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すでに1月も終わろうとしているこの時期にして本年初投稿。明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願いいたします。
たぶんアタラント号の短い歴史の中でも"月ゼロ"はなかったはずのことなので、慌てて何か綴っておこうと考えて、手っ取り早いベスト選出企画、「2011年に日本公開された鑑賞済映画ベスト10」ということで、こういうの、他人の記事読むの大好きなのだけど自分でやるのはもの凄く苦手で、それでも自分なりの時点の思索を総括してタンキングしておくのは、その後の価値観の変化に対しても有意義であると前向きに考えてみた。 圧倒的に鑑賞本数が少なく、昨年公開された映画では、劇場・ビデオフォロー合わせてたぶん50本程度だと思うし、マリックやスピルバーグやカーペンターさえフォローできていないという状況、また、都心ではすでに昨年の話題作でありながら、単館系のフィルム巡回タイプの作品の公開時期のギャップによる年度ズレ込みでここ(大阪)で対象にならないものが少なくないこと、等を前提にして、また、劇場体験とビデオ鑑賞について差別がある程度起こり得るかもしれないことは自分に対して留意しておく。 鑑賞時に本ブログでコメントを残せていないものは、ここでごく簡単ながら短評を記して、すでに何らかの形でレビューできているものはブログ内記事をリンクで貼り付けながら駆け足で。なお、基本的に順不同だけど、潜在的には付番にある程度の序列は認められる気がします。 01.『イップマン 序章』 葉問 (香港:ウィルソン・イップ監督) ⇒「イップ・マンがおもしろかったことに託けてカンフー映画四方山話」 ![]() 02.『ソーシャル・ネットワーク』 THE SOCIAL NETWORK (アメリカ:デヴィッド・フィンチャー監督) ![]() 03.『ブラック・スワン』 BLACK SWAN (アメリカ:ダーレン・アロノフスキー監督) ⇒「「きれいにひと皮むけたアロノフスキーが素晴らしい - 『ブラック・スワン』」 ![]() 04.『イリュージョニスト』 L'ILLUSIONNISTE (イギリス/フランス:シルヴァン・ショメ監督) 05.『ファンタスティック Mr.FOX』 FANTASTIC MR. FOX (アメリカ/イギリス:ウェス・アンダーソン監督) 海外のアニメに限っての2本選出というのは残念だけど、そんな状況であるのは事実。「トイ・ストーリー」シリーズが消費社会というものを批判しないのと同じように、シルヴァン・ショメはここで、「移ろいゆく価値」というものを否定していない。だから心が温まるし、ウェス・アンダーソンの作品は、キツネたちへの安易な感情移入を許しておらず、信用がおける。 ![]() ![]() 06.『冷たい熱帯魚』 (日本:園子温監督) ⇒「能動的イマジネーションを遮断する『冷たい熱帯魚』のインパクト」 ![]() 07.『デビル』 DEVIL (アメリカ:ジョン・エリック・ドゥードル監督) ⇒「ナイト・シャマランの話をしよう。 - ジョン・エリック・ドゥードル監督 『デビル』 」 ![]() 08.『ブンミおじさんの森』 UNCLE BOONMEE WHO CAN RECALL HIS PAST LIVES (イギリス/タイ/フランス/ドイツ/スペイン:アピチャッポン・ウィーラセタクン監督) ⇒「シーザーと猿の精霊とセレブリティ。」 ![]() 09.『アンストッパブル』 UNSTOPPABLE (アメリカ:トニー・スコット監督) ⇒「トニー・スコット監督 『アンストッパブル』 --- あえて不満点を中心に」 ![]() 10.『東京公園』 (日本:青山真治監督) 遂にタイトルに"東京"を冠した青山監督の新作は、役者のレイアウトの過激さに対して、風景そのものは当然のように匿名に埋もれてる。物語の中で起こっていることや登場人物たちの関係性は決して軽いものではないし、"真っすぐ見つめる"ことも映画にとっては軽い主題ではないし、幾多のオマージュ、アンチ、超克、といった姿勢も軽く頷いて受け流せるボリュームや質ではないし、そういった軽くない「ゴツゴツしたいびつさ」があって、一見して感じられる「鮮やかで軽やかなエレガンス」みたいなものが、その歪さを優しく包み込む、...ことが出来ない、...という映画で、それは昨年、進んで何も背負わないようなある意味無責任とも言える園監督の逆説的な軽さの、その反対側の極を成してる。ちなみにそんな歪さの中だからだろうか、初めて小西真奈美が良く思えた。 ![]() 以上の10本、公開本数の割合として当然のことかもしれないけれど、国籍で土俵を分けずに並べるとアメリカ映画が半数を占めることになりました。韓国、中国映画が1本も入らなかったのは我ながら意外でもあるのだけど、この傾向は次点を数点挙げてもほとんど変化はなさそうです。 <次点> ■『アンチクライスト』(ANTICHRIST ラース・フォン・トリアー監督)⇒「ANTICHRIS♀」 ![]() ⇒「プラス思考とそのコストを考える C.イーストウッド監督 『ヒア アフター』」 ![]() ![]() ![]() 最後に、個人的な想い入れから次の賞を特別に用意してみました。 <インパクタブル・アクター賞> マイケル・シャノン (『ロシアン・ルーレット』 ヘンリー役) 池内博之 (『イップマン 序章』 三浦役)、 ![]() 以上。
デンマークの映画監督カール Th.ドライヤーの作品では、それがメタファーであれ、魔女的な女性の存在に大きなスポットが当たります。中でもそれが最も直接的に描かれている『怒りの日』(Vredens Dag 1943)を久しぶりにビデオで観直しました。
![]() 映画の中で神に仕える男たち、魔女を断罪する彼らを突き動かすのは負の感情です。ドライヤーはそうした欺瞞や不寛容を、ナチへの抗議姿勢と重ねながら告発していはいるけれど、しかし一方で、その告発を通じて、魔女として断罪される女性たちを擁護しているかと言えば、必ずしもそうではありません。 例えば『怒りの日』の前半で展開する、魔女とされる老婆の火刑に至る迫害を見ると、老婆の鬼気迫る表情や響き渡る悲鳴などは、擁護されるべき弱者のそれを超えたものとして、観るものを戦慄させる迫力を持っています。また、本作のヒロインである牧師の若き後妻についても、彼女の潜在的な魔性に対して積極的にライトを当てようとしていることがよく分かります。...ここでライトというのは文字どおりで、硬い画面に下からのライティングやキャッチライトで深い陰影を持って浮かび上がるヒロインの表情は、貞淑な妻という社会的役割をその顔に担いつつ、それが軋みながら本性の外殻に留まろうとする様をスリリングに映し出しているわけです。 神秘主義とリアリスムが、整然と同居しているかのようなドライヤーの作品が感じさせるのは、敬虔なクリスチャンとしての眼差しと、またそうした自分に対して容赦なく向けられている自己分析的な批評眼の存在です。 例えばこれがフェデリコ・フェリーニなら、カトリックの権威主義的な欺瞞や抑圧(特に性的な)を、まずは持ち前の機知によってアイロニカルに捌きながら、一方で最後には「魂の救済による解決」みたいなものを信じてしまっているようなところがあって、つまり、否定には自覚的、でも肯定には無自覚に潜在的なバックボーンが作用してしまっているような、ある種の天然を見る想いがするのですが、ドライヤーには、誰もが抱えているはずのそうした宗教的・思想的・政治的な矛盾を、「まいいか」で許してしまってはいけないかのようなピンと張った厳格さが漲っていて、それが時に感動を伴う驚嘆を起こさせたり、また時にはこちらに極度の緊張を強いたり、その厳しさが面倒くさいものに感じられたりするのでした。 そのような厳格さと対峙したとき、同じくデンマーク出身の映画監督であり、ドライヤーへの敬愛を隠さないラース・フォン・トリアーが感じさせるのは、自己分析が破綻しているような、宗教・信仰をめぐる混乱した立ち位置です。 初期の「ヨーロッパ三部作」から「黄金の心三部作」くらいまでは、久々に映画の時点更新者が北欧から出現したかのような興奮を味あわせてくれたラース・フォン・トリアーでしたが、すでに「アメリカ三部作」(の前2作)から現在に至るまでは、単なる"お騒がせ"と紙一重の存在となりつつある、というのが個人的にも一般的にも多くの認識でしょう。近年では自身が精神を病みながら、そのセラピーの一環として書かれたとされる現時点の日本公開としての最新作『アンチクライスト』では、血みどろのキツネに「カオスが支配する」と語らせています。 少し遠回りしながらですが、その『アンチクライスト』(ANTICHRIST 2009)の話。 私自身は今もなおラース・ファンであることを自称しながらも、正直、『ドッグヴィル』を最後に、その後の作品には全く手つかずで、久々に『アンチクライスト』を重い腰をあげてビデオで鑑賞したしだいです。(気になるシーンだけは後ほどボカシ抜きでWebのストリーミングで鑑賞し直しました) ![]() これまでも数々の作品で、劇中のヒロインとそれを演じる主演女優たちを不条理なパッションで射抜いてきた監督は、それでもドライヤー&ルネ・ファルコネッティ(『裁かるゝジャンヌ』)の深度にはまだ達していない...と考えてか、引き続き手加減なく、今回はシャルロット・ゲンズブールに刃を向けながら、意味深なタイトルのスペルに「♀」というシンボルまで当てています。(これは監督の意向とは思えませんが) 「♀」。 