはまだしも、『イップ・マン 葉問』のボクシング戦まで行くと、国を揚げての扇動的異種格闘技戦みたいなイベント性が先に立ってさすがに少し訝しくなってきます。 しかも勝者インタビューを通じて人種を越えた和解にまで至ってしまうと、完全に『ロッキー4/炎の友情』状態じゃん...って思ってしまいます。... つまり、アメリカとソ連の国旗ペイントされたグローブが正面からぶつかって爆発するイメージで煽りまくり、ドラゴを破ってリング上の勝者インタビューに立つロッキーが、「みんなだってやれるんだー!、オー!」と直球でぶちかましてしまい、しかもその直球で会場内の全体主義が崩壊するという、あの驚愕のシーンが彷彿されるのですね。...いや、正直『ロッキー4/炎の友情』のノリは嫌いではないのですが、さすがにイップ・マンと"詠春拳"の慎ましさは、...ちょっと違うだろうと、言いたいわけです。 その『イップ・マン 葉問』に登場するイギリス人ボクシング・チャンピオンが、単にイップ・マンに倒されるべき筋肉ゴリラとして描かれていたのに比べると、『イップ・マン 序章』における日本軍将校・三浦(池内博之)は、ある程度その人間性にまでクローズアップされて描かれているのは興味深いです。 占領軍として搾取する立場からの権力行使を厭わぬ冷徹な悪役であるわけですが、ひとたび試合の場に立つと武道の精神と相手の存在を重んじる人格者の側面があり、さらには日本の黄昏時をも背負うような実に繊細な描き方がなされており、例えばブルース・リーの『ドラゴン怒りの鉄拳』(1971)に代表されるような、旧時代の抗日映画とは一線を画しています。 そして同時に、三浦はその尋常ならぬ眼光の鋭さによって、武術マニア、武道オタクとしてのパラノイアとしての側面も描かれており、ただこの辺りは残念ながら中途半端と言えば中途半端で、いっそ武術マニアとしてもっと完全にイっちゃってるキャラにした方がもしかしたら良かったかもしれません。 池内博之にとっての今回の役どころは、今後のキャリアへの影響が大変微妙だとは思いますが、その熱演には大きな拍手を送りたい。 そしてイップ・マン役のなりきりドニー・イェンのあまりのハマり具合もちろんですが、とにかく『イップ・マン 序章』の登場人物たちはみんな素晴らしいです。 中でも、日本統治下で日本軍の通訳によって生計を立てるラム・カートン演じるリー、彼のアイデンティティーが揺れ動く様は、"義"を重んじ、"義"を喪失し、"義"を奪還するという本作のテーマにおいて、ひとつの大きな柱を成していると言えるでしょう。 少なくない登場人物のそれぞれに実に多様な意味が与えられており、もちろんそのほとんどがステロタイプなものではあるけれど、その多様な個性の全てを等しく被写界深度内に捉えながら、消化不良を起こすことなく100分程度にまとめあげられているのは見事です。 脚本を書いたのは、本作が映画脚本として初の仕事となるエドモンド・ウォン。 調べてみると本作の製作者であり香港映画ファンで知らぬ人はいないであろうレイモンド・ウォンの息子......だが、もちろんコネに物を言わせただけの仕事ではない、素晴らしい仕上がり。 ちなみに、本稿の前半に出てきた「カンフー映画殺し」の一端を担った『悪漢探偵』は、若かりし日のレイモンド・ウォンの脚本だったりします。
by hychk126
| 2011-06-22 22:57
| 映画
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