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![]() アンドレイ・タルコフスキー監督の遺作には、自らの世代に対する(自己)否定と、次に続く新しい世代への全幅の信頼というメッセージが託されているでしょう。しかし、そのような主題が力強く作品を支配して、そのメッセージが観る者の心を揺さぶるものになっているかと言えば少々疑問で、...というのも、あのストイックとも過剰とも言えそうな映像には、そのような主題よりも前面に立って全体のトーンを支配しているものがあって、それはたぶん、「芸術」に対する信頼と、「芸術」となら心中しても良い、という芸術崇拝の姿勢のようなもので、レオナルドの「東方三博士の礼拝」に描かれた生命の木を大写しにしながら、そこにバッハ「マタイ受難曲」のアリア「憐れみ給え、我が神よ」を流すという、そんな大文字かつ究極のヨーロッパ的知性と芸術の痕跡を刻むかのようなオープニングひとつ取っても、そこには、シンプルに「芸術最高!」といった強靭な想いが、表向きの主題(メッセージ)の幹から滲み出てしまっており、主題そのものを浸してしまう感じがするわけです。 このフランスとスウェーデンの資本でロシア人監督がメガフォンを取った『サクリファイス』は、そのような作家の姿勢がものすごく信用(共感)できるものとしてこちらの胸を打ちます。 そんな信用できる感じについて考えながら話を本題へと変えて行きますが、『アンチクライスト』がこちらの予想を裏切る上々の出来栄えだったラース・フォン・トリアー監督の『メランコリア』(MELANCHOLIA 2011)は、今回もクレジットやタイトルバックの役割を担わない、純粋な前奏曲を本編の前に堂々と置いています。 また、テレンス・マリック監督の『ツリー・オブ・ライフ』(The Tree Of Life 2011)からは、かつて文学の力を借りて芸術に接近しようとした映画の歴史を省みながら、映画の領分についての新しい認識を私たちに提示してくれるような感覚を与えてくれます。 ![]() ![]() ラース・フォン・トリアーは近作にフォーカスするまでもなく、例えば『奇跡の海』(1996)で章立ての合間に間奏曲を入れたり、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000)のOPでは実に暗幕をバックに、オリジナルのオーケストラ曲を乗せるなどしてきたわけですが(ビデオでは色彩のイメージに差し替わってましたね)、監督の映画に対するこのような姿勢は、一方でデビュー当初からクラシックな作劇手法にメスを入れるかのようなやんちゃぶりが顕著なのに対して、しかし一方では古いタイプの芸術信仰者としての拘りを表明しているようでもあります。 ここ二作では、ヘンデル「リナルド」の有名なアリア「私を泣かせてください」、ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲と、その意味性についてはあとで触れるとして、とにかく一見分裂症的に暴走するかに見える本編の内容に対して、一方で伝統や歴史性に根差した芸術への信仰が垣間見えて、不思議なバランスを醸しだすことに成功しているように思います。 だからここでの「トリスタンとイゾルデ」は背景ではなくむしろ前景にあって、前回同様ハイスピード撮影が作り出すスーパースローの映像がその後景を構成していると言えるのだけど、運動や現象の解析・計測用途であるはずのものがそのままエンターテイメントに搾取されたスーパースローの品格を、芸術の域にまで持ち上げる、もしくは、真の芸術は解析・計測的なものでなければならない、みたいなぶち上げ方として、前作以上に大変心動かされるものになっているわけですが、一方でそのようなOPに限らず作品全体が象徴主義的なものとして謎めいた雰囲気を存分に振り撒いてるのも事実で、このあたりのことはサイドメニューにリンクさせていただいているk.onoderaさんのブログで、デューラーの板画をモチーフとした解析をされててたいそう説得力あるものになっています。 映画批評 k.onoderaの日記 『メランコリア』 しかしまた一方で、ロマン主義ド真ん中の代名詞のようなの音楽に導かれて始まる本編の語り口たるや、むしろ耽美に寄ることなく、人の顔、顔、顔、...もちろんこれまでも物語の渦中に語り部を投入することで、カメラと被写体の関係性に脅迫的なほど意識的だった監督のキャリアを考えると、それは決して唐突なものではないけれど、それにしても顔に寄ったレイアウトを畳み掛けて、登場人物の作用と反作用を描き出すその手法は、これが象徴主義であるどころか、むしろ自然主義的な描出を固持しているかのようでさえあって、一見してとても彗星の地球衝突を描いているようには見えないわけです。 劇中あれだけテレスコープを覗くシーンが多いにも関わらず、光学的にメランコリアを捉える映像はことごとく排除され、あくまで肉眼で捉えるメランコリアだけが挿入されるのもそうです。だから、音楽がロマン主義、語り口が自然主義、モチーフへのアプローチが象徴主義、と考えざるを得ないこの映画は、映画に先行する音楽や美術や文学の、その時代精神の見本市とも言えるような知性刺激型のアプローチが積み上げられてる感じがしないでもない。 さてここで、前奏曲としてだけでなく、本編中のライトモチーフとして執拗に繰り返される以上、「トリスタンとイゾルデ」が象徴するものについて考えざるを得ないわけですが、私自身は本作を二度劇場で観ながら、そのまま単純に婚礼を前にしたキルスティン・ダンストをイゾルデに、さらにメランコリアをトリスタンに置き換えて考えてきたのですが、それだといまひとつ作品のアウトラインがくっきりしなかったのですね。前半の婚礼パーティーで、これまで同様、罪の女の異端審問に近いバリエーションが見え隠れこそすれ、まずビジュアル的にラース作品のヒロインの系譜から食み出すような凡庸さを見せるキルスティン・ダンストが、どうもイゾルデには相応しくないように感じられてしまい、後半の彼女もイゾルデに準えてみればなんとも立ち位置と振る舞いが中途半端で仕方がないという、そんな感じでした。 ![]() で、この私の疑問についても、上に引用させていただいたk.onoderaさんところのブログが明快な解釈を与えており、個人的には非常にスッキリさせていただいたのでした。(今回は他人様頼りだな) つまり、メランコリアと地球との関係こそがまさしくトリスタンとイゾルデであって、二つの球体が織り成す「死のダンス」によって結合=「永遠の愛の死」に至るという、そんなフレームですね。こう考えるとキルティン・ダンストは「ただの巫女」ということで、私自身は非常に納得が行くわけです。 地球とメランコリアが織りなす「死のダンス」が、どこか鮮烈極まりない愛の形態として、メタファーを超越したリアリティをもってこちらに迫ってくるのは、その祝典と引き換えにされる全生命の消滅という悲劇がそれを裏付けます。つまり、惹かれあう男と女がその愛を成就するパワーは、時に周囲破壊的で死体の山を築くことさえあるのは、それが神話から近代文学に至るまでの礎でさえあるでしょう。「トリスタンとイゾルデ」も客観的には実にハタ迷惑な話ですし、近いところではブリュンヒルデ=ポニョが引き起こす大洪水もそうです。『メランコリア』は、その系譜の最大形であり極点であると言えるでしょう。 『メランコリア』における「トリスタンとイゾルデ」の意味性の解釈は、以上のように納得できるだけでなく、結局、題材として「どこまで壮大やねん」という話です。傍観するしかない人間たちと巫女に寄り添いながらも、森羅万象を愛の邂逅と死によって織り上げる、そこに見られるのは、芸術や思想がタコ壺化する以前の、旧時代的な、というか信仰をモチーフとした「大芸術」といったものに対する、畏怖であり、無批判な信仰であり、考古学的な憧憬、...といったものであると感じます。 そしておそらく、監督自身が首謀していたドグマ95の「純潔の誓い」とはつまり、商業性やポピュリズムに対する過激な禁欲性である以上に、ここで触れている「大芸術」への畏怖と憧憬に対して、現在の作家としてなんとか抗するための手段であった可能性があるんじゃないか。それはもちろん既成価値に裂け目を入れるためだけど、それでもやはり抗し切れるものではないヨーロッパの知の重み。透けて見える「芸術最高!」 テレンス・マリック監督『ツリー・オブ・ライフ』は、BDソフトの美しさはありがたいのだけど、周囲で評判良くなかったし、こちらの勝手なイメージで全く期待してなかったことも手伝って、劇場公開時にパスしてしまったことを深く悔いることになりました。 劇場公開時のコピーやCMでの売られ方から、これ主人公の回想による長大な大河ドラマだと思ってたのだけど、驚いたのは主人公の家族をめぐるドラマがシンプルを通り越してほとんど何も描いていないことです。 もちろん、信仰と世俗の二つの価値観に引き裂かれた主人公が、前者に価値を見つけながら、嫌悪する後者に身をやつさざるを得ないという苦悩が描かれてはいるし、弟がなぜ死なねばならなかったのかという問いが主人公の病となっていたりはするのだけど、しかし、映画の中でのそうした家族を軸にしたドラマの役割は、極端に言えば誰でも待っている他愛のない思い出、例えば子供の頃可愛がってたペットを事故で亡くしてしまったことや、知らぬ間に失くしてしまって二度と出てこない宝物の不思議、といったものにさえ置き換えできるくらいのものです。どういうことか? ![]() つまり、全生命の大きな奔流においては、その程度の他愛のない出来事の慎ましさと、宇宙が創造される森羅万象の力強さとが、全く同じ水準に在るということ。たぶんそこには、大きい小さいや重要性といったものの差異は無く、一方が一方に対して特権的でも支配的でもない、ということ。あのCGの恐竜を見ても分かるように、ここでのマリックは使用する映像に迷いがなく自信たっぷりで、都会のビルディングの直線群は、岩土肌の織り成す神秘的な曲線や血液が循環する血管系の微細さに対して対等であり、一方が一方より高尚にならない。『ツリー・オブ・ライフ』は、そういうことを表現するために眩いばかりの天上的な映像群をひたすら駆使する。 ちなみに、画面に映るもの皆時空を超えて同水準、ということで言えば、個人的には昨年の『ブンミおじさんの森』が想起させられるのだけど、アピチャッポンの場合、大芸術への信仰どころかむしろ極めて現在的な思考と手法で、音楽で言えばヒップホップに通じるように感じられたのに対して、マリックはやはり臆面もなく古いタイプの芸術家だと思う。だから、上の『メランコリア』で書いたことを再びここで繰り返すなら、その試みは「どんだけ壮大やねん」ということです。 これをスクリーンで観た人の「プラネタリウムのよう」という意見はものすごく理解できるもので、それはそのままマリックの「美しい映像」の危うさであるのもまた、すごく理解できるものです。特に90年代以降のテレンス・マリックの仕事はその映像だけ切り取ると、例えばナショナル・ジオグラフィックやWIREDに掲載される自然科学とデジタルの視座から私たちのライフスタイルに訴求するような映像、といったものから差別化する要素が中々見え難かったりして、映画観ててヒヤヒヤさせられる瞬間が多いのは事実なのですね。 私は、そこを力づくで救いあげたいというほど熱心なファンでもないのだけど、それでも『ツリー・オブ・ライフ』には深く感動した挙句に涙してしまったという、それはやはり「芸術大好き」という気概においてであって、ここでもやはり、慎みや恥ずかしげもなく「最高!」であるわけです。しかも映画が映画であることにおいて。 というのも、かつての映画には、文学の威厳を拝借して自らの地位を芸術に近づけようとした時期があったわけですが、おそらくマリックは、ヴァージニア・ウルフやジェームス・ジョイスらが文学を土俵に描き出そうとした「意識の流れ」、つまり、時に歪み、時に美化され、時に脈略を欠き、時に断片的であり、散文と物語の重力に揺れ動く純然たる「意識の流れ」というものに対して、その時代精神を借り受けるのではなく、映画であればこうできる、と、まさしく返歌しているから。 ![]() 「無数の印象があらゆる方向から絶え間ない雨となって降りそそぐ」 - Virginia Woolf これは、何も特別な瞬間を言っているのではなく、日常の私たちの意識を言い表しているのだと思うのですが、マリックがここで描こうとしているものは多分これでしょう。マリックの映画で頻繁に挿入される持ち主不明のナレーションだってそうだ。 先に挙げた、わざわざマリックの映画で無くても良いかもしれない、雑誌やWEBサイトを彩る目を疑うような美しい映像群は、それら個々おのおのはマリックの「美しい映像」と呼応するかもしれない。しかし、マリックの野心は私たちの「意識の循環」を形式としてまず採用しながら、大風呂敷を広げたようなベルクソニズムに寄った進化論から、汎神論の視覚的イメージと聖堂の天上に描かれた人格神を同時に内包しつつ、印象派絵画からフレスコ画や壁画までを貫き、エイドスの向こうのイデアを目指すような、そんな大伽藍を描くことあるわけで、そこでは個々の映像が自立的に眩さを放ちながらも、しかし目指すべきはモード的な価値の集合ではなく、過去の偉大な芸術家や思想家たちのあくなき挑戦と、成果と、敗北の屍が集積した場所にある大時代的な価値であり、「芸術の名において」という大義名分を掲げてこそ挑める壮大なもの。...というのはきっと言い過ぎだけど、とにかくそれくらい大袈裟な作品だと感じるわけです。 それはヒーリング用のBGVにも使えそうな本作に、必要以上に面倒くさいオーラを与えてしまうものかもしれないけれど、でもやはりここでも信用できてしまうテレンス・マリックの、濁ることのない芸術信仰の姿勢。 ![]() 上に見てきた二人の映画監督の大文字芸術への信仰は、どこか重鈍な印象のものです。また喩えは悪いかもしれないけれど、例えば、余裕さえあれば本腰入れて読んでみても良いかもしれない...と考える人も多いであろうハイデガーやヘーゲルなどを、しかし「今読んでる場合か?」という理由でついつい退けてしまうのは、おそらくそれらには、私たちの生命に関わる政治そのものをクリティカルに論じたり、社会学的見地から世代批評を行うような昨今流行りの言論に比べて、即効性や実効性のようなものが圧倒的に不足しているからでしょう。実際には、即効性と実効性に代わる価値として、考え方次第では万能鍵に成り得るヒントを発見できるかもしれない類のものではあるけれど。 こうした価値選別は、思想や文学だけではもちろんなく、音楽も映画も全てのエンターテイメントについても、そこで求められる(もしくは急がれる)実効性は、広い意味で言うと貨幣還元だと言えなくもないだろうし、それはつまり、(資本主義的な意味での)有用性を重視する姿勢のことです。こうしたものに対置される概念を探すと、一番分かり易いのはおそらくバタイユの「呪われた部分」が言うところの、豪奢であり、余剰であり、蕩尽になると思う。 上に書いた大時代的な重鈍さというのはつまり、この概念に近いかもしれません。芸術がそっちに向かうのが絶対的な理想だと言うつもりはなく、ただ、芸術にとっては当たり前の概念だったはずなのに、意外なほど今貴重なものになりつつあると思う。 映画は、情報量の多さゆえに欲望実現に極めて適した分野であって、他の芸術を俯瞰で捉え得るミクスチャー装置として、良くも悪くも適してものであるでしょう。しかし、ここで触れた二作に似たスケールで、大芸術に対する心酔を豪奢に表現してしまう古いタイプの芸術家は、それほど多く思いつかない。 ちなみに、映画作家なら『ファウスト』が待ち遠しいアレクサンドル・ソクーロフとかは近いかもしれないけれど、これがゴダールになると最終的には無批判な信仰ではなくゴダール自身に行き着いてしまう感じがするし、やはり教育的側面の強い批評装置になってしまうだろうし、上で触れた実効性をも発揮してしまうと思うのです。また、(私自身視野が広くないので引ける作家名に限界があるけど、)例えば見た目が大芸術家然としていなくもないミヒャエル・ハネケなら、(一時期のベルイマンのように、)心酔や信仰ではなく、あくまで見事なフレームの借用のように感じます。(ハネケは好きです) 臆面もなく古いタイプの芸術家が牙を剥いて、有用性や合理性から離れた距離の大きさによって、非合理な呪われた部分へと向かう。東京スカイツリーは600m以上の高さを誇りながら、観光施設であるがゆえではなく、その新しさやあの造形ゆえでもなく、電波の送信設備を備えているがゆえに、古い聖堂から得られる畏怖とは無縁の建造物だ。畏怖とは、有用性や実用性から離れる距離の大きさに比例して大きくなる。合理的思考では、それはただの「浪費」かもしれない。そんな「浪費」と紙一重のものに打ちのめされる衝撃。『メランコリア』など、まさしく芸術における豪奢な蕩尽そのものじゃないか。
昨年公開された青山真治監督の『東京公園』(2011)と、今年1月公開された園子温監督『ヒミズ』(2012)は、「相手を真っすぐ見つめる」、というひとつの主題を共有しています。
![]() 『東京公園』の主人公・志田光司(三浦春馬)の周囲に対する鈍感さは、その悪気の無さによってストーリーを牽引する恋愛ものの定石ではあるけれど、この映画の中では、幽霊やゾンビなどの小ネタと不思議な親和性を保ちながら「主体性の欠如」をテーマの中心に置いて、やがて最初に引いた「相手をまっすぐ見つめる」ことを通じて、自分を取り巻くものへの気づきから、緩やかな主体性回復の兆しを描いています。 そしておそらく、その思想も、動機も、フォルムも、ストーリーも、『東京公園』の対極と言って良いはずの『ヒミズ』もまた、「相手をまっすぐ見つめる」ことを通じて、自分自身を発見する映画だったと言えます。私はいずれの原作も未読ですが、本稿はそんな『ヒミズ』の話。 ![]() 「キムタクを映画に出すな!」アノ有名監督が日本映画界を痛烈批判 キムタクという固有名詞はスケープゴート的で多少不憫に感じるところもあるのですが、園子温監督による日本映画界の現状に対する批判の論旨そのものは、監督の映画同様、歪つな極端さを全面に押し出したものであるとは言え、それなりに納得できる部分も多く、少なくとも「気持ちは分かる」程度のことは、映画ファンの多くが共有できるものではないかと想像するのですが、...とは言え、『ヒミズ』に限らず、また特に最近の園子温作品高評価のトレンドを待つまでもなく、園子温監督に対して映画ファンの反発が多いのも事実です。 だから例えば上の批判から一部抜粋すると、--「腐った伝統を重んじる映画評論家には、『君たちの時代は終わったよ』と墓を掘ってあげたい」--、と発言する園子温監督は、かつてのフランソワ・トリュフォーが「フランス映画の墓掘り人」と呼ばれていたのを意識しているフシもあり、映画好きならそのあたりも敏感に察知するはずで、おそらくトリュフォーを愛する多く人からは、そんな振る舞い自体にも反発があるんじゃないかとヒヤヒヤしたりします。 私自身は、園子温監督の作品を支持したい立場の人間で、ただ、そこには条件がいっぱいつくので多少なりとも複雑なのだけど、本稿では作家論的な分析には深く立ち入らず、『ヒミズ』について感じたことを中心に進めます。 厭世の病にある若者の絶望を描いたこの映画は、すでに知られているように、3.11を経験してしまった後の表現者としての焦燥感のようなものが深く刻まれたものになっています。原作をもとにした最初の企画段階で、「絶望」からの再生に向けた「希望」までをもターゲットにしていたのかどうか、そのあたりのことはよく分からないのだけど、結果として、再生意思への発芽と、それに対するエールで映画は幕を閉じるわけで、それ自体は(後に触れるように)素晴らしいと思うのだけど、そのエールが、果たして監督の意図するところにうまくリーチしているかというと、どうもそうはなっていない感じです。 先に書いた、表現者として「見ぬふり」が許されない出来事というものがあったとして、仮にその表象不可能性のようなものをそのまま「表現者の敗北」として貼りつけてしまうこと自体は、あえて誠実とは言わないまでも、あって良いことだと思うのですが、しかし例えば、先に書いたエールがあまりにも無防備に「ガンバレ!ニッポン!」的な、とても「表現の不可能性」とも言えないような響き方に接近してしまっているのは事実だろうし、また、時折挿入される現実の被災地の映像は、本来そのようなものを必要としないはずの、せっかくの物語の強固さ(後で触れます)を、結果的に歪つなものにしてしまっていることから、余計な色気に感じられてしまいかねない類のものです。 ![]() 上に触れたこの映画の物語の強固さというのは、また再生への意思に対して送られるエールの感動は、この作品を二人の若者を主人公にした青春映画の域に留めてこそ、本来の力を発動させるものだと私には思われるし、実際あらゆる部分で、純粋に青春映画的なものにアンカーを打とうとする力が漲っているわけです。 それは例えば、大人はみんなクズで子供の未来こそが大事、というような「潔さ」も正しくそうだし、デフォルメされた教師や学校を含む大人たちの描かれ方もそうだし、もうちょっと続いて欲しいと思わせる川沿いを走る二人を正面から捉えるショットを断ち切ってつながれる、クレーンで上空から見下ろす幾分ステロタイプなラストショットもそうなのですが、そんなポジショニングが出来上がったようなところに、後付けで問題の射程域を無理やり拡大している感じが否めません。(これはサミュエル・バーバーのアダージョについても言えるのだけど、その端緒について知るところではありませんし、個人的な趣味の問題かもしれません。) 実際にそれが後付けであろうとも、また結果が歪つになっても、避けて通るわけにはいかない、という表現者の信念がここで貫かているのなら(実際そうだろうけれど)、これ以上の文句を言っても意味がないのだけど、しかしそうであるならば、表現者として他にもっとやりようがあったのではないか....? あの風景とあのノイズを、夢や幻視のシーンとしてところどころに差し挟む、というのは、さすがにあまりにも簡便なものに感じられるわけです。 ここまで書いてきた違和感に目をつむることは困難だし、そこを切り離した評価は本来有り得ないのだろうけれど、それでもあえて青春映画としての『ヒミズ』を高く評価しておきたい、というのが実は私のスタンスです。 園子温監督の映像作劇手法の、どこかいつまでたっても熟れない感じの青っぽさと手をつないだ青春映画である『ヒミズ』は、青春映画という枠組みを離れて見ても、例えば疑似家族であったり、自分の中の空洞とその空洞を満たすことなどの観点から、相変わらずのテーマ設定として見通すことが可能ですが、なによりも、『冷たい熱帯魚』(2011)や『愛のむきだし』(2008)と同様この映画もまた、激突する戦いの映画である点において決して唐突なものではないでしょう。 『ヒミズ』は、絶望と希望の激しい戦いを描いています。 自暴自棄に「絶望」を背負う主人公・住田(染谷将太)の前に、「希望」を灯して立ち塞がるのは、クラスメートの茶沢景子(二階堂ふみ)という強敵です。これは文字どおり二人の戦いの映画であり、激突の末に住田の「絶望」が茶沢の掲げる「希望」の前に敗北する映画です。 そういう意味では現実に対して甘さを残した映画だとは言えます。主人公の絶望の質が甘いのではなく、絶望に勝る強烈なものに外側から触発され得ること、そういう外部がヒロインの姿をとって存在すること自体が、現実にはあまりにも恵まれた境遇であるかもしれません。ただ、外部というのはもちろんクラスメートの異性という理想的な形で在る必要はもちろんなく、自分の外のものに触れて打ちのめされること、強烈に感化されることを恐れるな、という、甘いも何もなく、広く共有されるべきメッセージとして力強いものだとは感じます。 ![]() ![]() ここで重要なファクタとなるのが、茶沢の愛読書の一節として引用されるヴィヨンの詩です。--「何だって分かる。 自分のこと以外なら。」-- 園子温監督の作品では少なからずある、時に観ているこちら側がついガードを固めてしまう瞬間の典型的ではあるけれど、『ヒミズ』ではその導入部から、執拗に上記のヴィヨンの詩を引用します。 厭世観もペシミズムも、深い絶望も、時に世界を理解できた気でいるのだと思うけれど、現実にはそんなわけがないし、そもそも世界の一部であり全部でもある自分のことさえ理解できていないのが、少なくとも主人公・住田にとっての本当のところです。自分自身の理解をどのように成し得るか、またそもそも、自分というものを理解できていないことを、どのように気付き得るのか。... しかし、自分を見つめる相手の眼差しを通じて、自分のことを理解することは可能かもしれない。自分を見つめる茶沢の眼差しを通じて取るべき行動を決意できた住田は、それを理解して涙を流す。 ヒロイン茶沢の個性が素晴らしい。住田からの厳しい仕打ちに対して、「住田君への呪い」として石ころを自分のポケットに溜め込む彼女は、住田の発する暴力が住田自身に向かうことで初めて、溜めた呪いを住田にぶつける。彼女もまた彼女自身にとっての拠り所を求めてのことでもあるのだけれど、その行動は常識を逸しながらも、彼女自身の信念に論理的です。 そんな二人の戦いは、互いの瞳の見つめる先が噛み合わないまま、ドタバタに近い形で激しさを増して行き、やがて住田が茶沢の瞳に映るものに気付き始める終盤において、「相手をまっすぐ見つめる」ことがクライマックスに置かれます。ここでの茶沢=二階堂ふみはまるで、「罪と罰」のソーニャのよう。 そして、リアリティを欠いた茶沢の個性に対して、しかし彼女の口を突いて出る未来への想像力は、「結婚しよう、」「私たちの子供を作ろう、」「幸福になろう、」という、きわめて有限で現実的なところに留まるものでしかなく、それは劇的な特効薬でも、「コリント信徒への手紙 13章」でもありません。ここではどう考えても、それがそうでしか有りようがないこと、そしてそれが住田の心を動かし得る様を、実に感動的に描き出しています。 この地に足の付いた感覚もまた、上で触れたこの映画本来の、つまり余剰に濁る前の、物語の強固さのはずです。 園子温監督の役者に対する指導の厳しさは有名ですが、今回は、背景にある現実の度合いに比して、あまりにも観客の共感を遠ざけかねない若者二人の個性の奇抜さ、というものに対して、若い二人の役者から引き出しているものはとても大きくて貴重なものだと思う。特にヒロイン茶沢は最初の登場シーンからずっと、観客が興冷めしてしまうボーダーラインすれすれを珍奇に暴走する個性として、こちらをヒヤヒヤさせるわけですが、そんな茶沢を演じる二階堂ふみの演技は、その個性の有り得無さを、こっちが訝しくなるギリギリ手前でかろうじて持ちこたえさせてくれる素晴らしいものです。 ![]() 例えば、昨年話題を呼んだ『大鹿村騒動記』(阪本順治監督)や『奇跡』(是枝裕和監督)は、私自身いずれも楽しめた映画ではあるのだけど、どこか俳優なり、現実の状況なりに寄り掛かった感じがするのは事実で、それはそれで決してラクではない映画の一側面なのだけど、たまたまそういった映画を観た後に接する『ヒミズ』からは、ある意味では演劇的と言えるような寄瀬の無い感じの中から、(もちろん二人が全くの新人ではないまでも、)必要とされるものをギュッと捻出する力が伝わってきて、そもそもヴェネチア国際映画祭という(時に迷走が危なっかしい)イベントに代表される海外の高評価が訝しいのは確かだけど、今回のマルチェロ・マストロヤンニ賞(新人俳優賞)には賛同の意を表したいです。 