聖書の教理が、女性劣性の考えにつながる可能性をどの程度許してしまっているのか、私は詳しく通じていないけれど、アダムとエバの差異が根源にある以上、残り続けざるを得ない問題であることは理解できます。 おそらくキリストが直接関係する以上に、当時のユダヤ社会の通念によるものが大きいのでしょうが、性的な不品行を象徴してわざわざ「罪深い女」という語が一般的な「罪人」から切り出して語られ、黙示録のバビロンは大淫婦として女性の姿で表わされ、害悪をもたらすものを象徴してしまう女性は十二使途に含まれず、キリストも神も、男。 そうした価値の中で女性を裁く異端審問のバリエーションは、最初に触れたドライヤーほど直接的でなくとも、ラース・フォン・トリアーの作品の中でもしつこいほど繰り返されています。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(Dancer In The Dark 2000)の刑事裁判シーン、『奇跡の海』(Breaking The Waves 1996)でベスが教会から追放されるシーン、『ドッグヴィル』(DOGVILLE 2003)の村民集会などなど、そこで彼女たちが受ける裁きの不条理さは、何かが本末転倒しています。 ![]() 例えば、先に触れた『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で極刑の裁きを受けるヒロイン(ビョーク)は、ルネ・ファルコネッティからエミリ・ワトソンに至る他のヒロイン同様、理にかなわない受難によって刺し貫かれているわけですが、しかし同時に、その受難なくして成就もまた有りえないという不条理がこの物語をドライヴさせているのも事実です。...つまり、職を解雇され、心ない隣人の窃盗被害に合い、あげくに自身が罪を負い、極刑に果てるからこそ、息子の視覚障害を回避できたという、成就=受難の対価としての成り立ちです。 同じことは、『奇跡の海』のヒロイン(エミリ・ワトソン)にも言えます。 つまり、ヒロインであるベスは、赦しを通じて神の恩寵を得るために、自ら進んで罪を作り、進んで身を汚すわけです。率先して罪の深さに身を沈めることで、神の救済を得ようとする。ここにも罪と救済の成り行きが逆転した本末転倒があります。(ちなみに、園子温監督の『愛のむきだし』(2008)の前半で描かれていたのもこれに似た事態でしたね) ![]() 「彼女が職を失うことなく、彼女の失明症状がこれほど早く進むこともなく、隣人の悪意に触れることもなかったならば、仮に計画どおり息子の手術代を貯めることができていたとしても、"障害が遺伝することを知りながら子供を産んだ罪"は十分償われたとは言えず、この成就は無かったのだ。」...と、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』という映画は言っているかのよう。それは苛烈な説教です。 そこに窺えるのは罪と救済についての倒錯であり、クリスチャニズムの負の一側面を露骨に炙り出していると言えます。このような不条理な事態を受け止めることで成就するラース・フォン・トリアーのヒロインたちは、解決を来世に持ち越すことなく、その犠牲をもって実際に奇跡を起こしてしまうわけです。これらを俯瞰して、ラース・フォン・トリアーとキリスト教との位置関係を測るのは困難なことに思えます。 信仰に立脚して、なおかつ(というか故に、)批評的であり得たようなドライヤーの厳格さと比べて「混乱している」と書いたのは、倒錯の果てがアンチなのか大いなる肯定なのか、文字どおり何が言いたいのか図り難いということであり、けれども、女性たちを刺し貫く受難の深度だけはドライヤー級という...それって単に巨大で不合理な暴力ではないか、という感させてしまう瞬間があるからです。 このあたり、監督に対するインタビューやバイオグラフィなどを読み込めばある程度理解可能なことかもしれませんが、作品そのものの雄弁さに対して得られるものは小さいだろうと考え、私はそういう読み込みを放棄しています。 過激な描写が話題を呼んだ『アンチクライスト』は、制作発表段階にウィレム・デフォー&シャルロット・ゲンズブールという組み合わせを聞いただけでゲテモノ臭さがプンプンしたのですが、これは単に、私のイメージの中でシャルロット・ゲンズブールの像が『なまいきシャルロット』(1985)で止まっており(その後の彼女も何度かスクリーンで見てるにも関わらず)、そんな彼女のイメージがウィレム・デフォーと容赦ない性描写で重なることを想像してしまっただけだったりします...。 ![]() 『アンチクライスト』には、当初よりリリースされてきたホラー映画、スリラー映画といった語られ方に無理なくフィットしているという新鮮な驚きがあります。また、過激な性描写執着への回帰や、「ドグマ95」以前のビジュアル・テイストへの部分的回帰があります。またなぜかアンドレイ・タルコフスキーに捧げられてしまって、そう言われてみればラスト・ショットは『ノスタルジア』(1983)のラスト・ショットに重ならないでもない...かもしれない...、などといったあまり意味があるとは思えないことをツラツラ考えながら、野生動物の姿で現れる「三貧者」や降り注ぐドングリの雨など、それらがどのようなメタファーであるのか、といったことをイマジネーションを駆使して読み込むことを、まずは放棄して論を進めることを自分に許しておきたいと思います。 以下やはり、上に見てきたこれまでの作品、これまでのヒロインたちとの関係に足場を置いて考えることが有意義に思える。 アンチであるのか、歪つな信仰であるのか、上で見てきたように不条理なパッションの果てに崇高に達するかつてのヒロインたちは、決められたように小さくか細い肉体を持ち、その体に「キリスト」と「罪の女」の二役を同時に課せられることによって倒錯している、と言えそうですが、そんな彼女たちと比べたとき、今回のヒロインにはもっと普通に理解可能な分かりやすさが漂っています。 それは、舞台となるエデンの楽園で、(治癒されるどころかむしろ)原初的な「罪の女」として立ち現れた姿であり、それは、これまでのような事態の本末転倒ではなく、ストレートにキリストの救済を必要とする、伝統的とも言える真っ当な「罪の女」として描かれているからだと思います。 彼女が自らの罪深さを理解した正統的な「罪の女」であるのは、唯一快楽を得るためにしか機能し得ない体の部位を自ら切除したり(ボカシなしで見ましたが、キツい...)、自ら救いを求めるセリフを直接何度か口にしていることからも明らかです。そして、ラース・フォン・トリアーの映画においておそらく初めて、ヒロインに「キリスト」と「罪の女」の二役が詰め込まれることなく、「罪の女」から独立した第3者として「救済する者」が登場することになります。やはり、かつての倒錯した事態と比べると、ここで成り立っている関係は至ってオーセンティックなものだと言えます。 女を救済する役割を負った男は、ヒロインの夫であるセラピスト、見た目にも特殊メイクなしで悪魔にもキリストにも見えてしまう強烈な個性、ウィレム・デフォーですね。映画を観た人ならご存知のとおり、この救済者が「罪の女」を救済できない様が、『アンチクライスト』を構成しています。 ![]() 「罪の女」を救済しようとする彼の奮闘は結果的に、上で触れた過去の作品で見られた異端審問を通じた裁きのごとく、恐れのピラミッドや子供の検死報告書などを通じて、「罪の女」の罪の詰問へと収斂するしかなく、そしてクライマックスでは、背負わなければなければならないはずの打ち込まれた杭の痛みを、「イタタ...」ともがいて引き抜いてしまい、事態からの逃走を謀り、最後には男が女に勝る"力"の行使(絞殺)によって決着をつけることになります。 ヒロインそのものにはかつてない歴史的正統性を与えながら、一方で上に要約したように救済努力が空回りしながら、救えないどころかむしろドンドン事態の悪化を招いていく、『アンチクライスト』には、ホラーテイスト以上に、どこか七転八倒のドタバタ劇として描かれているニュアンスがあります。 女を救えずに受難から騒動しく逃走する男。一方彼が対峙する妻であるヒロインは、エデンの地で歴史の記憶につながり、エバにまで遡る原初的な深さから全ての「罪の女」(とされてきたもの)を象徴しています。だから、巨木の根元でヒロインが救済者とつながるその背景に、無数の白い腕が垂れ下がるホラー映画ばりのシーンは、旧約聖書から現在に至るまで、救済など成されたためしがない、そんな「罪の女」たちの呪い節であり嘲笑であるでしょう。また、ラストで供奉の列を成すようにエデンを目指す女性たちにも同じことが言えるかもしれません。あれらの腕、あれらの女性たちの中には、セラピストである男が救えたつもりになっているかつての患者たちや、最初に触れた『怒りの日』のヒロインも含まれているのだろう。... ![]() 彼がキリストになれない卑小なセラピストであるのか、もしくは、キリストそのものが所詮は無力なセラピストみたいなものだと言いたいのか、ある程度後者の隠喩を含んでいる以上、血染めの射精までさせてしまうのは確かに神をも畏れぬ表現かもしれません。...が、それでもつくづく感じるのは、上に見てきたドタバタのうちに救済できないという物語を、直接的に過激な映像表現を武器にして描きながら、そのタイトルに直接"アンチ"を冠してしまというのは、どこかあまりにも稚く、直接的でやんちゃな出方ではないか、ということだったりします。(その先にはヒトラーへの共感発言騒動もあります) 『ドッグヴィル』には、首枷に鉄の車輪を引き摺るところまで至りながら、非寛容を受け止める受難の無意味性と、非寛容に対して爆発させる暴力の有効性を学習するヒロイン(ニコール・キッドマン)が登場します。あのあたりから、ストレートに"アンチ"が貼り付けられたように思うのですが、なにせ今回はタイトルがタイトルです。『アンチクライスト』に「反賞」を贈ってしまったキリスト教系の審査団には、"そのまんまかいっ!"と、思わずツッコミを入れてしまいそうになります。 「黄金の心三部作」(ここでは『イディオッツ』のアナキズムは横に置きます)が抱えていた倒錯には、それ自体で"アンチ"とも何とも分からないものが指向されていたことを思うと、"アンチ"のプラカードを掲げた現在のラース・フォン・トリアーが、単純に以前よりアグレッシヴであるとは思いません。ただ、何やら武器を手にして不審な行動を見せ始めたのは確かで、何を仕出かすか分からない感は強まっていると思います。 単なる"お騒がせ"に終始するのか、芸術に悲鳴を上げさせるクリエイターとして一層新たな地平を開くのか、日本国内の公開までのタイムラグのせいで否応も無くそんな想像を逞しくさせられながら、どうも"お騒がせ"の度合いが強まっていることをファンとして懸念しています。 Tags:#ラース・フォン・トリアー