こうして考えるにつけ、やはり最初から最後まで二人の若者にミートし続けて欲しかったと思わざるを得ず、どうしても先ほどの愚痴に帰ってくることになります。二人を捉えた映像の先に問題系を押し広げることが仮に必要であっても、それは観客の想像力で十分なはずです。例えば、この映画は怒号と暴力が炸裂するにも関わらず、沈んだ色調のせいだけでなく演出そのものに緩急が全くありません。それは全編がまんべんなく性急であるから...ではなく、むしろ張りつめた糸が切れたように全編が不思議と緩んだ感覚に支配されているかのようで、それだけでも現在の日本の置かれた状況に対して十分雄弁なはずです。(単に映像に締りが無くだらしないだけ...の可能性を大いに含んでるあたりは園監督らしいですが) 行間を読ませない、映像表現が本来的に持つ直接性といったものに急速に帰依するかのような作風として、それをポジティヴな意味で、特に『愛のむきだし』以降の園子温監督作品を本ブログでも何度か論じてきたのは自分で理解できているので、ここでの不満はある意味矛盾したことのように響くかもしれません。矛盾しているつもりはないけれど、ある意味では"むきだし"の表現の不用意さが、ネガティヴに作用してしまってる可能性はある。 「相手をまっすぐ見つめる」ことを重要なモチーフに、最初に触れた『東京公園』が、そのまま映画の原理と向き合うことになるのは、青山真治監督らしいところです。だから一見して緩やかな流れの中にある『東京公園』は、実際には暗雲立ち込める主人公の先行き同様、多くの困難を進んで背負うことで、あちらこちらで脱臼を繰り返すヘンな映画です。 一方、『東京公園』が描く主人公の問題と比べたとき、遥かに深刻なはずの『ヒミズ』には、進んで何も背負わないような、悪く言えばある意味無責任とも言える園子温監督の軽さがそのフォルムから感じられて、それが許せない映画ファンも多いと思います。 何を自らの倫理とするか?園子温監督には監督なりの倫理の選択があるでしょう。ただただカットを割らずに必要な距離を執拗に保つだけで、「相手をまっすぐ見つめる」ことに武器を持たないまま肉薄するかと思えば、父親を手にかけるシーンでは意図を計りかねるクレーンが入ってくる。明らかに時間配分が無茶苦茶なのもそうで、自暴自棄に陥った住田の魂の彷徨を現実の街の風景の中に描くシーンが、必要以上に肥大化してしまっていたり。 ![]() 明らかに表現手段としての映画に我が意を得て、それを深く信仰しながら、それでも良くも悪くもある種のアマチュアイズムの中で不合理だったり過剰だったりしているのか、すでにそんなわけがなくある種の洗練の先に行きついた結果がこうなのか、日本映画批判における「腐った伝統」というのはどのようなところまで射程に持っているのか、私には分からないまま、上であれだけ青春映画としての『ヒミズ』を称えながら、この映画の価値を輝かせるものと損なうものが、いまだに選別できず、それは他の園子温監督作についても同様なのが、正直なところです。
賛否はともかく、やたらと濃い感想の数々を昨年の段階で聞き及んでいたドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『灼熱の魂』(INCENDIES 2011)を、年明け来阪間もなく劇場でキャッチしました。
![]() -- 「馬鹿と気狂いは真実を言う。」(ニーチェ) 真実の価値と、「死を前にした人間はウソをつかない」という劇中のセリフについて考えてみる。...似たことは良く語られるし、アインシュタインも、俗世におけるエゴからの解脱の困難を次のように語ってました。 -- 「我々が正直になるのを許されているのは、生まれる瞬間と死ぬ瞬間だけだ。」 ![]() 真実は、それが指し示すものがどのようなものであれ、揺るがない価値を持っているだろう。また、それを知ることは常に尊くて、それは人を自由にするだろう。...とかいろいろ言われるわけですが、けれど一方で、秘密を「墓場まで持っていく」という表現があるように、隠された真実が厄介なものであるのも事実でだし、死に際に真実を語る者には、責任を全うする意図に反して、時に「言い逃げ」の無責任ささえ漂うことがあります。 いや、「魂の叫び」とか、「強靭な愛の意思」という風に言われている本作のヒロインの決断を、ここで無責任などと言いたいわけではありません。映画の中で明かされる真実は、作劇臭さギリギリで持ちこたえる類のものだけど、私の想いが向かうのはヒロインよりもむしろ、その真実を突き付けられる子供たちの方。 三人の子供たちへの遺書を通じて「真実」を知らせようとする老いたヒロインであるナワル(ルブナ・アザバル)。彼女の真意、少なくとも双子の姉弟に対するものについて、双子にとっての真実の価値がどのようなもので有り得るのか、私の想像力はそこに追い付くことができません。 真実に行き着いた時、発作的に嘔吐した双子の姉は、母親の遺書に耳を傾けることで、果たして肯定に至ることができたのだろうか、またこの先、これまで以上に自由に成り得るのだろうか。... 少し乱暴に言ってしまえば、ここで私の想像力が及ばないのは、私が男であるからかもしれない。 ...というのはものすごくいい加減で安直な言い草なのだけど、こんなことを考えてしまうのも、本作がどこからどうみても女性についての映画だからです。 序盤で男児の踵に刺し傷をつける時点で、映画は早々にオイディプスの悲劇を暗示しながらも、おそらくレバノンと思わしき内戦の凄惨さを、神話的な題材に準えてメタフォリカルに描くことに力点を置いているように見えない(もしくはそれほど成功していない?)のは、映画の立ち位置がそれ以上に、ダイレクトに「女性」性にスポットを当てようとしているからでしょう。 『灼熱の魂』では、女性であることの豪壮さと悲劇性が鮮烈なコントラストで描かれています。 例えば、端緒となる男女の恋が家名にとって許し難い罪だとするならば、それは如何に報いられるのか? ...相手の男は、一瞬にして頭部を撃ち抜かれます。そして女(ナワル)は、新しい生命とともに生を得て、映画が約2時間かけて描くとおりの顛末を辿ることになります。この導入部はすでに、女であることの主題に対して十分過ぎるほど雄弁です。 世界中を駆け巡る憎しみと報復の連鎖に対して、この映画では意識的に「生命の循環」が重ねられているでしょう。そしてそれは、悪の連鎖に対抗し得る「希望の兆し」であると同時に、女性はその身に生命を宿すことが「できる」、または「できてしまう」、ということさえもが、悲劇の連鎖に同調する契機となってしまう様を、残酷に描いていると言えます。 ![]() だから、中盤でナワルが"必殺!女アサシン"と化す報復劇に、どこか唐突感が拭えないは、それが「女であることの論理(生命の持続)」を逸脱して、消耗的と言える「男の論理」へと向かってしまうからでしょう。 血塗りの戦闘を「男の論理」とか言ったり、女性の生殖機能を「希望の兆し」や「悲劇の装置」のごとく語るのは、「性」に対する偏った見方丸出しではあるのだけど、しかし、この映画は確実にそういう部分にスポットを当てています。実際、銃を手に「男の論理」に立ったヒロインには、強烈なリバウンドとして、後半に向けて女性ゆえの過酷な悲劇が用意されることになります。彼女には、即刻頭を撃ち抜かれるような決着が用意されることはないわけです。 -- 「母性愛が示しているのは、どの世代も、次に継ぐ世代に身をのりだしているということである。生物はともかくひとつの通路であり、生命の本質は生命を伝達する運動のうちにあるということを、母性愛は垣間見せてくれる。」 ベルクソンが「創造的進化」において、全生命と全世界の、その運動の奔流を大きく捉えるにあたって、ついついうかつにも「母性愛」というキーワードを使ってしまうように、やはり女性であることの意味において、映画はナワルの肯定と赦しへと向かうことになります。それ自体は理解できるのだけど、私の想像力はここで、どうしても本稿の最初に触れたところに戻ることになります。 女性であることにおいて「希望」と「悲劇」を残酷に往復するナワルの決断に、多くの賛辞を聞くことができるけれど、映画が意図的に踏み込もうとしない子供たちへの波及の形状について考えるとき、やはり真実の価値をめぐって途方に暮れるてしまう。 長兄と双子の弟は男だ。ゆえに、彼らにはきっと何も成すすべがないだろう。ナワルの墓の前に佇む長兄のラスト・ショットは、あえてカメラが寄らないことで多くを語ろうとしているのかもしれないけれど、その中途半端なカットの時間から伝わるのは、男であるがゆえに真実に対して何も成すすべもない、ということだけだ。 しかし、双子の姉(メリッサ・デゾルモー=プーラン)は女だ。1+1=2の意味を理解したときに咄嗟に嗚咽をもらした彼女だけが、3人の中でただ一人、いずれ肯定に行きつくであろうことは、なんとなく想像できるのでした。 ![]() 監督のドゥニ・ヴィルヌーヴは、1967年生まれのカナダの映画監督。まずはその若さに驚きます。ユニークな映像スタイルと話術で高い評価を得ているようですが、私はこれまでノーフォローで本作で初めて知ったこともあって、そのあたりはなんとも言えないのですが、こと『灼熱の魂』に関して言うと、スタイルも話術も特別ユニークなものには感じられず、基本的には親切・丁寧で、こちらの無駄な警戒を誘うこともありません。特にバスト・ショット以上クローズアップ未満でサクサクと差し込まれる力強い画や、章立てによるミステリとしての全体の引っ張り方など、エンターテイメント性に長けていると感じました。劇中のカオスを象徴するレディオヘッド「You And Whose Army」もそう。 ですので、異教徒間の民族紛争を舞台にしながらも、テオ・アンゲロプロスのように歴史や政治思想の中に人物を配置するのではなく、それらは映画の後景に留まります。観ていて逆に「人物をもっと現実の中に放り出せ」と思ってしまうくらい。だから、ここで描かれる女性の呪いと祝福は、遠回しに"織り成される"のではなく、あくまで直接的に語ろうとされており、それを見誤ることはないだろうと思う。 ![]() いずれにしろ、後味の悪い映画でした。 映画が用意する真実は、大時代的で、作劇的で、観客をシラケさせ兼ねない非常に際どいものだと思うけど、そのキワどさのせいでもなく、また真実の残酷さのせいでもなく、上で書いたとおり、真実の価値をめぐる思考が自分の中でどこにも行き着かないせい。「最近泣いてないので泣きたい」、という幾分安直な思いで劇場に足を運んだ自分にも問題があるのだと思うけれど。
すでに1月も終わろうとしているこの時期にして本年初投稿。明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願いいたします。
たぶんアタラント号の短い歴史の中でも"月ゼロ"はなかったはずのことなので、慌てて何か綴っておこうと考えて、手っ取り早いベスト選出企画、「2011年に日本公開された鑑賞済映画ベスト10」ということで、こういうの、他人の記事読むの大好きなのだけど自分でやるのはもの凄く苦手で、それでも自分なりの時点の思索を総括してタンキングしておくのは、その後の価値観の変化に対しても有意義であると前向きに考えてみた。 圧倒的に鑑賞本数が少なく、昨年公開された映画では、劇場・ビデオフォロー合わせてたぶん50本程度だと思うし、マリックやスピルバーグやカーペンターさえフォローできていないという状況、また、都心ではすでに昨年の話題作でありながら、単館系のフィルム巡回タイプの作品の公開時期のギャップによる年度ズレ込みでここ(大阪)で対象にならないものが少なくないこと、等を前提にして、また、劇場体験とビデオ鑑賞について差別がある程度起こり得るかもしれないことは自分に対して留意しておく。 鑑賞時に本ブログでコメントを残せていないものは、ここでごく簡単ながら短評を記して、すでに何らかの形でレビューできているものはブログ内記事をリンクで貼り付けながら駆け足で。なお、基本的に順不同だけど、潜在的には付番にある程度の序列は認められる気がします。 01.『イップマン 序章』 葉問 (香港:ウィルソン・イップ監督) ⇒「イップ・マンがおもしろかったことに託けてカンフー映画四方山話」 ![]() 02.『ソーシャル・ネットワーク』 THE SOCIAL NETWORK (アメリカ:デヴィッド・フィンチャー監督) ![]() 03.『ブラック・スワン』 BLACK SWAN (アメリカ:ダーレン・アロノフスキー監督) ⇒「「きれいにひと皮むけたアロノフスキーが素晴らしい - 『ブラック・スワン』」 ![]() 04.『イリュージョニスト』 L'ILLUSIONNISTE (イギリス/フランス:シルヴァン・ショメ監督) 05.『ファンタスティック Mr.FOX』 FANTASTIC MR. FOX (アメリカ/イギリス:ウェス・アンダーソン監督) 海外のアニメに限っての2本選出というのは残念だけど、そんな状況であるのは事実。「トイ・ストーリー」シリーズが消費社会というものを批判しないのと同じように、シルヴァン・ショメはここで、「移ろいゆく価値」というものを否定していない。だから心が温まるし、ウェス・アンダーソンの作品は、キツネたちへの安易な感情移入を許しておらず、信用がおける。 ![]() ![]() 06.『冷たい熱帯魚』 (日本:園子温監督) ⇒「能動的イマジネーションを遮断する『冷たい熱帯魚』のインパクト」 ![]() 07.『デビル』 DEVIL (アメリカ:ジョン・エリック・ドゥードル監督) ⇒「ナイト・シャマランの話をしよう。 - ジョン・エリック・ドゥードル監督 『デビル』 」 ![]() 08.