![]() エドゥアール・マネ(Édouard Manet 1832.1.23 - 1883.4.30)が描く女性たちの顔を、あまり美しいとは思いません。......美しいとは思わないけれど、でもその表情がどこか気になって仕方がない...のは、時に「え、そこ?」と周囲を驚かせてしまう私自身の女性の好みとはたぶん直接関係なくって、少なくともマネの描く女性の表情のニュアンスが、その心情の一切を語ってくれない感じがどうしてもあって、それが気になっているのかもしれません。 先日、ワシントンナショナルギャラリー展で実物を初めて観た全身ピンク色で「プラム酒」飲んでる彼女(上画像)も、それが一人飲みである以上実際に彼女が孤独である可能性は高いけれど、その表情からは一般に言われるような「都会の孤独」をことさら感じることもなかった。 私の中では、多くの場合マネの描く女性の表情に映し出されるものから、デカダンもエロティックも、ラブリーもヘルシーも、ハッピーもミゼラブルも、ほとんど感じることがありません。マネの名のもとにヘルシーでキュートな女性を観た記憶もあるけれど、確かそれはパステル画だったはずで、それはマネを語る上では「こういうのもある」程度のものだと思う。 そんな表情だからと言って、しかしマネの女性たちを能面美女の系譜で語るわけにもいきません。その表情には能面美女などというミステリアスな情報も乗っかっていない。 また、マネのモダニズム的達成の一つとして「スナップ写真的な効果」というのがよく言われますが、仮にそうした意味での「ふとした一瞬の自然な表情」というのがあったとしても、そこで描かれている彼女たちの顔に対しては説明不足に思えます。そもそもスナップが捉える表情のほうが主題絵画や肖像画よりも情報量が多いことが普通だと思うし。 今回のワシントンナショナルギャラリー展からは離れますが、さすがに「オランピア」として描かれたムーラン(下画像)はスキャンダラスだったりエロティックだったりミステリアスだったりするではないか...、ということは普通に語られるわけですが、私は実物を観たことがないのでセザンヌを驚嘆させたあの薄塗りの肌について云々言えないし、エロティックとかキュートとか、そんな主観的な印象については空回りの議論にしかならないことを承知のうえで、それでもそういった印象を、描かれた彼女の表情そのものがどれくらい醸し出しているかというと、やはり微妙なところだと思います。 ![]() こうした表情を以前なら、主に男性の鑑賞者の単純さを見透かすマネ的な仕掛け=能動の視線(「(あなたが何を考えているか、)分かるわよ。」)として感じるところもありましたが、最近はむしろ、「ただ黙して視線を引き受ける」感じが強いです。まぁ、相手を見透かすのも黙して相手を引き受けるのも、どちらも相手の視線の側を卑小なものにする、という意味では同種の事態だと思いますが。 また、「すみれのブーケをつけたベルト・モリゾ」のように、露骨に左右の表情が異なるオランピアのその顔立ちは、主に男性の鑑賞者に対して開かれることがない「秘めた想い」のようなものを印象的に醸している...のかもしれないけれど、むしろより単純に、昨今のアンチエイジングや美容・整形の分野が面相をシンメトリーに近づけようとするのを諌めるのような個の特性が、男性が時にフェティッシュに求めてしまいがちな「個の不完全性」のちょっとしたチャームとして、フックのようにひっかかるということは言えそうです。 しかしいずれにしても、心情を映す鏡としての表情の情報量は、やはりほとんどないと感じます。そして、その情報量の少なさと、上に書いた「黙して引き受ける感じ」というのは、最近流行り(?)のリアルドールにもどこか通じるものがあります。それは、チョーカー、ブレスレット、サンダルといった、「全裸+ワンアクセント」(全裸にエプロンのようなのユートピア)の訴求力や、先に触れたちょっとした不完全性のチャームと合わせて、エロティックと言えばエロティック...であるのかもしれません。 という風に、あれこれ想いを巡らすことができる彼女たちの顔の上で起こっていること。 マネという画家は、①クールベから引き継いだモダニズムにおける絵画主題の問題と、②印象派を準備する視覚的表現手法の問題、この二つの問題系を同時に負っているがため、彼女たちの顔の上でこの二つがぶつかって、ゴチャ混ぜにになって、結果、決して美しく整うことがなく、心情や本性を表現することに訥弁だが、でもやはり見過ごすことができない表情になってしまってる、ということを何かもっともらしく言えそうな気がします。 前身(=主題におけるモダニズム)を引き継ぐ役割と、来るべきもの(=平面的かつ視覚的な表現)を準備する役割の中間地点。西洋絵画史において無視できない事件のいずれにも確信犯としてHUBのように関与してしまっているマネは、いくつかのモダニズムの支流が流れ込む合流点であると同時に、幾本にも広がる新しい表現手法群の起点でもあります。 ![]() そんなマネの、前身(=主題におけるモダニズム)を引き継ぐ役割について言えば、例えば「ビーナスから生身の女性へ」というのは、アダルトビデオにおける女優ものから素人ものへ、ドラマ仕立てから企画ものへ...といった、ある種のライヴ感を目指したかつてのAVトレンド大きな変化を、19世紀の美術史において完成に近いところまで牽引したと言えると思います。 また一方で、来るべきもの(=視覚的な表現)を準備する役割について言えば、以前モネについて書いたように(印象主義-強硬派 モネと対話してみる)、単なる描画手法に留まらない原理主義的印象主義というものがあるとして、そこで真に描かれる女性の顔というのはおそらく、分析的なキュビズムに負けず劣らず過激な妖怪に成り得ることを考えるなら、それを準備するマネの荒い筆触や平面的な描写というのは、旧アニメ版の妖怪人間ベムが3段階オーバーラップによって変身する際の、ちょうど2段階目に相当するくらいの"過激さ"の過渡期にあって、それでも自身を印象派に位置付けることを拒み続けたことからも分かるように、完全な妖怪(オーバーラップの3段階目)へと変身してしまうことに抗する力が確実に作用しています。それは、淵まで歩を進めながらも、その先の眼下に何やらデモーニッシュなものを察知して踏みとどまる、風景画に本領があればそのまま突っ走ることもできたのでしょうが、マネは人間が、人間の顔が...というか女性の顔が好きだからこそ、発揮できた力なのでしょう。 ...と、ここまで書いてきたあれこれを、まとめて引き受ける彼女たちの顔は、一見した静けさと矛盾するような混乱を併せ持っていて、だから美しくはないけれど気になって仕方がないのかもしれません。 上で印象派絵画を妖怪に喩えたのは幾分唐突だったかもしれませんが、古典絵画の後に触れる印象派絵画が、ベートーヴェンの後にドビュッシーを聴くような、なんとも視界が洗い流されるような(新しい)感触として語られがちなのには時に違和感があって、本来ならもっと抽象によった表現主義的な受容のされ方を許すでしょう。それを最も理解していたのはやはりモネだと思います。 モネが(稀に)描く女性は、今回展示されていたルノワールの描く女性たちの愛らしさからは遠いところにあって、今回の展示品の主力のひとつである有名な「日傘を差す女(モネ夫人)」(下画像)では、彼女の顔とそれを覆うヴェールなど見ると、それは本来ドガやルノワールが好んだ踊り子の衣装に代表されるトランスルーセント(半透明)な魅力全開の素材でありながら、それが特権的ではないどころかむしろ、純粋でありようがない顔というものを極力描かなくて済ませるための仕掛けでしかないような、そんな佇まいだったりします。 ![]() マネや印象派絵画を必要以上にオドロオドロしく語ってもしかたないので、最後に少し気を取り直して...、ワシントンナショナルギャラリー展では、カイユボットやカサットやモリゾの素敵な作品にも出会えます。メアリー・カサットって、ベルト・モリゾより創意が感じられるにも関わらずどこか優等生的で、結果としてモリゾよりも無個性だと思ってたけれど、有名な「青いひじ掛け椅子の少女」や「麦わら帽子の子ども」を実物で観てみと、やっぱり嫌いになりようがない好印象の作品で、優等生的であることをわざわざネガティヴに言う必要はないと感じました。 そしてそんな印象派をサラサラっと鑑賞して行った順路の先に突然セザンヌが登場すると、なんというか、ゲンコツで殴られるようなインパクトがあります。このゲンコツは「ポスト印象派」という共通の様式でもなんでもない呼ばれ方をしてますが、確かに「後期印象派」よりはマシだけど、ポストという語が単純に"次"とか"後"ではなく、単純なアンチでもシンパシーでもなく、批判的超克であるということは、いまさらですがあらためて理解しておかないといけません。そういうゲンコツですね。
『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』(Rise Of The Planet Of The Apes ルパート・ワイヤット監督 2011)、『ブンミおじさんの森』(Uncle Boonmee Who Can Recall His Past Lives アピチャッポン・ウィーラセタクン監督 2010)、『SOMEWHERE』(SOMEWHERE ソフィア・コッポラ監督 2010)を立て続けに鑑賞した週末の話です。
Uncle Boonmee Who Can Recall His Past Lives ![]() 主にSF映画の主題が「前日譚」という分野に題材を求めていることについて、そこに形振り構わない資本主義的乱獲やアイディアの枯渇といったものを見てしまうよりも、"興味深い誕生秘話"といったノリで楽しめば良いということを、映画としての出来が良い『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』も『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』も、そしてまだ観ぬ『the Thing (2011)(遊星からの物体X)』もおそらく、十分に教えてくれます。 それにしても、『猿の惑星』シリーズ(1968-)というのは不思議なもので、私たち観客の感情移入の先が、回によって猿だったり人間だったりにフラフラと振れてしまうことを通じて、基本的には安易にマイノリティに寄って立ってしまうことや、体制側の醜悪さや反体制側の蜂起が喚起するカタルシスといったものが、あまりにも簡便で無批判なものに思えてしまうことについて、つくづく考えさせられたりします。もちろんそれはどんな映画でも、またフィクションでなくても言えることではありますが。... さて、『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』の主人公であるシーザーという名のマイノリティの象徴は、今回シリーズ初となるパフォーマンス・キャプチャーを駆使したVFXによって描かれていることで話題を呼んでいます。その驚きのリアルさは、そのクオリティの高さをそのままこの映画の価値として評価してしまって良いくらいのインパクトを持っており、そこでは、ジョン・リスゴーを除く人間たちの陰影の無い平坦さが、むしろ演出意図でさえあるかもしれないと思わせたり、逆にジョン・リスゴーのクローズアップの味わいが、もしかしたらVFXであるのかもしれないという疑念を抱かせたりもします。(というのは言い過ぎですが) 有り得ない視点、有り得ない存在、有り得ないアクションを、語源としてのファンタジー("可視化")にしてしまうVFXは、すでに(特に)ハリウッドの映画制作の中心に居座っており、それをポストプロダクションと呼ぶことにはすでに大きな違和感があります。そもそもVFXの氾濫のみならず、撮影素材のデジタル化自体がポストプロダクションの意味を変容させてしまった感があって、フィルム編集というものが主に「継続する時間の問題」を扱っていたのに対し、正しく「継続する面の問題」にまで決定的に作業範囲が及んでいることを考えると、それはもう映画におけるプロダクションそのものでしょう。 そんな状況下でも、映画におけるリアリスムが時に大きな評価指標になり得るわけですが、それはあくまでケース・バイ・ケースであって、基本的には"ド迫力のVFX大好き"な私です。それでもしかし「VFXには見えない」と評される『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』のリアルなキャラクター造形を観ていると、一体何が画面に写っていているのか?...私は一体何を観ているのか?...、といった、シェクスピアの登場人物が内包しそうなシリアスな混乱が生じることがあります。 Rise Of The Planet Of The Apes ![]() 映像の支持媒体がテレビ画面やPCモニターやスマートフォンのディスプレイであってさえ、それを"映画"と呼んで良いような器の大きさを映画は持ち得ていて、そんな画面の中に何が写ろうとも映画の何かが脅かされるわけではないのだけど、それでもしかし、先日見た『スカイライン-征服-』のエイリアンや宇宙船であれば混乱もなく楽しめるはずのところが、今回は、猿たちのみならず他の被写体、例えばあのゴールデンゲートブリッジやあのアメリカ杉も、とにかくそれらがリアルになればなるほど、本物に近づけば近づほど、余計にそれが「でも本物ではない」という事実を唐突に突き付けてくる瞬間というのがあって、それが上述の混乱を喚起することになります。 画面の上にある様々な要素には、カメラのピントに還元できないいくつかの存在の水準があって、それが良い意味で陰影を生むこともあれば、どうしようもなくだらしない画にしてしまうこともあるでしょう。上に書いた混乱は、そんな諸水準とは親和性のない、画面に走る亀裂のようなもの。この亀裂は必ずしもVFXを要因にしないけれど、VFXがそのリアルさ故に亀裂を作ることは少なくありません。 『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』では、スピードがこの亀裂を埋める役割を結果的に担ってはいます。 例えば、多くの線形によって構成されたゴールデンゲートブリッジを決戦の場として、その高低と奥行をアクションのスピードの中に昇華させたクライマックスなどは、文学からは絶対に感受できない、あえて言えば音楽に近い興奮を視覚的に生んでいる、とでも言いたくなるほど見事です。それは混乱するスキを与えないほどの快楽。 それでもあえて言っておきたいのは、すでに「1Q82」で前置きしておいたとおり、そこに誰のどんな痕跡を読み取れば良いのかという疑問、というか、そもそもその痕跡への興味さえもが喚起されないという、もしかしたら大した問題ではないかもしれない事実があります。 ...と、そう思いながら見つめる『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』のエンドクレジットが教えてくれるのは、あくまでもそこで行われている驚くほど整備されているであろう分業体制だったりします。一人の天才によって映画が完成しているわけではないのは、程度の差こそあれ映画誕生の当初からそうではあるけれど、しかしこれほど映画製作がマニュファクチャリングに接近して、なおかつそのマニュファクチャリング的成果が、マニュファクチャリング的産物に高いクリティを与えて完成しているのを見ると、痕跡の希薄化を指して、それを夢や祈りの希薄化として嘆く必要はないかもしれない、そして、結局はそこにひとつの大きな価値と、エステティックの一側面を認めることができる、という風に思うのでした。 上で書いてきたことの全く反対側から、それでも「私は今画面上に何を観ているのか?」という同種の問題にぶつかることも有り得るのが映画のおもしろいところです。ここで言う反対側は、同じく今年日本公開された、2010年のカンヌ国際映画祭とヴェネチア国際映画、それぞれの最高賞を受賞した2タイトル『ブンミおじさんの森』と『SOMEWHERE』です。いずれも『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』の翌日に立て続けにビデオで鑑賞したために多少混乱させられました。 Uncle Boonmee Who Can Recall His Past Lives ![]() 『ブンミおじさんの森』も『SOMEWHERE』も、分かりやすく言ってしまうと、「ストーリーらしいストーリーの無い映画」ということになるわけで、ここでの「私は今画面上に何を観ているのか?」という問題は、連続して追うべきストーリーの無さと、描かれているものの抽象度の高さという、そんな単純な理由によるところが大きい、とは言えるけど...、 おそらくもの凄くシンプルであろう思想に加えて、タイという国の経済発展の速度が生む齟齬や矛盾に対するどこかジャ・ジャンクー(中国)的な視座も絡んでおり、ここで描かれる超自然的なものや時空を超えたエピソードの交感は、実にややこしいものになっているのだけど、このややこしさは、たぶん「透明感溢れる瑞々しい映像に身をまかせればそれで良い」などというこちらの姿勢を求めていないはずだし、そもそもここでの映像は透明感に溢れてはおらず、それはそれ自体で極めて主張が強い。 ここで、『ブンミおじさんの森』の猿の精霊は、リアルなVFXへの置き換えが可能だが、『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』のシーザーは着ぐるみへの置き換えが不可能であり(それだけで作品の価値が転覆する)、故に、『ブンミおじさんの森』の映画作品としての強度(密度感)の方が、より高い次元にある....などと言いたいわけではありません。 