『ブンミおじさんの森』 UNCLE BOONMEE WHO CAN RECALL HIS PAST LIVES (イギリス/タイ/フランス/ドイツ/スペイン:アピチャッポン・ウィーラセタクン監督) ⇒「シーザーと猿の精霊とセレブリティ。」 ![]() 09.『アンストッパブル』 UNSTOPPABLE (アメリカ:トニー・スコット監督) ⇒「トニー・スコット監督 『アンストッパブル』 --- あえて不満点を中心に」 ![]() 10.『東京公園』 (日本:青山真治監督) 遂にタイトルに"東京"を冠した青山監督の新作は、役者のレイアウトの過激さに対して、風景そのものは当然のように匿名に埋もれてる。物語の中で起こっていることや登場人物たちの関係性は決して軽いものではないし、"真っすぐ見つめる"ことも映画にとっては軽い主題ではないし、幾多のオマージュ、アンチ、超克、といった姿勢も軽く頷いて受け流せるボリュームや質ではないし、そういった軽くない「ゴツゴツしたいびつさ」があって、一見して感じられる「鮮やかで軽やかなエレガンス」みたいなものが、その歪さを優しく包み込む、...ことが出来ない、...という映画で、それは昨年、進んで何も背負わないようなある意味無責任とも言える園監督の逆説的な軽さの、その反対側の極を成してる。ちなみにそんな歪さの中だからだろうか、初めて小西真奈美が良く思えた。 ![]() 以上の10本、公開本数の割合として当然のことかもしれないけれど、国籍で土俵を分けずに並べるとアメリカ映画が半数を占めることになりました。韓国、中国映画が1本も入らなかったのは我ながら意外でもあるのだけど、この傾向は次点を数点挙げてもほとんど変化はなさそうです。 <次点> ■『アンチクライスト』(ANTICHRIST ラース・フォン・トリアー監督)⇒「ANTICHRIS♀」 ![]() ⇒「プラス思考とそのコストを考える C.イーストウッド監督 『ヒア アフター』」 ![]() ![]() ![]() 最後に、個人的な想い入れから次の賞を特別に用意してみました。 <インパクタブル・アクター賞> マイケル・シャノン (『ロシアン・ルーレット』 ヘンリー役) 池内博之 (『イップマン 序章』 三浦役)、 ![]() 以上。
デンマークの映画監督カール Th.ドライヤーの作品では、それがメタファーであれ、魔女的な女性の存在に大きなスポットが当たります。中でもそれが最も直接的に描かれている『怒りの日』(Vredens Dag 1943)を久しぶりにビデオで観直しました。
![]() 映画の中で神に仕える男たち、魔女を断罪する彼らを突き動かすのは負の感情です。ドライヤーはそうした欺瞞や不寛容を、ナチへの抗議姿勢と重ねながら告発していはいるけれど、しかし一方で、その告発を通じて、魔女として断罪される女性たちを擁護しているかと言えば、必ずしもそうではありません。 例えば『怒りの日』の前半で展開する、魔女とされる老婆の火刑に至る迫害を見ると、老婆の鬼気迫る表情や響き渡る悲鳴などは、擁護されるべき弱者のそれを超えたものとして、観るものを戦慄させる迫力を持っています。また、本作のヒロインである牧師の若き後妻についても、彼女の潜在的な魔性に対して積極的にライトを当てようとしていることがよく分かります。...ここでライトというのは文字どおりで、硬い画面に下からのライティングやキャッチライトで深い陰影を持って浮かび上がるヒロインの表情は、貞淑な妻という社会的役割をその顔に担いつつ、それが軋みながら本性の外殻に留まろうとする様をスリリングに映し出しているわけです。 神秘主義とリアリスムが、整然と同居しているかのようなドライヤーの作品が感じさせるのは、敬虔なクリスチャンとしての眼差しと、またそうした自分に対して容赦なく向けられている自己分析的な批評眼の存在です。 例えばこれがフェデリコ・フェリーニなら、カトリックの権威主義的な欺瞞や抑圧(特に性的な)を、まずは持ち前の機知によってアイロニカルに捌きながら、一方で最後には「魂の救済による解決」みたいなものを信じてしまっているようなところがあって、つまり、否定には自覚的、でも肯定には無自覚に潜在的なバックボーンが作用してしまっているような、ある種の天然を見る想いがするのですが、ドライヤーには、誰もが抱えているはずのそうした宗教的・思想的・政治的な矛盾を、「まいいか」で許してしまってはいけないかのようなピンと張った厳格さが漲っていて、それが時に感動を伴う驚嘆を起こさせたり、また時にはこちらに極度の緊張を強いたり、その厳しさが面倒くさいものに感じられたりするのでした。 そのような厳格さと対峙したとき、同じくデンマーク出身の映画監督であり、ドライヤーへの敬愛を隠さないラース・フォン・トリアーが感じさせるのは、自己分析が破綻しているような、宗教・信仰をめぐる混乱した立ち位置です。 初期の「ヨーロッパ三部作」から「黄金の心三部作」くらいまでは、久々に映画の時点更新者が北欧から出現したかのような興奮を味あわせてくれたラース・フォン・トリアーでしたが、すでに「アメリカ三部作」(の前2作)から現在に至るまでは、単なる"お騒がせ"と紙一重の存在となりつつある、というのが個人的にも一般的にも多くの認識でしょう。近年では自身が精神を病みながら、そのセラピーの一環として書かれたとされる現時点の日本公開としての最新作『アンチクライスト』では、血みどろのキツネに「カオスが支配する」と語らせています。 少し遠回りしながらですが、その『アンチクライスト』(ANTICHRIST 2009)の話。 私自身は今もなおラース・ファンであることを自称しながらも、正直、『ドッグヴィル』を最後に、その後の作品には全く手つかずで、久々に『アンチクライスト』を重い腰をあげてビデオで鑑賞したしだいです。(気になるシーンだけは後ほどボカシ抜きでWebのストリーミングで鑑賞し直しました) ![]() これまでも数々の作品で、劇中のヒロインとそれを演じる主演女優たちを不条理なパッションで射抜いてきた監督は、それでもドライヤー&ルネ・ファルコネッティ(『裁かるゝジャンヌ』)の深度にはまだ達していない...と考えてか、引き続き手加減なく、今回はシャルロット・ゲンズブールに刃を向けながら、意味深なタイトルのスペルに「♀」というシンボルまで当てています。(これは監督の意向とは思えませんが) 「♀」。 聖書の教理が、女性劣性の考えにつながる可能性をどの程度許してしまっているのか、私は詳しく通じていないけれど、アダムとエバの差異が根源にある以上、残り続けざるを得ない問題であることは理解できます。 おそらくキリストが直接関係する以上に、当時のユダヤ社会の通念によるものが大きいのでしょうが、性的な不品行を象徴してわざわざ「罪深い女」という語が一般的な「罪人」から切り出して語られ、黙示録のバビロンは大淫婦として女性の姿で表わされ、害悪をもたらすものを象徴してしまう女性は十二使途に含まれず、キリストも神も、男。 そうした価値の中で女性を裁く異端審問のバリエーションは、最初に触れたドライヤーほど直接的でなくとも、ラース・フォン・トリアーの作品の中でもしつこいほど繰り返されています。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(Dancer In The Dark 2000)の刑事裁判シーン、『奇跡の海』(Breaking The Waves 1996)でベスが教会から追放されるシーン、『ドッグヴィル』(DOGVILLE 2003)の村民集会などなど、そこで彼女たちが受ける裁きの不条理さは、何かが本末転倒しています。 ![]() 例えば、先に触れた『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で極刑の裁きを受けるヒロイン(ビョーク)は、ルネ・ファルコネッティからエミリ・ワトソンに至る他のヒロイン同様、理にかなわない受難によって刺し貫かれているわけですが、しかし同時に、その受難なくして成就もまた有りえないという不条理がこの物語をドライヴさせているのも事実です。...つまり、職を解雇され、心ない隣人の窃盗被害に合い、あげくに自身が罪を負い、極刑に果てるからこそ、息子の視覚障害を回避できたという、成就=受難の対価としての成り立ちです。 同じことは、『奇跡の海』のヒロイン(エミリ・ワトソン)にも言えます。 つまり、ヒロインであるベスは、赦しを通じて神の恩寵を得るために、自ら進んで罪を作り、進んで身を汚すわけです。率先して罪の深さに身を沈めることで、神の救済を得ようとする。ここにも罪と救済の成り行きが逆転した本末転倒があります。(ちなみに、園子温監督の『愛のむきだし』(2008)の前半で描かれていたのもこれに似た事態でしたね) ![]() 「彼女が職を失うことなく、彼女の失明症状がこれほど早く進むこともなく、隣人の悪意に触れることもなかったならば、仮に計画どおり息子の手術代を貯めることができていたとしても、"障害が遺伝することを知りながら子供を産んだ罪"は十分償われたとは言えず、この成就は無かったのだ。」...と、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』という映画は言っているかのよう。それは苛烈な説教です。 そこに窺えるのは罪と救済についての倒錯であり、クリスチャニズムの負の一側面を露骨に炙り出していると言えます。このような不条理な事態を受け止めることで成就するラース・フォン・トリアーのヒロインたちは、解決を来世に持ち越すことなく、その犠牲をもって実際に奇跡を起こしてしまうわけです。これらを俯瞰して、ラース・フォン・トリアーとキリスト教との位置関係を測るのは困難なことに思えます。 信仰に立脚して、なおかつ(というか故に、)批評的であり得たようなドライヤーの厳格さと比べて「混乱している」と書いたのは、倒錯の果てがアンチなのか大いなる肯定なのか、文字どおり何が言いたいのか図り難いということであり、けれども、女性たちを刺し貫く受難の深度だけはドライヤー級という...それって単に巨大で不合理な暴力ではないか、という感させてしまう瞬間があるからです。 このあたり、監督に対するインタビューやバイオグラフィなどを読み込めばある程度理解可能なことかもしれませんが、作品そのものの雄弁さに対して得られるものは小さいだろうと考え、私はそういう読み込みを放棄しています。 過激な描写が話題を呼んだ『アンチクライスト』は、制作発表段階にウィレム・デフォー&シャルロット・ゲンズブールという組み合わせを聞いただけでゲテモノ臭さがプンプンしたのですが、これは単に、私のイメージの中でシャルロット・ゲンズブールの像が『なまいきシャルロット』(1985)で止まっており(その後の彼女も何度かスクリーンで見てるにも関わらず)、そんな彼女のイメージがウィレム・デフォーと容赦ない性描写で重なることを想像してしまっただけだったりします...。 ![]() 『アンチクライスト』には、当初よりリリースされてきたホラー映画、スリラー映画といった語られ方に無理なくフィットしているという新鮮な驚きがあります。また、過激な性描写執着への回帰や、「ドグマ95」以前のビジュアル・テイストへの部分的回帰があります。またなぜかアンドレイ・タルコフスキーに捧げられてしまって、そう言われてみればラスト・ショットは『ノスタルジア』(1983)のラスト・ショットに重ならないでもない...かもしれない...、などといったあまり意味があるとは思えないことをツラツラ考えながら、野生動物の姿で現れる「三貧者」や降り注ぐドングリの雨など、それらがどのようなメタファーであるのか、といったことをイマジネーションを駆使して読み込むことを、まずは放棄して論を進めることを自分に許しておきたいと思います。 以下やはり、上に見てきたこれまでの作品、これまでのヒロインたちとの関係に足場を置いて考えることが有意義に思える。 アンチであるのか、歪つな信仰であるのか、上で見てきたように不条理なパッションの果てに崇高に達するかつてのヒロインたちは、決められたように小さくか細い肉体を持ち、その体に「キリスト」と「罪の女」の二役を同時に課せられることによって倒錯している、と言えそうですが、そんな彼女たちと比べたとき、今回のヒロインにはもっと普通に理解可能な分かりやすさが漂っています。 それは、舞台となるエデンの楽園で、(治癒されるどころかむしろ)原初的な「罪の女」として立ち現れた姿であり、それは、これまでのような事態の本末転倒ではなく、ストレートにキリストの救済を必要とする、伝統的とも言える真っ当な「罪の女」として描かれているからだと思います。 彼女が自らの罪深さを理解した正統的な「罪の女」であるのは、唯一快楽を得るためにしか機能し得ない体の部位を自ら切除したり(ボカシなしで見ましたが、キツい...)、自ら救いを求めるセリフを直接何度か口にしていることからも明らかです。そして、ラース・フォン・トリアーの映画においておそらく初めて、ヒロインに「キリスト」と「罪の女」の二役が詰め込まれることなく、「罪の女」から独立した第3者として「救済する者」が登場することになります。やはり、かつての倒錯した事態と比べると、ここで成り立っている関係は至ってオーセンティックなものだと言えます。 女を救済する役割を負った男は、ヒロインの夫であるセラピスト、見た目にも特殊メイクなしで悪魔にもキリストにも見えてしまう強烈な個性、ウィレム・デフォーですね。映画を観た人ならご存知のとおり、この救済者が「罪の女」を救済できない様が、『アンチクライスト』を構成しています。 ![]() 「罪の女」を救済しようとする彼の奮闘は結果的に、上で触れた過去の作品で見られた異端審問を通じた裁きのごとく、恐れのピラミッドや子供の検死報告書などを通じて、「罪の女」の罪の詰問へと収斂するしかなく、そしてクライマックスでは、背負わなければなければならないはずの打ち込まれた杭の痛みを、「イタタ...」