ただ、『ブンミおじさんの森』が持つ価値には、どこを探しても前段で触れた隠すべき亀裂や、被写体の水準の気の利いた差異のようなものがないのは確かで、着ぐるみで鎮座する猿の精霊も、普通に女優さんがそこに居るだけの亡き妻の幽霊も、それらは他の登場人物や、森の深緑や、ブンミの家の家財具など、カメラに写るもの全てのものと同じ水準で、同じくらいの主張を持っていて、ここでは、記憶や時空間の差異にさえ、特別な深さを与えられていません。 だからこの映画をティム・バートンが言うように、「夢のようだ」と語るならば、どの瞬間も全てが同じくらい「夢のよう」だし、また、見た目の静けさに対して意外と情報量の多いオープニング、つまり、牛と人と森と精霊が登場するのを見るときも、それらが全部まとめて同じ水準にあることを教えてくれます。 ここでベラ・バラーシュの論を持ち出すと、「映画では、事物はほとんど(言葉を話す人と)同質になり、生気と意味を獲得する。事物は人間に劣らず喋るので、そのため事物はじつに多くのことを言う。これがどのような文学的能力も手のとどかぬところにある映画的雰囲気の謎なのである」、...ということになるわけですが、私もここまでは賛同できるものの、バラーシュの論には先があって、そういった事物の豊かな雄弁さもまた、人間と関係している限りにおいて意味を持ってくるという、結局は人間重視の結論に向かってしまうのは残念です。 上に書いてきた『ブンミおじさんの森』を例に書いてきたのは、そんな依存関係が成り立たない状態のことであって、それぞれの意味がダイナミックに画面に貼り付いている状態のことです。 カメラに写るもの全てに対して無配慮と言いたくなるほど等しく焦点を当て、全てが同水準で濃密に混ざり合う『ブンミおじさんの森』のニュンスというものが、仮に急速な経済発展が著しいタイが抱えている問題そのものを映し出しているとするなら、逆に、全てに等しくピントを「当てない」という時間の垂れ流しによって、逆の方向から全てが同水準の地平へと向かい、結果的に『ブンミおじさんの森』とニアミスを起こすかのような『SOMEWHERE』もまた、現在のアメリカ..というか先進国全体の虚無感のようなものを表現し得ている、と、大袈裟にもっともらしく言えるかもしれません。 主な舞台となるホテルのディテールと、主人公ジョニー(スティーヴン・ドーフ)の表情が、鑑賞後の私の記憶の中では、同じ水準で溶け合っているかのようです。 SOMEWHERE ![]() どこにもピントが合っていないニュアンスは、そのままソフィア・コッポラ好みの"行間"を読ませる作りにも貢献しているわけですが、読ませたい行間がやたらと目立ってしまう、つまり結果的にそれって行間じゃないじゃん..と思わせてしまう露骨さは、彼女のオリジナル・シナリオでこれまでも感じられたことです。ここで言う行間というのは、単純化して言ってしまうと「セレブリティの虚無、もしくは孤独」ということになりますが、そういったものを滲み出させるための、むやみに登場人物の心情に踏み込まないカメラや演出の距離感といったものは、一歩間違うと無責任な間延びにつながるわけで、そしておそらくここでは、残念ながら一歩間違えてしまっているのではないか...というのが個人的な感想です。 が、...しかし、そういった不満を相殺できそうなくらい魅力的なシーンが『SOMEWHERE』にはあって、それは言うまでもなく「救済の徴」=主人公の娘クレオ(エル・ファニング)が初めて登場するシーンです。 静かに画面に入ってくる彼女の右手。その手に持ったサインペンで、ジョニーのギプスに自分の名前とハートマークを落書きします。彼女の静かな心配りは、眠り惚けたジョニーを起こしてしまわないようにしているだけだろうけど、彼女自身が主人公にとっての「救済の徴」であること、つまり世界を変質させ得ることを自身が十分理解したうえで、全てが同じ水準で他に依存しない画面、そんな均等関係が成り立った静かな世界に揺らぎを与えてしまわぬよう、愛らしく配慮しているように見えるのでした。...ソフィア・コッポラって、引き続きやればできる人なのかもしれない、とも思う。 たまたま同じタイミングで鑑賞した上記3タイトルを、串刺しでまとめるような気の利いた締め方をしたかったのだけど、あまりに強引で無理があったので今回はこれで終わろうと思います。
先日レーシック手術を受けた知り合いからいろいろと話を聞きましたが、コンタクトレンズさえ怖くて装着できない私にとって、それは到底受け入れ難い話です。俗に言われる合併症の可能性云々以前に、そもそもレーザーが角膜を突き破って水晶体まで届いてしまうような事故が起こらないのだろうかという...おそらく絶対有りえないであろう事態を、素人考え逞しくイメージしてしまう。
![]() さて、ここしばらく眼鏡の新調を検討しており、雑誌見たり、あちこちのお店に出向いて手にとらせてもらったり、それなりに活発に動いておりました。 アイシーベルリン(ic! Berlin)のニューラインナップ物理学者シリーズ(?)に深く心を揺さぶられたり、大阪での取扱店舗がいまだに不明なナチュラル・イノヴェーションの新作NI-113を雑誌で見かけて、自分でも意外なことにセルメガネの購入を積極的に検討したり。 雑誌で見かけた、と書きましたが、数少ないコンシューマ向けのメガネ専門誌に「モード・オプティーク」という雑誌があって、これをたまに書店でパラパラと見ることがあります。その名のとおりいちおうファッション誌的な位置づけですので、書店のレイアウトでは男性ファッション誌のコーナーでシルバーアクセものの隣に置かれたりしているのですが、そこに立って雑誌を見つめる私というのは、傍目にもファッション・トレンドに対して敏感にアンテナを張った男性にはとても見えないのが我ながら困りものです。 というのもおそらく私は、ミリタリー・オタクの方がモデルガンのカタログ誌を見るのように、半ば偏執的なオーラを出してメガネ雑誌と対峙しているであろうことを自覚しています。 例えばモデルガンの愛好家が、「このコッキング式のボルトアクション・ライフルはきっとオレに似合うハズだ」...などと考えていないと思うのですが、同じように、それを身に付けた自分というのは完全に置いてけぼりのまま、ひたすらプロダクトそのものに対してモノマニアックな憧憬に突かれてページをめくってしまうのですね。平常時からほぼ顔の中心に乗せっぱなしの極めて社会性の強いアイテムであるにも関わらず。 とは言え実際の購入にあたっては、仕事で使えるもの使えないものといった最低限の社会性は意識せざるを得ないわけですが、少なくとも物色の際はそのような抑制は効きません。つまり、新調を決定して実際に購入するまでのこの時期は、とても幸福な時間なのです。 プロダクトとしての眼鏡について、私はその魅力を他人に雄弁に伝える言葉を持ちませんが、材質とフォルムが織りなすフレーム造形の妙に加えて、同時にそれが肌身離せない実用品であり、なおかつそれが光学器具であること、...において、深い愛情を語ることができそうです。このブログでは常々映画や絵画美術を通じて光学現象や装置への偏愛を謳ってきたわけで、眼鏡もそのモチーフのひとつとして位置付けられます。 ただ、眼鏡に関しては屈折作用別のレンズの仕組みに深く関心を持ったり、レンズ・ブランドに強い拘りをもったりしているわけではありません。そこまでいくと、それはそれで絶対おもしろい世界が待ち受けているのは確実で、自分の性格からすると底なし的にズブズブと耽溺してしまうのが目に見えています。だからあえてメガネのレンズには無関心のガードを固めてる感じ。私にとってそれは「一眼レフカメラにあえて興味の矛先を向かわせない努力」と似ています。 単に「コレ買ったよ!」的なブログ日記のお気軽さで本稿を書くつもりが、ずいぶん前置きが長くなってしまいました。...とにかく、本当はよ~く考えて、もっとちゃんとしたの(?)を買うつもりだったのですが、結果的に買ってしまったのはコイツ、テオ(theo) 「eye-witness MF (5s)」なのでした。 ![]() 専用ケースはお馴染みの"theo"ロゴではありません。コレクション・ネームの"eye-witness"がプリントされています。ちなみにケース内も"theo loves you"のメッセージはありませでした。 ![]() ガタガタメガネです。今回これを買うにあたって、上に"もっとちゃんとしたものを買うつもりだった..."と書いたように、正直最後まで悩んではいたのですが、以前にも書いたように、ずっとコイツが欲しかったという積年の想いがあって、これを買わなければ先に進めない感じがすごくあったのですね。 テオのコレクションの中でもひと際奇抜なアイウィットネスシリーズは、フレームのみならずレンズのサイズまで左右非対称。そもそも人の顔自体がシンメトリーなものではない、という理屈はともかく、ガタガタの壊れかけか、はたまた未完成か、ラフなデッサン画がそのまま飛び出したかのようなそのデザインからは、「完璧なものは時にツマラナイ」(デザイナー パトリック・フート)、つまり、完全なものに本当の美は宿らないという強いポリシーを感じることができます。 私はこのシリーズを手に取るたびに、特に虫食いの枯れ枝を組み合わせたような「MF」を手に取るたびに、コレをコノ形でココに存在たらしめている哲学と技術といったもの、つまり、プロダクト・デザインの意匠と、それを質量空間で実際に造形し得るプロダクション・テクニックといったものが、とても高い次元で融合しているように思えて惚れ惚れするのでした。もちろんそれは全ての優れたプロダクトがそうであるのだけど、例えばプレスやレーザーで型を抜くのではなく、ケミカル・エッチング(酸でステンレスを溶かしているらしいです)で造形しているなどという話を聞くと、それだけで冒険譚を聞くかのようにワクワクしてしまうのですね。 テオの魅力のひとつに、「極端に2次元的な造形」というコンセプトがあると思います。これは全てのコレクションに共通するわけではありませんが、やはりどこかで通低しているコンセプトのようで、例えば、先ごろ発表されたそれなりにボリューム感タップリなVintageシリーズでさえも、立体的なフォルムから距離を置いたベタっと平坦な印象を受けます。 人気のスリー・ディメンショナルなフォルムがいまのところ苦手な私は、テオの華奢とも言えるフラットな造りに魅了されているのですが、今回購入した「eye-witness MF」は、その華奢な味わいが全開な、奥行きを欠いた2Dモデルの極みにあります。ペラペラ。すでに長く使っている同じくテオの「mele」よりもずっと軽い。ステンレスの肉厚は手持ちのアイシー並みで、全体の軽さはそれ以上に軽い。ちょっと不安になるくらい軽い。軽けりゃいいというもんじゃないだろうと怒りたくなるくらい軽い。さすがに眼鏡市場のツーポイント、ZEROGRAには敵わないと思うけど。 私の記憶では、アイシーベルリンにも左右非対称のサングラスがあったと思いますが、ああいう意図的に珍奇なデフォルメだったのと比べると、テオのそれは見た目の遊び心とは裏腹に、シンメトリーの否定が絶妙な調和をもたらすというコンセプトに忠実な、生真面目さが感じられます。 実際、「eye-witness MF」よりずっと過激な、同シリーズの別モデルを試着してみても、それなりに人の顔に普通に馴染んでしまう不思議さを持っているのですね。 で、いっそもう少し突っ走ってしまおうかと、「eye-witness LD」なども試着させていただきました。これ、不規則な格子でレンズが支持されており、掛けてみると、マンガの血の気がひいたキャラ顔描写が演出できて、とても素敵だったりします。...買いませんでしたが。 ![]() さて、購入したのは大阪は茨木市のopt.eyelandです。私自身も、うちの奥さんもお世話になっています。欲しいアイテムの取扱いさえあれば、できることなら全部このお店で作っていただきたい。こちらの調製と仕上がりの心地よさを一度でも体験するとそう思わずにおれません。 オーナーさんの「コレ、いっときますか?」は、悩みながら店内いろいろ見させていただきながらも、それでも「この人は心の奥底ではすでにコレに決めてしまっている」、ということを見透かしていただいたうえでの、背中のひと押しだったろうと思います。きっと。 ![]() 恒例のロッジ・キャンプは奈良県の下北山。台風の影響で一度は延期しながら、すでにメインの川遊びにはかなりの根性を要する肌寒さの中で実施されたのはいいのだけど、報道されているとおり台風の爪痕は凄まじく、十津川よりは南東に位置する山間部に沿った169線でも、一部で土砂崩れによる通行止めがありました。 ![]() 上の写真は川を一本挟んだ向かい側の迂回路より、走行中の車中から確認できた通行止めの現場。山肌が崩れ落ちて数十メートルに渡って道路を埋め尽くし、川に雪崩れ込んでいます。これだけ見ても強烈で、果たしてキャンプなどと悠長なことをしていて良いのか...と思はいながら、しかしこっちも数ヶ月前から4家族18人合同参画で予定調製に苦心してきた大きなイベントですので、危機回避や自粛といった思惑に勝る勢いがあります。 池郷川で川遊び(寒い!)→きなりの湯で温泉三昧(温かい!)→下北山スポーツ公園キャンプ上でバーベキュー(美味しい!)、というすでに定番にして黄金のメニュー。下の写真は今回の宿(ロッジ)。 ![]() 今回のメインイベントはバーベキュー...ではなく、実はその後にありました。すでに一部で話題(?)の、屋外で炭火を使った完全手動バウムクーヘン作りですね。ホームセンターで調達された丸棒の木材(100円也)にアルミを巻いて、後はそこに生地を塗ってはくるくる焼き、塗ってはくるくる焼き、塗ってはくるくる焼き、塗ってはくるくる焼くこと、飽きずに90分。最初は興味津津で大盛り上がりで集まっていたガキたちも、30分もするとあちこちに散ってい行く中、後は大人の孤独な作業。ペタペタ、クルクル。熱くて孤独な作業ながら、これが思いのほか楽しい。 ![]() 焼き始めは、果たしてこんなものが私たちが知るところのあのバウムクーヘンのようなボリュームに仕上がるのか、という半信半疑の手回しでしたが、おもしろいものでしだいに厚みが出てくるとともに、やる気も出てきます。 写真の右にちょこっと見えている軍手の指先が私です。モンハンの肉焼きにはそれなりに自信のあった私も、部分的に火が強かったり弱かったりする炭火に苦戦しました。気を抜くとひどい焼きムラになります。果たして年輪は形作れているのか? ![]() で、一人一切れ18人分切り分けしてみると、初挑戦にしてはそれなりにイイ感じです。見た目は多少粗雑ですが、中はしっとり外はサクサク、...って、単に最初の方は焦げ目が付くのを待ち切れずに急ぎ足で層を重ねてしまっただけですが...。 心配していた焼き肉の臭みを吸収しているでもなく、...素朴な味わい。ドイツ人ユーハイムが日本で最初に焼き上げたバウムクーヘンはこんなだったに違いありません。...きっと。 本稿一番上(↑)に載せた写真は、これまでずっと関西に住みながら今年初めて訪れたユニバーサルスタジオ・ジャパンの1コマ。下(↓)の写真は岡山は蒜山高原にあるレストランカフェNadja。 ずいぶん寒くなりました。そのせいか、つい先日行きつけの中国気功整体でリフレッシュしたばかりなのに早くも慢性の肩凝りに悩まされています。 皆さんご自愛ください。 ![]()
1982年の話。 映画ファンはこの年をどのように振り返るでしょうか?
この年日本公開された映画を振り返って、ジェームズ・キャメロンが『殺人魚フライングキラー』で、角川春樹が『汚れた英雄』で、それぞれ劇場用長編映画の監督として微妙なデビューを飾ったことを遠い目で思い起こす人もいるかもしれませんし、別の方にとっては『E.T.』と『蒲田行進曲』の盛り上がりで記憶しているかもしれません。また『ブレードランナー』や『U・ボート』といったカルト的に根強い人気作のスロースタートによって記憶する人もいるでしょう。 ちなみに当時小6か中1かだったはずの私にとっては、『伝説巨神イデオン 接触篇/発動篇』とクリント・イーストウッド監督『ファイヤーフォックス』の年だとひとまず言えます。 ![]() ジョン・カーペンター監督の『遊星からの物体X』の続編が公開される。...続編というのは正確ではなく、前回舞台となったアメリカ基地の前段で壊滅していたノルウェー基地を舞台としており、事件発端の顛末が描かれているようです。 映画史上最も色気のない作品のひとつとしても知られる『遊星からの物体X』ですが、トレーラーで見る限り、今回は紅一点の存在(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)が、上に引用した画像のとおり確認できます。ストーリーの詳細は聞き及んでいませんが、彼女を含んだ全員が死亡というのは定石としてちょっと考えにくいので、壊滅したはずのあのノルウェー基地のどこかに、ひっそりと生存者が身を潜めていたのかもしれませんね。 ------ 1982年。 この年を真にエポックに象徴する映画的事件を考えるなら、『遊星からの物体X』(John Carpenter's The Thing 1982)と『狼男アメリカン』(An American Werewolf In London 1981)という2本の(SF)ホラー映画が立て続けに日本公開された年として記憶しておく必要がある...のではないか。 John Carpenter's The Thing 1982 ![]() 主にSF・ホラーといったジャンルにおける、"変身"というモチーフ。 ディゾルブ。 「映像A」がしだいに消えながらそこに「映像B」が重なりつつ、しだいに浮かび上がってくる見せ方、といった映画におけるオーヴァー・ラップの手段によって達成されてきた"変身"は、あくまでも「映像の切り替え手法」、と言えるカメラが回り終わってからの事後的な見せ方の技法に多くを頼ってきました。 これが1982年に日本公開された2本の映画によって別の次元が広がることになります。 それまでの単なるスクラッチビルドアップ・メイクアップだけではなく、役者の身体にラテックス等でデコレートされた部位が空気圧で動き、パーツとなるメカニカル・ダミーは油圧で動き、役者を包むボディスーツもワイヤーで複雑にうごめく。 そこでは、"変身"の過程のモーションが途切れることのない空間的な形象として、実在する物質を媒介としながら、カメラの眼前で動きがダイレクトに表現されることになりました。 An American Werewolf In London 1981 ![]() ここでの立役者はリック・ベイカーとロブ・ボッティン。 この手の映画ファンならご存知のとおり、当時ホラー映画を中心に全盛を極めた特殊メイクアップ・アーティストとして、二人は師弟関係にありました。 二人ともその分野においては高名で、それなりに格式のあるお仕事(リック・ベイカーの猿メイクは特に高名ですね)もこなしてはいますが、多くの人にとっては、いまだにリック・ベイカーと言えば「アメリカン」、ロブ・ボッティンと言えば「物体X」が、合言葉のように代表作として想起されることからも、やはり1982年をエポック・メイキングに捉えることは妥当だろうと思います。 ここでホラー映画ファンなら、『狼男アメリカン』に先立つ1年前の『ハウリング』(The Howling 1981)に先行の利を見る向きもあるかもしれません。