ともがいて引き抜いてしまい、事態からの逃走を謀り、最後には男が女に勝る"力"の行使(絞殺)によって決着をつけることになります。 ヒロインそのものにはかつてない歴史的正統性を与えながら、一方で上に要約したように救済努力が空回りしながら、救えないどころかむしろドンドン事態の悪化を招いていく、『アンチクライスト』には、ホラーテイスト以上に、どこか七転八倒のドタバタ劇として描かれているニュアンスがあります。 女を救えずに受難から騒動しく逃走する男。一方彼が対峙する妻であるヒロインは、エデンの地で歴史の記憶につながり、エバにまで遡る原初的な深さから全ての「罪の女」(とされてきたもの)を象徴しています。だから、巨木の根元でヒロインが救済者とつながるその背景に、無数の白い腕が垂れ下がるホラー映画ばりのシーンは、旧約聖書から現在に至るまで、救済など成されたためしがない、そんな「罪の女」たちの呪い節であり嘲笑であるでしょう。また、ラストで供奉の列を成すようにエデンを目指す女性たちにも同じことが言えるかもしれません。あれらの腕、あれらの女性たちの中には、セラピストである男が救えたつもりになっているかつての患者たちや、最初に触れた『怒りの日』のヒロインも含まれているのだろう。... ![]() 彼がキリストになれない卑小なセラピストであるのか、もしくは、キリストそのものが所詮は無力なセラピストみたいなものだと言いたいのか、ある程度後者の隠喩を含んでいる以上、血染めの射精までさせてしまうのは確かに神をも畏れぬ表現かもしれません。...が、それでもつくづく感じるのは、上に見てきたドタバタのうちに救済できないという物語を、直接的に過激な映像表現を武器にして描きながら、そのタイトルに直接"アンチ"を冠してしまというのは、どこかあまりにも稚く、直接的でやんちゃな出方ではないか、ということだったりします。(その先にはヒトラーへの共感発言騒動もあります) 『ドッグヴィル』には、首枷に鉄の車輪を引き摺るところまで至りながら、非寛容を受け止める受難の無意味性と、非寛容に対して爆発させる暴力の有効性を学習するヒロイン(ニコール・キッドマン)が登場します。あのあたりから、ストレートに"アンチ"が貼り付けられたように思うのですが、なにせ今回はタイトルがタイトルです。『アンチクライスト』に「反賞」を贈ってしまったキリスト教系の審査団には、"そのまんまかいっ!"と、思わずツッコミを入れてしまいそうになります。 「黄金の心三部作」(ここでは『イディオッツ』のアナキズムは横に置きます)が抱えていた倒錯には、それ自体で"アンチ"とも何とも分からないものが指向されていたことを思うと、"アンチ"のプラカードを掲げた現在のラース・フォン・トリアーが、単純に以前よりアグレッシヴであるとは思いません。ただ、何やら武器を手にして不審な行動を見せ始めたのは確かで、何を仕出かすか分からない感は強まっていると思います。 単なる"お騒がせ"に終始するのか、芸術に悲鳴を上げさせるクリエイターとして一層新たな地平を開くのか、日本国内の公開までのタイムラグのせいで否応も無くそんな想像を逞しくさせられながら、どうも"お騒がせ"の度合いが強まっていることをファンとして懸念しています。 Tags:#ラース・フォン・トリアー
![]() エドゥアール・マネ(Édouard Manet 1832.1.23 - 1883.4.30)が描く女性たちの顔を、あまり美しいとは思いません。......美しいとは思わないけれど、でもその表情がどこか気になって仕方がない...のは、時に「え、そこ?」と周囲を驚かせてしまう私自身の女性の好みとはたぶん直接関係なくって、少なくともマネの描く女性の表情のニュアンスが、その心情の一切を語ってくれない感じがどうしてもあって、それが気になっているのかもしれません。 先日、ワシントンナショナルギャラリー展で実物を初めて観た全身ピンク色で「プラム酒」飲んでる彼女(上画像)も、それが一人飲みである以上実際に彼女が孤独である可能性は高いけれど、その表情からは一般に言われるような「都会の孤独」をことさら感じることもなかった。 私の中では、多くの場合マネの描く女性の表情に映し出されるものから、デカダンもエロティックも、ラブリーもヘルシーも、ハッピーもミゼラブルも、ほとんど感じることがありません。マネの名のもとにヘルシーでキュートな女性を観た記憶もあるけれど、確かそれはパステル画だったはずで、それはマネを語る上では「こういうのもある」程度のものだと思う。 そんな表情だからと言って、しかしマネの女性たちを能面美女の系譜で語るわけにもいきません。その表情には能面美女などというミステリアスな情報も乗っかっていない。 また、マネのモダニズム的達成の一つとして「スナップ写真的な効果」というのがよく言われますが、仮にそうした意味での「ふとした一瞬の自然な表情」というのがあったとしても、そこで描かれている彼女たちの顔に対しては説明不足に思えます。そもそもスナップが捉える表情のほうが主題絵画や肖像画よりも情報量が多いことが普通だと思うし。 今回のワシントンナショナルギャラリー展からは離れますが、さすがに「オランピア」として描かれたムーラン(下画像)はスキャンダラスだったりエロティックだったりミステリアスだったりするではないか...、ということは普通に語られるわけですが、私は実物を観たことがないのでセザンヌを驚嘆させたあの薄塗りの肌について云々言えないし、エロティックとかキュートとか、そんな主観的な印象については空回りの議論にしかならないことを承知のうえで、それでもそういった印象を、描かれた彼女の表情そのものがどれくらい醸し出しているかというと、やはり微妙なところだと思います。 ![]() こうした表情を以前なら、主に男性の鑑賞者の単純さを見透かすマネ的な仕掛け=能動の視線(「(あなたが何を考えているか、)分かるわよ。」)として感じるところもありましたが、最近はむしろ、「ただ黙して視線を引き受ける」感じが強いです。まぁ、相手を見透かすのも黙して相手を引き受けるのも、どちらも相手の視線の側を卑小なものにする、という意味では同種の事態だと思いますが。 また、「すみれのブーケをつけたベルト・モリゾ」のように、露骨に左右の表情が異なるオランピアのその顔立ちは、主に男性の鑑賞者に対して開かれることがない「秘めた想い」のようなものを印象的に醸している...のかもしれないけれど、むしろより単純に、昨今のアンチエイジングや美容・整形の分野が面相をシンメトリーに近づけようとするのを諌めるのような個の特性が、男性が時にフェティッシュに求めてしまいがちな「個の不完全性」のちょっとしたチャームとして、フックのようにひっかかるということは言えそうです。 しかしいずれにしても、心情を映す鏡としての表情の情報量は、やはりほとんどないと感じます。そして、その情報量の少なさと、上に書いた「黙して引き受ける感じ」というのは、最近流行り(?)のリアルドールにもどこか通じるものがあります。それは、チョーカー、ブレスレット、サンダルといった、「全裸+ワンアクセント」(全裸にエプロンのようなのユートピア)の訴求力や、先に触れたちょっとした不完全性のチャームと合わせて、エロティックと言えばエロティック...であるのかもしれません。 という風に、あれこれ想いを巡らすことができる彼女たちの顔の上で起こっていること。 マネという画家は、①クールベから引き継いだモダニズムにおける絵画主題の問題と、②印象派を準備する視覚的表現手法の問題、この二つの問題系を同時に負っているがため、彼女たちの顔の上でこの二つがぶつかって、ゴチャ混ぜにになって、結果、決して美しく整うことがなく、心情や本性を表現することに訥弁だが、でもやはり見過ごすことができない表情になってしまってる、ということを何かもっともらしく言えそうな気がします。 前身(=主題におけるモダニズム)を引き継ぐ役割と、来るべきもの(=平面的かつ視覚的な表現)を準備する役割の中間地点。西洋絵画史において無視できない事件のいずれにも確信犯としてHUBのように関与してしまっているマネは、いくつかのモダニズムの支流が流れ込む合流点であると同時に、幾本にも広がる新しい表現手法群の起点でもあります。 ![]() そんなマネの、前身(=主題におけるモダニズム)を引き継ぐ役割について言えば、例えば「ビーナスから生身の女性へ」というのは、アダルトビデオにおける女優ものから素人ものへ、ドラマ仕立てから企画ものへ...といった、ある種のライヴ感を目指したかつてのAVトレンド大きな変化を、19世紀の美術史において完成に近いところまで牽引したと言えると思います。 また一方で、来るべきもの(=視覚的な表現)を準備する役割について言えば、以前モネについて書いたように(印象主義-強硬派 モネと対話してみる)、単なる描画手法に留まらない原理主義的印象主義というものがあるとして、そこで真に描かれる女性の顔というのはおそらく、分析的なキュビズムに負けず劣らず過激な妖怪に成り得ることを考えるなら、それを準備するマネの荒い筆触や平面的な描写というのは、旧アニメ版の妖怪人間ベムが3段階オーバーラップによって変身する際の、ちょうど2段階目に相当するくらいの"過激さ"の過渡期にあって、それでも自身を印象派に位置付けることを拒み続けたことからも分かるように、完全な妖怪(オーバーラップの3段階目)へと変身してしまうことに抗する力が確実に作用しています。それは、淵まで歩を進めながらも、その先の眼下に何やらデモーニッシュなものを察知して踏みとどまる、風景画に本領があればそのまま突っ走ることもできたのでしょうが、マネは人間が、人間の顔が...というか女性の顔が好きだからこそ、発揮できた力なのでしょう。 ...と、ここまで書いてきたあれこれを、まとめて引き受ける彼女たちの顔は、一見した静けさと矛盾するような混乱を併せ持っていて、だから美しくはないけれど気になって仕方がないのかもしれません。 上で印象派絵画を妖怪に喩えたのは幾分唐突だったかもしれませんが、古典絵画の後に触れる印象派絵画が、ベートーヴェンの後にドビュッシーを聴くような、なんとも視界が洗い流されるような(新しい)感触として語られがちなのには時に違和感があって、本来ならもっと抽象によった表現主義的な受容のされ方を許すでしょう。それを最も理解していたのはやはりモネだと思います。 モネが(稀に)描く女性は、今回展示されていたルノワールの描く女性たちの愛らしさからは遠いところにあって、今回の展示品の主力のひとつである有名な「日傘を差す女(モネ夫人)」(下画像)では、彼女の顔とそれを覆うヴェールなど見ると、それは本来ドガやルノワールが好んだ踊り子の衣装に代表されるトランスルーセント(半透明)な魅力全開の素材でありながら、それが特権的ではないどころかむしろ、純粋でありようがない顔というものを極力描かなくて済ませるための仕掛けでしかないような、そんな佇まいだったりします。 ![]() マネや印象派絵画を必要以上にオドロオドロしく語ってもしかたないので、最後に少し気を取り直して...、ワシントンナショナルギャラリー展では、カイユボットやカサットやモリゾの素敵な作品にも出会えます。メアリー・カサットって、ベルト・モリゾより創意が感じられるにも関わらずどこか優等生的で、結果としてモリゾよりも無個性だと思ってたけれど、有名な「青いひじ掛け椅子の少女」や「麦わら帽子の子ども」を実物で観てみと、やっぱり嫌いになりようがない好印象の作品で、優等生的であることをわざわざネガティヴに言う必要はないと感じました。 そしてそんな印象派をサラサラっと鑑賞して行った順路の先に突然セザンヌが登場すると、なんというか、ゲンコツで殴られるようなインパクトがあります。このゲンコツは「ポスト印象派」という共通の様式でもなんでもない呼ばれ方をしてますが、確かに「後期印象派」よりはマシだけど、ポストという語が単純に"次"とか"後"ではなく、単純なアンチでもシンパシーでもなく、批判的超克であるということは、いまさらですがあらためて理解しておかないといけません。そういうゲンコツですね。
『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』(Rise Of The Planet Of The Apes ルパート・ワイヤット監督 2011)、『ブンミおじさんの森』(Uncle Boonmee Who Can Recall His Past Lives アピチャッポン・ウィーラセタクン監督 2010)、『SOMEWHERE』(SOMEWHERE ソフィア・コッポラ監督 2010)を立て続けに鑑賞した週末の話です。
Uncle Boonmee Who Can Recall His Past Lives ![]() 主にSF映画の主題が「前日譚」という分野に題材を求めていることについて、そこに形振り構わない資本主義的乱獲やアイディアの枯渇といったものを見てしまうよりも、"興味深い誕生秘話"といったノリで楽しめば良いということを、映画としての出来が良い『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』も『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』も、そしてまだ観ぬ『the Thing (2011)(遊星からの物体X)』もおそらく、十分に教えてくれます。 それにしても、『猿の惑星』シリーズ(1968-)というのは不思議なもので、私たち観客の感情移入の先が、回によって猿だったり人間だったりにフラフラと振れてしまうことを通じて、基本的には安易にマイノリティに寄って立ってしまうことや、体制側の醜悪さや反体制側の蜂起が喚起するカタルシスといったものが、あまりにも簡便で無批判なものに思えてしまうことについて、つくづく考えさせられたりします。もちろんそれはどんな映画でも、またフィクションでなくても言えることではありますが。... さて、『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』の主人公であるシーザーという名のマイノリティの象徴は、今回シリーズ初となるパフォーマンス・キャプチャーを駆使したVFXによって描かれていることで話題を呼んでいます。その驚きのリアルさは、そのクオリティの高さをそのままこの映画の価値として評価してしまって良いくらいのインパクトを持っており、そこでは、ジョン・リスゴーを除く人間たちの陰影の無い平坦さが、むしろ演出意図でさえあるかもしれないと思わせたり、逆にジョン・リスゴーのクローズアップの味わいが、もしかしたらVFXであるのかもしれないという疑念を抱かせたりもします。(というのは言い過ぎですが) 有り得ない視点、有り得ない存在、有り得ないアクションを、語源としてのファンタジー("可視化")にしてしまうVFXは、すでに(特に)ハリウッドの映画制作の中心に居座っており、それをポストプロダクションと呼ぶことにはすでに大きな違和感があります。そもそもVFXの氾濫のみならず、撮影素材のデジタル化自体がポストプロダクションの意味を変容させてしまった感があって、フィルム編集というものが主に「継続する時間の問題」を扱っていたのに対し、正しく「継続する面の問題」にまで決定的に作業範囲が及んでいることを考えると、それはもう映画におけるプロダクションそのものでしょう。 そんな状況下でも、映画におけるリアリスムが時に大きな評価指標になり得るわけですが、それはあくまでケース・バイ・ケースであって、基本的には"ド迫力のVFX大好き"な私です。それでもしかし「VFXには見えない」と評される『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』のリアルなキャラクター造形を観ていると、一体何が画面に写っていているのか?...私は一体何を観ているのか?...、といった、シェクスピアの登場人物が内包しそうなシリアスな混乱が生じることがあります。 Rise Of The Planet Of The Apes ![]() 映像の支持媒体がテレビ画面やPCモニターやスマートフォンのディスプレイであってさえ、それを"映画"と呼んで良いような器の大きさを映画は持ち得ていて、そんな画面の中に何が写ろうとも映画の何かが脅かされるわけではないのだけど、それでもしかし、先日見た『スカイライン-征服-』のエイリアンや宇宙船であれば混乱もなく楽しめるはずのところが、今回は、猿たちのみならず他の被写体、例えばあのゴールデンゲートブリッジやあのアメリカ杉も、とにかくそれらがリアルになればなるほど、本物に近づけば近づほど、余計にそれが「でも本物ではない」という事実を唐突に突き付けてくる瞬間というのがあって、それが上述の混乱を喚起することになります。 画面の上にある様々な要素には、カメラのピントに還元できないいくつかの存在の水準があって、それが良い意味で陰影を生むこともあれば、どうしようもなくだらしない画にしてしまうこともあるでしょう。上に書いた混乱は、そんな諸水準とは親和性のない、画面に走る亀裂のようなもの。この亀裂は必ずしもVFXを要因にしないけれど、VFXがそのリアルさ故に亀裂を作ることは少なくありません。 『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』では、スピードがこの亀裂を埋める役割を結果的に担ってはいます。 例えば、多くの線形によって構成されたゴールデンゲートブリッジを決戦の場として、その高低と奥行をアクションのスピードの中に昇華させたクライマックスなどは、文学からは絶対に感受できない、あえて言えば音楽に近い興奮を視覚的に生んでいる、とでも言いたくなるほど見事です。それは混乱するスキを与えないほどの快楽。 それでもあえて言っておきたいのは、すでに「1Q82」で前置きしておいたとおり、そこに誰のどんな痕跡を読み取れば良いのかという疑問、というか、そもそもその痕跡への興味さえもが喚起されないという、もしかしたら大した問題ではないかもしれない事実があります。 ...と、そう思いながら見つめる『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』のエンドクレジットが教えてくれるのは、あくまでもそこで行われている驚くほど整備されているであろう分業体制だったりします。一人の天才によって映画が完成しているわけではないのは、程度の差こそあれ映画誕生の当初からそうではあるけれど、しかしこれほど映画製作がマニュファクチャリングに接近して、なおかつそのマニュファクチャリング的成果が、マニュファクチャリング的産物に高いクリティを与えて完成しているのを見ると、痕跡の希薄化を指して、それを夢や祈りの希薄化として嘆く必要はないかもしれない、そして、結局はそこにひとつの大きな価値と、エステティックの一側面を認めることができる、という風に思うのでした。 上で書いてきたことの全く反対側から、それでも「私は今画面上に何を観ているのか?」という同種の問題にぶつかることも有り得るのが映画のおもしろいところです。ここで言う反対側は、同じく今年日本公開された、2010年のカンヌ国際映画祭とヴェネチア国際映画、それぞれの最高賞を受賞した2タイトル『ブンミおじさんの森』と『SOMEWHERE』です。いずれも『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』の翌日に立て続けにビデオで鑑賞したために多少混乱させられました。 Uncle Boonmee Who Can Recall His Past Lives ![]() 『ブンミおじさんの森』も『SOMEWHERE』も、分かりやすく言ってしまうと、「ストーリーらしいストーリーの無い映画」ということになるわけで、ここでの「私は今画面上に何を観ているのか?」という問題は、連続して追うべきストーリーの無さと、描かれているものの抽象度の高さという、そんな単純な理由によるところが大きい、とは言えるけど...、 おそらくもの凄くシンプルであろう思想に加えて、タイという国の経済発展の速度が生む齟齬や矛盾に対するどこかジャ・ジャンクー(中国)的な視座も絡んでおり、ここで描かれる超自然的なものや時空を超えたエピソードの交感は、実にややこしいものになっているのだけど、このややこしさは、たぶん「透明感溢れる瑞々しい映像に身をまかせればそれで良い」などというこちらの姿勢を求めていないはずだし、そもそもここでの映像は透明感に溢れてはおらず、それはそれ自体で極めて主張が強い。 ここで、『ブンミおじさんの森』の猿の精霊は、リアルなVFXへの置き換えが可能だが、『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』のシーザーは着ぐるみへの置き換えが不可能であり(それだけで作品の価値が転覆する)、故に、『ブンミおじさんの森』の映画作品としての強度(密度感)の方が、より高い次元にある....などと言いたいわけではありません。 ただ、『ブンミおじさんの森』が持つ価値には、どこを探しても前段で触れた隠すべき亀裂や、被写体の水準の気の利いた差異のようなものがないのは確かで、着ぐるみで鎮座する猿の精霊も、普通に女優さんがそこに居るだけの亡き妻の幽霊も、それらは他の登場人物や、森の深緑や、ブンミの家の家財具など、カメラに写るもの全てのものと同じ水準で、同じくらいの主張を持っていて、ここでは、記憶や時空間の差異にさえ、特別な深さを与えられていません。 だからこの映画をティム・バートンが言うように、「夢のようだ」と語るならば、どの瞬間も全てが同じくらい「夢のよう」だし、また、見た目の静けさに対して意外と情報量の多いオープニング、つまり、牛と人と森と精霊が登場するのを見るときも、それらが全部まとめて同じ水準にあることを教えてくれます。 ここでベラ・バラーシュの論を持ち出すと、「映画では、事物はほとんど(言葉を話す人と)同質になり、生気と意味を獲得する。事物は人間に劣らず喋るので、そのため事物はじつに多くのことを言う。これがどのような文学的能力も手のとどかぬところにある映画的雰囲気の謎なのである」、...ということになるわけですが、私もここまでは賛同できるものの、バラーシュの論には先があって、そういった事物の豊かな雄弁さもまた、人間と関係している限りにおいて意味を持ってくるという、結局は人間重視の結論に向かってしまうのは残念です。 上に書いてきた『ブンミおじさんの森』を例に書いてきたのは、そんな依存関係が成り立たない状態のことであって、それぞれの意味がダイナミックに画面に貼り付いている状態のことです。 カメラに写るもの全てに対して無配慮と言いたくなるほど等しく焦点を当て、全てが同水準で濃密に混ざり合う『ブンミおじさんの森』のニュンスというものが、仮に急速な経済発展が著しいタイが抱えている問題そのものを映し出しているとするなら、逆に、全てに等しくピントを「当てない」という時間の垂れ流しによって、逆の方向から全てが同水準の地平へと向かい、結果的に『ブンミおじさんの森』とニアミスを起こすかのような『SOMEWHERE』もまた、現在のアメリカ..というか先進国全体の虚無感のようなものを表現し得ている、と、大袈裟にもっともらしく言えるかもしれません。 主な舞台となるホテルのディテールと、主人公ジョニー(スティーヴン・ドーフ)の表情が、鑑賞後の私の記憶の中では、同じ水準で溶け合っているかのようです。 SOMEWHERE ![]() どこにもピントが合っていないニュアンスは、そのままソフィア・コッポラ好みの"行間"を読ませる作りにも貢献しているわけですが、読ませたい行間がやたらと目立ってしまう、つまり結果的にそれって行間じゃないじゃん..と思わせてしまう露骨さは、彼女のオリジナル・シナリオでこれまでも感じられたことです。ここで言う行間というのは、単純化して言ってしまうと「セレブリティの虚無、もしくは孤独」ということになりますが、そういったものを滲み出させるための、むやみに登場人物の心情に踏み込まないカメラや演出の距離感といったものは、一歩間違うと無責任な間延びにつながるわけで、そしておそらくここでは、残念ながら一歩間違えてしまっているのではないか...というのが個人的な感想です。 が、...しかし、そういった不満を相殺できそうなくらい魅力的なシーンが『SOMEWHERE』にはあって、それは言うまでもなく「救済の徴」=主人公の娘クレオ(エル・ファニング)が初めて登場するシーンです。 静かに画面に入ってくる彼女の右手。その手に持ったサインペンで、ジョニーのギプスに自分の名前とハートマークを落書きします。彼女の静かな心配りは、眠り惚けたジョニーを起こしてしまわないようにしているだけだろうけど、彼女自身が主人公にとっての「救済の徴」であること、つまり世界を変質させ得ることを自身が十分理解したうえで、全てが同じ水準で他に依存しない画面、そんな均等関係が成り立った静かな世界に揺らぎを与えてしまわぬよう、愛らしく配慮しているように見えるのでした。...ソフィア・コッポラって、引き続きやればできる人なのかもしれない、とも思う。 たまたま同じタイミングで鑑賞した上記3タイトルを、串刺しでまとめるような気の利いた締め方をしたかったのだけど、あまりに強引で無理があったので今回はこれで終わろうと思います。
先日レーシック手術を受けた知り合いからいろいろと話を聞きましたが、コンタクトレンズさえ怖くて装着できない私にとって、それは到底受け入れ難い話です。俗に言われる合併症の可能性云々以前に、そもそもレーザーが角膜を突き破って水晶体まで届いてしまうような事故が起こらないのだろうかという...おそらく絶対有りえないであろう事態を、素人考え逞しくイメージしてしまう。
![]() さて、ここしばらく眼鏡の新調を検討しており、雑誌見たり、あちこちのお店に出向いて手にとらせてもらったり、それなりに活発に動いておりました。 アイシーベルリン(ic! Berlin)のニューラインナップ物理学者シリーズ(?)に深く心を揺さぶられたり、大阪での取扱店舗がいまだに不明なナチュラル・イノヴェーションの新作NI-113を雑誌で見かけて、自分でも意外なことにセルメガネの購入を積極的に検討したり。 雑誌で見かけた、と書きましたが、数少ないコンシューマ向けのメガネ専門誌に「モード・オプティーク」という雑誌があって、これをたまに書店でパラパラと見ることがあります。その名のとおりいちおうファッション誌的な位置づけですので、書店のレイアウトでは男性ファッション誌のコーナーでシルバーアクセものの隣に置かれたりしているのですが、そこに立って雑誌を見つめる私というのは、傍目にもファッション・トレンドに対して敏感にアンテナを張った男性にはとても見えないのが我ながら困りものです。 というのもおそらく私は、ミリタリー・オタクの方がモデルガンのカタログ誌を見るのように、半ば偏執的なオーラを出してメガネ雑誌と対峙しているであろうことを自覚しています。 例えばモデルガンの愛好家が、「このコッキング式のボルトアクション・ライフルはきっとオレに似合うハズだ」...などと考えていないと思うのですが、同じように、それを身に付けた自分というのは完全に置いてけぼりのまま、ひたすらプロダクトそのものに対してモノマニアックな憧憬に突かれてページをめくってしまうのですね。平常時からほぼ顔の中心に乗せっぱなしの極めて社会性の強いアイテムであるにも関わらず。 とは言え実際の購入にあたっては、仕事で使えるもの使えないものといった最低限の社会性は意識せざるを得ないわけですが、少なくとも物色の際はそのような抑制は効きません。つまり、新調を決定して実際に購入するまでのこの時期は、とても幸福な時間なのです。 プロダクトとしての眼鏡について、私はその魅力を他人に雄弁に伝える言葉を持ちませんが、材質とフォルムが織りなすフレーム造形の妙に加えて、同時にそれが肌身離せない実用品であり、なおかつそれが光学器具であること、...において、深い愛情を語ることができそうです。このブログでは常々映画や絵画美術を通じて光学現象や装置への偏愛を謳ってきたわけで、眼鏡もそのモチーフのひとつとして位置付けられます。 ただ、眼鏡に関しては屈折作用別のレンズの仕組みに深く関心を持ったり、レンズ・ブランドに強い拘りをもったりしているわけではありません。そこまでいくと、それはそれで絶対おもしろい世界が待ち受けているのは確実で、自分の性格からすると底なし的にズブズブと耽溺してしまうのが目に見えています。だからあえてメガネのレンズには無関心のガードを固めてる感じ。私にとってそれは「一眼レフカメラにあえて興味の矛先を向かわせない努力」と似ています。 単に「コレ買ったよ!」的なブログ日記のお気軽さで本稿を書くつもりが、ずいぶん前置きが長くなってしまいました。...とにかく、本当はよ~く考えて、もっとちゃんとしたの(?)を買うつもりだったのですが、結果的に買ってしまったのはコイツ、テオ(theo) 「eye-witness MF (5s)」なのでした。 ![]() 専用ケースはお馴染みの"theo"ロゴではありません。コレクション・ネームの"eye-witness"がプリントされています。ちなみにケース内も"theo loves you"のメッセージはありませでした。 ![]() ガタガタメガネです。今回これを買うにあたって、上に"もっとちゃんとしたものを買うつもりだった..."と書いたように、正直最後まで悩んではいたのですが、以前にも書いたように、ずっとコイツが欲しかったという積年の想いがあって、これを買わなければ先に進めない感じがすごくあったのですね。 テオのコレクションの中でもひと際奇抜なアイウィットネスシリーズは、フレームのみならずレンズのサイズまで左右非対称。そもそも人の顔自体がシンメトリーなものではない、という理屈はともかく、ガタガタの壊れかけか、はたまた未完成か、ラフなデッサン画がそのまま飛び出したかのようなそのデザインからは、「完璧なものは時にツマラナイ」(デザイナー パトリック・フート)、つまり、完全なものに本当の美は宿らないという強いポリシーを感じることができます。 私はこのシリーズを手に取るたびに、特に虫食いの枯れ枝を組み合わせたような「MF」を手に取るたびに、コレをコノ形でココに存在たらしめている哲学と技術といったもの、つまり、プロダクト・デザインの意匠と、それを質量空間で実際に造形し得るプロダクション・テクニックといったものが、とても高い次元で融合しているように思えて惚れ惚れするのでした。もちろんそれは全ての優れたプロダクトがそうであるのだけど、例えばプレスやレーザーで型を抜くのではなく、ケミカル・エッチング(酸でステンレスを溶かしているらしいです)で造形しているなどという話を聞くと、それだけで冒険譚を聞くかのようにワクワクしてしまうのですね。 テオの魅力のひとつに、「極端に2次元的な造形」というコンセプトがあると思います。これは全てのコレクションに共通するわけではありませんが、やはりどこかで通低しているコンセプトのようで、例えば、先ごろ発表されたそれなりにボリューム感タップリなVintageシリーズでさえも、立体的なフォルムから距離を置いたベタっと平坦な印象を受けます。 人気のスリー・ディメンショナルなフォルムがいまのところ苦手な私は、テオの華奢とも言えるフラットな造りに魅了されているのですが、今回購入した「eye-witness MF」は、その華奢な味わいが全開な、奥行きを欠いた2Dモデルの極みにあります。ペラペラ。すでに長く使っている同じくテオの「mele」よりもずっと軽い。ステンレスの肉厚は手持ちのアイシー並みで、全体の軽さはそれ以上に軽い。ちょっと不安になるくらい軽い。軽けりゃいいというもんじゃないだろうと怒りたくなるくらい軽い。さすがに眼鏡市場のツーポイント、ZEROGRAには敵わないと思うけど。 私の記憶では、アイシーベルリンにも左右非対称のサングラスがあったと思いますが、ああいう意図的に珍奇なデフォルメだったのと比べると、テオのそれは見た目の遊び心とは裏腹に、シンメトリーの否定が絶妙な調和をもたらすというコンセプトに忠実な、生真面目さが感じられます。 実際、「eye-witness MF」よりずっと過激な、同シリーズの別モデルを試着してみても、それなりに人の顔に普通に馴染んでしまう不思議さを持っているのですね。 で、いっそもう少し突っ走ってしまおうかと、「eye-witness LD」なども試着させていただきました。これ、不規則な格子でレンズが支持されており、掛けてみると、マンガの血の気がひいたキャラ顔描写が演出できて、とても素敵だったりします。...買いませんでしたが。 ![]() さて、購入したのは大阪は茨木市のopt.eyelandです。私自身も、うちの奥さんもお世話になっています。欲しいアイテムの取扱いさえあれば、できることなら全部このお店で作っていただきたい。こちらの調製と仕上がりの心地よさを一度でも体験するとそう思わずにおれません。 オーナーさんの「コレ、いっときますか?」は、悩みながら店内いろいろ見させていただきながらも、それでも「この人は心の奥底ではすでにコレに決めてしまっている」、ということを見透かしていただいたうえでの、背中のひと押しだったろうと思います。きっと。 ![]() 恒例のロッジ・キャンプは奈良県の下北山。台風の影響で一度は延期しながら、すでにメインの川遊びにはかなりの根性を要する肌寒さの中で実施されたのはいいのだけど、報道されているとおり台風の爪痕は凄まじく、十津川よりは南東に位置する山間部に沿った169線でも、一部で土砂崩れによる通行止めがありました。 ![]() 上の写真は川を一本挟んだ向かい側の迂回路より、走行中の車中から確認できた通行止めの現場。山肌が崩れ落ちて数十メートルに渡って道路を埋め尽くし、川に雪崩れ込んでいます。これだけ見ても強烈で、果たしてキャンプなどと悠長なことをしていて良いのか...と思はいながら、しかしこっちも数ヶ月前から4家族18人合同参画で予定調製に苦心してきた大きなイベントですので、危機回避や自粛といった思惑に勝る勢いがあります。 池郷川で川遊び(寒い!)→きなりの湯で温泉三昧(温かい!)→下北山スポーツ公園キャンプ上でバーベキュー(美味しい!)、というすでに定番にして黄金のメニュー。下の写真は今回の宿(ロッジ)。 ![]() 今回のメインイベントはバーベキュー...ではなく、実はその後にありました。すでに一部で話題(?)の、屋外で炭火を使った完全手動バウムクーヘン作りですね。ホームセンターで調達された丸棒の木材(100円也)にアルミを巻いて、後はそこに生地を塗ってはくるくる焼き、塗ってはくるくる焼き、塗ってはくるくる焼き、塗ってはくるくる焼くこと、飽きずに90分。最初は興味津津で大盛り上がりで集まっていたガキたちも、30分もするとあちこちに散ってい行く中、後は大人の孤独な作業。ペタペタ、クルクル。熱くて孤独な作業ながら、これが思いのほか楽しい。 ![]() 焼き始めは、果たしてこんなものが私たちが知るところのあのバウムクーヘンのようなボリュームに仕上がるのか、という半信半疑の手回しでしたが、おもしろいものでしだいに厚みが出てくるとともに、やる気も出てきます。 写真の右にちょこっと見えている軍手の指先が私です。モンハンの肉焼きにはそれなりに自信のあった私も、部分的に火が強かったり弱かったりする炭火に苦戦しました。気を抜くとひどい焼きムラになります。果たして年輪は形作れているのか? ![]() で、一人一切れ18人分切り分けしてみると、初挑戦にしてはそれなりにイイ感じです。見た目は多少粗雑ですが、中はしっとり外はサクサク、...って、単に最初の方は焦げ目が付くのを待ち切れずに急ぎ足で層を重ねてしまっただけですが...。 心配していた焼き肉の臭みを吸収しているでもなく、...素朴な味わい。ドイツ人ユーハイムが日本で最初に焼き上げたバウムクーヘンはこんなだったに違いありません。...きっと。 本稿一番上(↑)に載せた写真は、これまでずっと関西に住みながら今年初めて訪れたユニバーサルスタジオ・ジャパンの1コマ。下(↓)の写真は岡山は蒜山高原にあるレストランカフェNadja。 ずいぶん寒くなりました。そのせいか、つい先日行きつけの中国気功整体でリフレッシュしたばかりなのに早くも慢性の肩凝りに悩まされています。 皆さんご自愛ください。 ![]()
1982年の話。 映画ファンはこの年をどのように振り返るでしょうか?
この年日本公開された映画を振り返って、ジェームズ・キャメロンが『殺人魚フライングキラー』で、角川春樹が『汚れた英雄』で、それぞれ劇場用長編映画の監督として微妙なデビューを飾ったことを遠い目で思い起こす人もいるかもしれませんし、別の方にとっては『E.T.』と『蒲田行進曲』の盛り上がりで記憶しているかもしれません。また『ブレードランナー』や『U・ボート』といったカルト的に根強い人気作のスロースタートによって記憶する人もいるでしょう。 ちなみに当時小6か中1かだったはずの私にとっては、『伝説巨神イデオン 接触篇/発動篇』とクリント・イーストウッド監督『ファイヤーフォックス』の年だとひとまず言えます。 ![]() ジョン・カーペンター監督の『遊星からの物体X』の続編が公開される。...続編というのは正確ではなく、前回舞台となったアメリカ基地の前段で壊滅していたノルウェー基地を舞台としており、事件発端の顛末が描かれているようです。 映画史上最も色気のない作品のひとつとしても知られる『遊星からの物体X』ですが、トレーラーで見る限り、今回は紅一点の存在(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)が、上に引用した画像のとおり確認できます。ストーリーの詳細は聞き及んでいませんが、彼女を含んだ全員が死亡というのは定石としてちょっと考えにくいので、壊滅したはずのあのノルウェー基地のどこかに、ひっそりと生存者が身を潜めていたのかもしれませんね。 ------ 1982年。 この年を真にエポックに象徴する映画的事件を考えるなら、『遊星からの物体X』(John Carpenter's The Thing 1982)と『狼男アメリカン』(An American Werewolf In London 1981)という2本の(SF)ホラー映画が立て続けに日本公開された年として記憶しておく必要がある...のではないか。 John Carpenter's The Thing 1982 ![]() 主にSF・ホラーといったジャンルにおける、"変身"というモチーフ。 ディゾルブ。 「映像A」がしだいに消えながらそこに「映像B」が重なりつつ、しだいに浮かび上がってくる見せ方、といった映画におけるオーヴァー・ラップの手段によって達成されてきた"変身"は、あくまでも「映像の切り替え手法」、と言えるカメラが回り終わってからの事後的な見せ方の技法に多くを頼ってきました。 これが1982年に日本公開された2本の映画によって別の次元が広がることになります。 それまでの単なるスクラッチビルドアップ・メイクアップだけではなく、役者の身体にラテックス等でデコレートされた部位が空気圧で動き、パーツとなるメカニカル・ダミーは油圧で動き、役者を包むボディスーツもワイヤーで複雑にうごめく。 そこでは、"変身"の過程のモーションが途切れることのない空間的な形象として、実在する物質を媒介としながら、カメラの眼前で動きがダイレクトに表現されることになりました。 An American Werewolf In London 1981 ![]() ここでの立役者はリック・ベイカーとロブ・ボッティン。 この手の映画ファンならご存知のとおり、当時ホラー映画を中心に全盛を極めた特殊メイクアップ・アーティストとして、二人は師弟関係にありました。 二人ともその分野においては高名で、それなりに格式のあるお仕事(リック・ベイカーの猿メイクは特に高名ですね)もこなしてはいますが、多くの人にとっては、いまだにリック・ベイカーと言えば「アメリカン」、ロブ・ボッティンと言えば「物体X」が、合言葉のように代表作として想起されることからも、やはり1982年をエポック・メイキングに捉えることは妥当だろうと思います。 ここでホラー映画ファンなら、『狼男アメリカン』に先立つ1年前の『ハウリング』(The Howling 1981)に先行の利を見る向きもあるかもしれません。裏話になりますが、師匠であるリック・ベイカーが『狼男アメリカン』に取り組むため、弟子のボッティンに低予算の『ハウリング』をまかせてしまい、急遽まかされたロブ・ボッティンが全精力をつぎ込んで作り上げたのが『ハウリング』のあの狼男変身シーン。そのラッシュを見て度肝を抜かした師匠のリック・ベイカーが、大慌てで『狼男アメリカン』の変身シーンを撮り直したのは有名な逸話です。 暗闇の中、わずかな月明りという光源の中で、ある意味慎ましく"変身"のモーションを記録する『ハウリング』、そして光々とした室内照明の中で露骨に"変身"のモーションをさらけ出す『狼男アメリカン』、両作とも役者へのメイクとメカニカル・ダミーを組み合わせながら、「実際にカメラの眼前で起こる"変身"のモーションを記録すること」への執念を見せつけました。 The Howling 1981 ![]() 師匠のリック・ベイカーは油圧式のメカニックで狼の顎を突き出させたのに対して、予算のないロブ・ボッティンは、自らの手をダミーのヘッドに押し込んで顎をググっと押し出すという、手段選ばずのド根性=クラフトマンシップを見せてくれたわけですが、ロブ・ボッティンにとっては、続く『遊星からの物体X』で、あらゆる手段を駆使したメカニカル・ダミーの極限に挑戦することでリベンジを果たすことになります。 とは言え、物体Xであるところのエイリアンが犬の擬態からその正体を現す最初のコンタクト・シーンで、ドロドロの肉塊からひと際太い触手が勢いよく飛び出し、先端がヒトデのようにパックリ開くシーンなど見ると、やはりグロテスクなグローブを装着した人の手を突き出しているようにしか見えなかったりして、ここでも『ハウリング』直系の逞しさを感じることができます。それがボッティン本人の手であるのか、定かではないけれど。 1982年はこの師弟対決に目が行くのはやむを得ないのですが、実はポール・シュレイダー版の『キャット・ピープル』(1981)が日本公開されたのもこの年だったりするのですね。豹女にナスターシャ・キンスキーをキャスティングするという反則技の本作もまた、黒豹がヒロインの皮膚を破って体内から飛び出すという、上の文脈と同じレベルの果敢な挑戦が成し遂げられていることは、ついつい忘れがちな事実です。 意外と知られていませんが、ここで特殊効果を担当しているアルバート・ホイットロックは、この後間もなく『遊星からの物体X』でロブ・ボッティンとタッグを組むことになります。 このあたり、プロ魂の師弟激突を中心にしたなんともローカルな人脈の中で沸騰している熱、のようなものは、80年代のホラー映画ブームに強い牽引力として作用しているのは間違いないでしょう。"変身"のモーションをダイレクトに構成してしまうという、どこか匂い立つようなクラフトマンシップは、『13日の金曜日』(1980)以降のスプラッター描写の進化と並走する形で、80年代を貫くことになりました。 先に上げた『キャット・ピープル』のバリエーションとも言える 『狼の血族』(1984)の口からアゴの変身シーンや、映画ファン以外にもリック・ベイカーの名を轟かせたマイケル・ジャクソンの「スリラー」のPV(1983)とか...、ダミーにしろ人体へのデコレートにしろ、とにかく、ソレはソコで実際ソノように、動いていたわけです。 The Company Of Wolves 1984 ![]() 満月の夜の狼男や擬態の特性を持つ地球外生命体、これらのトランスフォームを通じて、ここで熱く費やされたクラフトマンシップが目指すものは、実にシンプルな創造欲求だっただろうと想像します。つまり、かつてコマ撮りやオーバーラップといった見せ方の手段によって表現されてきた"変身"の過程を、明らかに情報の欠損と言えるギクシャクしたものから、よりスムーズなものにしたい、というクリエイターとしての創造欲求。 よりスムーズに...、諸段階の記録を切替えの手法によって目の錯覚に訴えるのではなく...、より滑らかに...、ギクシャクさせず...、連続した時間の中で提示する。極端な話ワン・カットの中でウソのない"変身"のモーションを完結させ得るものとして。 映画自体が1秒間に24コマの静止画である事実に対してケンカを売ることはできないけれど、"変身"の過程を如何に構成し得るか、という命題にはもっと打つ手はあるはずだろう、という思い。もちろん、本物の狼男や地球外生命体を映画に出演させているわけではないから、ウソであることには違いないのだけど、その運動はカメラの前で実際に起こっており、少なくともギミックは映像の見せ方の側にはなく、実際にそのように運動しているものを、カメラの側は素朴に捉える。ギミックは運動の造形の側にある。"変身"というモチーフと対峙するクリエイターの勝負すべき土俵が、ここで決定的に変化したことになります。 ------ さきほどから触れているオーヴァーラップという古典的手法の"変身"を真っ先にイメージさせる映画は、多くの人にとって『狼男』(The Wolf Man 1941)であるでしょう。ロン・チェイニーJr.の顔や手の体毛が伸びる諸段階の映像を、オーヴァーラップによって"変身"たらしめているわけです。 The Wolf Man 1941 ![]() これがスタンダードとしてどれくらい汎用的手段であったかを考えると、映画以外の動画においても同じ手段が当然顔で使用されていることからも分かります。 例えばテレビ・アニメ『妖怪人間ベム』(1968 - 1969)ですが、ベム、ベラ、ベロが妖怪に変身するシーンはなんと、最大でもわずか3段階のオーヴァーラップによって表現されています。...って、アニメですから別にどのようにでも描けるはずなのですが、にも関わらず3段階というなんとも大雑把なオーヴァーラップで構成されてしまっている三人の"変身"シーンを見るにつけ、そこに当時の技術的問題や、予算要請の問題や、グロ過ぎる映像の回避、といった理由を想像することもなかなか難しく、例えば予算的問題なら(今でも『プリキュア』に代表されるような)入魂の"変身"シーン一発を毎回使いまわすこともできるはずで、つまり、「変身かくあるべき」かのようにそう作られてしまう事からも、"変身"とオーヴァーラップがほぼ同義であるというスタンダード性が理解できます。 あまり知られていませんが、『妖怪人間ベム』は後に「パートⅡ」と銘打った2話分のパイロット版が製作されています。これがなんと、偶然にも1982年なのですね。 オリジナル版よりも目元が可愛くなったベロとベラ、そしてなぜか変わり映えしないベムが、本稿の論旨に見事に合致する1982年というエポックな年に、どのような変身を見せてくれるのか?...で、先日たまたま観る機会があったのですが、この期待は見事に裏切られます。...というのも、変身の瞬間全身がピカっと光に包まれて、次の瞬間には妖怪になっちゃってるのですね。... さすがにこの仕掛けの想像力の無さにはガックリです。...3段階ディゾルブの粗雑さのほうが遥かに映画ファンの感性に訴えかけるものがありました。 ![]() 少し脱線しますが、こう考えてくると、10月からの放送が予定されている実写テレビドラマ版のベムに想いを馳せることになります。そこでは、正義への貢献意思が被差別からの脱却と強く結びついていることや、報われない善意などといった主題論的な問題系、及び、超能力が駆使される以上に、獣の様相のままポカポカ掴み合いの凄まじい近接肉弾戦がメインであったことや、本論旨で触れている"変身"の視覚表現といった見せ方の問題系、といった物語をドライブする要素が、どれくらいオリジナルに近く描かれたり、また回避されたりするのか? すでに発表されているキャストや地上波ゴールデンという枠組みからおよそ想像できるとは言え、単なるキッズ向けで済ませないでほしい。中高年層の郷愁は、視聴者ターゲットとして小さくないはずでしょうし。 ------ とにかく、それほどスタンダード足り得てきたもの(オーヴァーラップ)を変革しようとする力が、怒涛の顕著化を見せることになった1982年をを上に見てきたわけですが、映像表現の技術基盤の躍進は、さらに別のステージを準備することになります。 その起点に何を置くかは諸説あるでしょうが、おそらく妥当なのは80年代から90年代をまたぐジェームズ・キャメロンの仕事でしょう。時系列的にはまず『アビス』(The Abyss 1989)があり、そして何よりも決定的だったのは、液体金属製の最新型ターミネーターT-1000の自在な変容ぶりに驚かされた『ターミネーター2』(Terminator 2: Judgement Day 1991)です。 Terminator 2: Judgement Day 1991 ![]() 1980年代も終わろうとするタイミングで駆使されたのは、CGを使用したSFX手法であるモーフィング。つまり、「映像A」から「映像B」への変形の、その過程の非在の映像をCGで補完させてしまう技術ですね。『ミッション・インポッシブル』の変装マスクひとつとっても、私たちはその滑らかさを新鮮な驚きで迎えたわけです。 そして、「スリラー」で1982年の熱に共鳴したマイケル・ジャクソンは、その10年後、「ブラック・オア・ホワイト」のPVで同じジョン・ランディス監督を起用しながら、今度は積極的にモーフィングを導入することになります。 オーヴァーラップにおける映像Aと映像Bの間にあるのは、欠損としての隙間だと言えます。そして、諸段階の継ぎ接ぎを滑らかにしたい、という欲求を満たす手段として、オーヴァーラップの進化の先に、「欠損部の補完」としてモーフィング技術を置くことは、極めて自然な流れであるように思われます。オーヴァーラップとモーフィングは、技術進化の時間軸の上で直接バトンタッチされるべき関係に感じられるのです。 ![]() だとすると、満月の夜に苦悶の叫びとともに骨格が"実際に"せり出す主人公のあの泥臭い表情を作り出した80年代を、そうした前後の時代を含めて俯瞰で捉えなおすと、技術進化のナチュラルな時間経過軸にはどうも収まりが悪く、「無謀な試みだったがそれなくして次のステップも有り得なかったのだから」というフォローも有効ではないように思われて、どうもそこだけが取りこぼされたもののように、バトンが素通りしてしまっている感じがすごくします。 「オーヴァーラップ → (80年代) → モーフィング」 ここで80年代を「空白の10年」などと呼びたいわけでは決してなく、あの10年間の試行錯誤をあえて言うなら、映画における"変身"手段にとって、そこだけがポッカリと「鬼っ子」であるかのようで、それ故に私たちを惹きつけてやまない魅力を放っているようにも思う。 フルCGが映画の要所要所で使用され始め、しだいに映像Aと映像Bの存在さえもが「補完」されてしまう現在から振り返ると、初めてコンピュータ・グラフィックスを全面的に導入した『トロン』(Toron)が製作されたのが1982年であるというのもここでは幾分象徴的に感じられるけれど、この「鬼っ子」の10年間は、とにかく「待てなかった」わけです。あと5~6年待てばモーフィング技術は映画に浸透し始めるはずなのに、あのタイミングで発揮されたクラフトマンシップは、性急にもそれを待てなかった。 歴史上の大きな事件の背後には、それ以前に同じような志を持っていたはずの人間の存在を必ず認めることができます。そういう人たちの試みを、ここで「早すぎた」的に勇敢な美談として語りたいわけではありません。ただ、あれらの試行錯誤の数々には、決定的な転換の達成からは決して紡ぎだすことができない、バカバカしさ一歩手前の「武勇伝」や「技術者の痕跡」といったものが匂い立っているのは確かであり、それらは興奮をもって語ったり愛したりするに足るだろうということ。 ここで書いた「痕跡」というのは、大袈裟に言うと夢だったり祈りだったりするものです。 コンピュータは連続的な値を扱うことが苦手で、ひたすらクールに映像の前後の情報を分析しながら、存在しないはずの隙間を情報として補完することに徹することを考えるなら、ある程度モーフィングの自動処理が実現されるに至っては、そこで扱われているはずの"変身"という意味性そのものには無関心とも言える作業が進んでいるわけで、故に、そこでは「痕跡」はとことん希薄なものになりがちです。 私は今でもSF・ホラー映画を愛しており、最新のVFXもウェルカムですが、すでに特殊効果アーティストの固有名詞に深い関心を持っていないことにふと気づきます。実際、今年前半最も楽しめた映画のひとつ『ブラックスワン』(2010)についても、終盤でカットを割らない”変身”シーンに釘付けになりながらも、それを創り上げたVFXの監修が誰であるのかを、私は知らないし、あえて知ろうともしていない。… 希薄になったのは、私の関心ではなく、特殊効果の映像に、消し難く残ってしまっていたはずの「痕跡」の方ではないか。 The Wolfman 2010 ![]() ジョー・ジョンストン監督の『ウルフマン』(2010)は、オーヴァーラップ変身の始祖であるロン・チェイニーJr. の狼男を多分に意識した2010年版ゴシック・ホラーであり、特殊メイクを担当しているのが1982年の主人公、リック・ベイカーであることは注目に値します。 殺伐血飛沫シーンにおける昔ながらの効果が絶品なのは当然として、やはり最大のクライマックスは裁判員を前にした明るい室内での主人公の狼男”変身”シーンです。映画そのものの出来は別にして、それは想像以上に素晴らしい出来栄え。 正直言って私には、そこで駆使されている技術について、おそらく上手く混在させているはずのデジ・アナの見分けがつきません。そのように感心させられている時点で脱帽であり、言葉での説明は難しいのだけど、そこにはリック・ベイカーという名前の価値が貼りついており、上に書いた「痕跡」のようなものが、仄かながら確実に認められたられたことに不思議な安堵を覚えたのでした。 最初に触れた『The Thing (2011)』に話を戻すなら、ロブ・ボッティンはそこに召喚されるべきだったのでしょうか? 何とも言えませんが、20世紀と心中してしまったかのようなボッティンに、残念ながら貢献できることは何もないだろうと想像します。 まだエイリアン映像は見ていませんが、多分フルCGでうごめくであろう最新鋭の物体Xを前に、私はそれを心底楽しめる自信があります。ただし、そこに匂い立つように濃厚な作家性を認めることには、引き続き無関心であるのでしょう。
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