裏話になりますが、師匠であるリック・ベイカーが『狼男アメリカン』に取り組むため、弟子のボッティンに低予算の『ハウリング』をまかせてしまい、急遽まかされたロブ・ボッティンが全精力をつぎ込んで作り上げたのが『ハウリング』のあの狼男変身シーン。そのラッシュを見て度肝を抜かした師匠のリック・ベイカーが、大慌てで『狼男アメリカン』の変身シーンを撮り直したのは有名な逸話です。 暗闇の中、わずかな月明りという光源の中で、ある意味慎ましく"変身"のモーションを記録する『ハウリング』、そして光々とした室内照明の中で露骨に"変身"のモーションをさらけ出す『狼男アメリカン』、両作とも役者へのメイクとメカニカル・ダミーを組み合わせながら、「実際にカメラの眼前で起こる"変身"のモーションを記録すること」への執念を見せつけました。 The Howling 1981 ![]() 師匠のリック・ベイカーは油圧式のメカニックで狼の顎を突き出させたのに対して、予算のないロブ・ボッティンは、自らの手をダミーのヘッドに押し込んで顎をググっと押し出すという、手段選ばずのド根性=クラフトマンシップを見せてくれたわけですが、ロブ・ボッティンにとっては、続く『遊星からの物体X』で、あらゆる手段を駆使したメカニカル・ダミーの極限に挑戦することでリベンジを果たすことになります。 とは言え、物体Xであるところのエイリアンが犬の擬態からその正体を現す最初のコンタクト・シーンで、ドロドロの肉塊からひと際太い触手が勢いよく飛び出し、先端がヒトデのようにパックリ開くシーンなど見ると、やはりグロテスクなグローブを装着した人の手を突き出しているようにしか見えなかったりして、ここでも『ハウリング』直系の逞しさを感じることができます。それがボッティン本人の手であるのか、定かではないけれど。 1982年はこの師弟対決に目が行くのはやむを得ないのですが、実はポール・シュレイダー版の『キャット・ピープル』(1981)が日本公開されたのもこの年だったりするのですね。豹女にナスターシャ・キンスキーをキャスティングするという反則技の本作もまた、黒豹がヒロインの皮膚を破って体内から飛び出すという、上の文脈と同じレベルの果敢な挑戦が成し遂げられていることは、ついつい忘れがちな事実です。 意外と知られていませんが、ここで特殊効果を担当しているアルバート・ホイットロックは、この後間もなく『遊星からの物体X』でロブ・ボッティンとタッグを組むことになります。 このあたり、プロ魂の師弟激突を中心にしたなんともローカルな人脈の中で沸騰している熱、のようなものは、80年代のホラー映画ブームに強い牽引力として作用しているのは間違いないでしょう。"変身"のモーションをダイレクトに構成してしまうという、どこか匂い立つようなクラフトマンシップは、『13日の金曜日』(1980)以降のスプラッター描写の進化と並走する形で、80年代を貫くことになりました。 先に上げた『キャット・ピープル』のバリエーションとも言える 『狼の血族』(1984)の口からアゴの変身シーンや、映画ファン以外にもリック・ベイカーの名を轟かせたマイケル・ジャクソンの「スリラー」のPV(1983)とか...、ダミーにしろ人体へのデコレートにしろ、とにかく、ソレはソコで実際ソノように、動いていたわけです。 The Company Of Wolves 1984 ![]() 満月の夜の狼男や擬態の特性を持つ地球外生命体、これらのトランスフォームを通じて、ここで熱く費やされたクラフトマンシップが目指すものは、実にシンプルな創造欲求だっただろうと想像します。つまり、かつてコマ撮りやオーバーラップといった見せ方の手段によって表現されてきた"変身"の過程を、明らかに情報の欠損と言えるギクシャクしたものから、よりスムーズなものにしたい、というクリエイターとしての創造欲求。 よりスムーズに...、諸段階の記録を切替えの手法によって目の錯覚に訴えるのではなく...、より滑らかに...、ギクシャクさせず...、連続した時間の中で提示する。極端な話ワン・カットの中でウソのない"変身"のモーションを完結させ得るものとして。 映画自体が1秒間に24コマの静止画である事実に対してケンカを売ることはできないけれど、"変身"の過程を如何に構成し得るか、という命題にはもっと打つ手はあるはずだろう、という思い。もちろん、本物の狼男や地球外生命体を映画に出演させているわけではないから、ウソであることには違いないのだけど、その運動はカメラの前で実際に起こっており、少なくともギミックは映像の見せ方の側にはなく、実際にそのように運動しているものを、カメラの側は素朴に捉える。ギミックは運動の造形の側にある。"変身"というモチーフと対峙するクリエイターの勝負すべき土俵が、ここで決定的に変化したことになります。 ------ さきほどから触れているオーヴァーラップという古典的手法の"変身"を真っ先にイメージさせる映画は、多くの人にとって『狼男』(The Wolf Man 1941)であるでしょう。ロン・チェイニーJr.の顔や手の体毛が伸びる諸段階の映像を、オーヴァーラップによって"変身"たらしめているわけです。 The Wolf Man 1941 ![]() これがスタンダードとしてどれくらい汎用的手段であったかを考えると、映画以外の動画においても同じ手段が当然顔で使用されていることからも分かります。 例えばテレビ・アニメ『妖怪人間ベム』(1968 - 1969)ですが、ベム、ベラ、ベロが妖怪に変身するシーンはなんと、最大でもわずか3段階のオーヴァーラップによって表現されています。...って、アニメですから別にどのようにでも描けるはずなのですが、にも関わらず3段階というなんとも大雑把なオーヴァーラップで構成されてしまっている三人の"変身"シーンを見るにつけ、そこに当時の技術的問題や、予算要請の問題や、グロ過ぎる映像の回避、といった理由を想像することもなかなか難しく、例えば予算的問題なら(今でも『プリキュア』に代表されるような)入魂の"変身"シーン一発を毎回使いまわすこともできるはずで、つまり、「変身かくあるべき」かのようにそう作られてしまう事からも、"変身"とオーヴァーラップがほぼ同義であるというスタンダード性が理解できます。 あまり知られていませんが、『妖怪人間ベム』は後に「パートⅡ」と銘打った2話分のパイロット版が製作されています。これがなんと、偶然にも1982年なのですね。 オリジナル版よりも目元が可愛くなったベロとベラ、そしてなぜか変わり映えしないベムが、本稿の論旨に見事に合致する1982年というエポックな年に、どのような変身を見せてくれるのか?...で、先日たまたま観る機会があったのですが、この期待は見事に裏切られます。...というのも、変身の瞬間全身がピカっと光に包まれて、次の瞬間には妖怪になっちゃってるのですね。... さすがにこの仕掛けの想像力の無さにはガックリです。...3段階ディゾルブの粗雑さのほうが遥かに映画ファンの感性に訴えかけるものがありました。 ![]() 少し脱線しますが、こう考えてくると、10月からの放送が予定されている実写テレビドラマ版のベムに想いを馳せることになります。そこでは、正義への貢献意思が被差別からの脱却と強く結びついていることや、報われない善意などといった主題論的な問題系、及び、超能力が駆使される以上に、獣の様相のままポカポカ掴み合いの凄まじい近接肉弾戦がメインであったことや、本論旨で触れている"変身"の視覚表現といった見せ方の問題系、といった物語をドライブする要素が、どれくらいオリジナルに近く描かれたり、また回避されたりするのか? すでに発表されているキャストや地上波ゴールデンという枠組みからおよそ想像できるとは言え、単なるキッズ向けで済ませないでほしい。中高年層の郷愁は、視聴者ターゲットとして小さくないはずでしょうし。 ------ とにかく、それほどスタンダード足り得てきたもの(オーヴァーラップ)を変革しようとする力が、怒涛の顕著化を見せることになった1982年をを上に見てきたわけですが、映像表現の技術基盤の躍進は、さらに別のステージを準備することになります。 その起点に何を置くかは諸説あるでしょうが、おそらく妥当なのは80年代から90年代をまたぐジェームズ・キャメロンの仕事でしょう。時系列的にはまず『アビス』(The Abyss 1989)があり、そして何よりも決定的だったのは、液体金属製の最新型ターミネーターT-1000の自在な変容ぶりに驚かされた『ターミネーター2』(Terminator 2: Judgement Day 1991)です。 Terminator 2: Judgement Day 1991 ![]() 1980年代も終わろうとするタイミングで駆使されたのは、CGを使用したSFX手法であるモーフィング。つまり、「映像A」から「映像B」への変形の、その過程の非在の映像をCGで補完させてしまう技術ですね。『ミッション・インポッシブル』の変装マスクひとつとっても、私たちはその滑らかさを新鮮な驚きで迎えたわけです。 そして、「スリラー」で1982年の熱に共鳴したマイケル・ジャクソンは、その10年後、「ブラック・オア・ホワイト」のPVで同じジョン・ランディス監督を起用しながら、今度は積極的にモーフィングを導入することになります。 オーヴァーラップにおける映像Aと映像Bの間にあるのは、欠損としての隙間だと言えます。そして、諸段階の継ぎ接ぎを滑らかにしたい、という欲求を満たす手段として、オーヴァーラップの進化の先に、「欠損部の補完」としてモーフィング技術を置くことは、極めて自然な流れであるように思われます。オーヴァーラップとモーフィングは、技術進化の時間軸の上で直接バトンタッチされるべき関係に感じられるのです。 ![]() だとすると、満月の夜に苦悶の叫びとともに骨格が"実際に"せり出す主人公のあの泥臭い表情を作り出した80年代を、そうした前後の時代を含めて俯瞰で捉えなおすと、技術進化のナチュラルな時間経過軸にはどうも収まりが悪く、「無謀な試みだったがそれなくして次のステップも有り得なかったのだから」というフォローも有効ではないように思われて、どうもそこだけが取りこぼされたもののように、バトンが素通りしてしまっている感じがすごくします。 「オーヴァーラップ → (80年代) → モーフィング」 ここで80年代を「空白の10年」などと呼びたいわけでは決してなく、あの10年間の試行錯誤をあえて言うなら、映画における"変身"手段にとって、そこだけがポッカリと「鬼っ子」であるかのようで、それ故に私たちを惹きつけてやまない魅力を放っているようにも思う。 フルCGが映画の要所要所で使用され始め、しだいに映像Aと映像Bの存在さえもが「補完」されてしまう現在から振り返ると、初めてコンピュータ・グラフィックスを全面的に導入した『トロン』(Toron)が製作されたのが1982年であるというのもここでは幾分象徴的に感じられるけれど、この「鬼っ子」の10年間は、とにかく「待てなかった」わけです。あと5~6年待てばモーフィング技術は映画に浸透し始めるはずなのに、あのタイミングで発揮されたクラフトマンシップは、性急にもそれを待てなかった。 歴史上の大きな事件の背後には、それ以前に同じような志を持っていたはずの人間の存在を必ず認めることができます。そういう人たちの試みを、ここで「早すぎた」的に勇敢な美談として語りたいわけではありません。ただ、あれらの試行錯誤の数々には、決定的な転換の達成からは決して紡ぎだすことができない、バカバカしさ一歩手前の「武勇伝」や「技術者の痕跡」といったものが匂い立っているのは確かであり、それらは興奮をもって語ったり愛したりするに足るだろうということ。 ここで書いた「痕跡」というのは、大袈裟に言うと夢だったり祈りだったりするものです。 コンピュータは連続的な値を扱うことが苦手で、ひたすらクールに映像の前後の情報を分析しながら、存在しないはずの隙間を情報として補完することに徹することを考えるなら、ある程度モーフィングの自動処理が実現されるに至っては、そこで扱われているはずの"変身"という意味性そのものには無関心とも言える作業が進んでいるわけで、故に、そこでは「痕跡」はとことん希薄なものになりがちです。 私は今でもSF・ホラー映画を愛しており、最新のVFXもウェルカムですが、すでに特殊効果アーティストの固有名詞に深い関心を持っていないことにふと気づきます。実際、今年前半最も楽しめた映画のひとつ『ブラックスワン』(2010)についても、終盤でカットを割らない”変身”シーンに釘付けになりながらも、それを創り上げたVFXの監修が誰であるのかを、私は知らないし、あえて知ろうともしていない。… 希薄になったのは、私の関心ではなく、特殊効果の映像に、消し難く残ってしまっていたはずの「痕跡」の方ではないか。 The Wolfman 2010 ![]() ジョー・ジョンストン監督の『ウルフマン』(2010)は、オーヴァーラップ変身の始祖であるロン・チェイニーJr. の狼男を多分に意識した2010年版ゴシック・ホラーであり、特殊メイクを担当しているのが1982年の主人公、リック・ベイカーであることは注目に値します。 殺伐血飛沫シーンにおける昔ながらの効果が絶品なのは当然として、やはり最大のクライマックスは裁判員を前にした明るい室内での主人公の狼男”変身”シーンです。映画そのものの出来は別にして、それは想像以上に素晴らしい出来栄え。 正直言って私には、そこで駆使されている技術について、おそらく上手く混在させているはずのデジ・アナの見分けがつきません。そのように感心させられている時点で脱帽であり、言葉での説明は難しいのだけど、そこにはリック・ベイカーという名前の価値が貼りついており、上に書いた「痕跡」のようなものが、仄かながら確実に認められたられたことに不思議な安堵を覚えたのでした。 最初に触れた『The Thing (2011)』に話を戻すなら、ロブ・ボッティンはそこに召喚されるべきだったのでしょうか? 何とも言えませんが、20世紀と心中してしまったかのようなボッティンに、残念ながら貢献できることは何もないだろうと想像します。 まだエイリアン映像は見ていませんが、多分フルCGでうごめくであろう最新鋭の物体Xを前に、私はそれを心底楽しめる自信があります。ただし、そこに匂い立つように濃厚な作家性を認めることには、引き続き無関心であるのでしょう。
M・ナイト・シャマラン原案・製作によるザ・ナイト・クロニクルシリーズ第一弾、『デビル』(DEVIL 2011)を鑑賞。シャマランのアイディアを新鋭のスタッフ&キャストを起用して映画化する本シリーズ、今回の監督は『REC:レック/ザ・クアランティン』(Quarantine 2008)のジョン・エリック・ドゥードルです。
私はシャマランのネーム・バリューに引っ張られて劇場に足を運んだ口だけど、ジョン・エリック・ドゥードル監督についてのリサーチはしておこうと事前にレンタルしてきたのが、何を勘違いしたのか『REC/レック2』([REC]2 2009)。...そう、実はスペイン映画『REC/レック』(ジャウマ・バラゲロ&パコ・プラサ監督 [REC] 2007)の米国リメイク版が『REC:レック/ザ・クアランティン』だという事情が理解できておらず、ジョン・エリック・ドゥードルこそがオリジナル『REC/レック』&『REC/レック2』の監督だと思い込んでしまってたのですね。で、『REC/レック』自体はすでに観ていたので、未見の続編『REC/レック2』を観ておこうと考えたわけです。 ...なんか書いてるだけでややこしいのですが。 ![]() その『REC/レック2』ですが、以前こちら(ロメロ・ゾンビの原理主義)でも触れたように、主観撮影の本位が有視界の制限によるが気配ザワザワ感から、逆に、選りすぐりの決定的瞬間がオートマティックに視界を流れるレール式アトラクションのお気軽感へと変遷した後の、その極に配置できるアクション映画として、『REC/レック』をそのまま継承しています。複数主観の交錯に多少のバリエーションも盛り込んでいるとは言え、ストーリーもそのまま継承、映画としては画面構成の手腕が大きく問われる縦に長い閉鎖空間の舞台設定もそのまま継承、という勇ましさは買いたいと思いますが、端緒となる真相がデフォルメっぽく感じられるほどオカルトに引っ張られたり、かと思うと、「結局"4"以降のバイオハザード(ゲームの方)かよ」..と落胆させられるようなオカルトとは対極の寄生虫が視覚的に表現されてしまったりと、アクションの原動力が形振り構わずみたいに暴走してしまってる点に、上手く乗れる呆れるかで評価は大きく分かれると思います。私は、乗りきれなかったけど、監督のジャウマ・バラゲロ&パコ・プラサの力量は、まだ底が知れないとは感じさせられはしました。 と、勘違いでフォローしてしまった『REC/レック2』で、結局お目当てだったジョン・エリック・ドゥードル監督のリサーチは全くできないまま『デビル』に挑んだ次第です。 シャマラン・ファンとしては、事前に、ダメなら監督のせいにして、良ければシャマランの手柄にする心づもりだったのですが、結論から言うと『デビル』はかなりおもしろいです。 ちなみに、表現の斬新さは驚くほどなく、むしろクラシックでさえあって、ゆえに、正直ジョン・エリック・ドゥードル監督の演出力も無視できないものがあります。 ストーリーは極めてシンプルで、エレベーターの一室に閉じ込められた5人の男女という極度にミニマムなシチュエーションで展開する"そして誰もいなくなった"ですね。 鑑賞前に想像していたのは、もしかしたら上映時間のほぼ全編がエレベーター内部で展開するような、近年流行りのシチュエーション・スリラーの手法、(『ソウ』とか『パラノーマル・アクティビティー』とか)、つまり、極度に限定的で閉鎖された舞台設定そのものがミクロコスモスを形成し、その小さい世界に充満するエーテルが内側から映画を圧し、映画という大きい器を"持て余さない"様が、そのままスリルとサスペンスとして語れてしまう感じのスタイルが、とうとう"エレベーターの一室"なる小さい箱にまで行き着いた、…という、興奮していいのか心配になっていいのか分からない感慨だったりするのですが、蓋を開けると実際はそこまで過激ではありません。 ![]() もちろん、多くの時間と重要な出来事のほとんどがエレベーターの内部で起こる本作には、先に触れたミクロコスモスが映画(物語)の大きさを圧するスリルとして語れる魅力を兼ね備えてはいますが、再度繰り返すと、『デビル』はシチュエーションの奇抜さに多くを頼った、気張った感じの過激さとは無縁な、クラシックな仕上がりです。シチュエーションの過激さで言えば最近では『リミット』(2010)のように棺桶の中で展開するものまであるわけですし。(スペインってこういうの好きなのですね...) エレベーターの一室という閉塞性の中で緊迫感を煽るカメラは、主観撮影ではなくあくまで出来事に対して雄弁に振る舞いますし、そもそも全編がエレベーター内で展開するわけでもなく、5人を救出しようとする警備員や刑事によって進められるエレベーターの外部の物語も並走するわけで、観客にも十分な酸素量を供給してくれるそれなりに開放的なドラマであるわけです。 とは言え、ここでタイトルにも冠されたデビルは、余程映画に対して理解がある悪魔なのか、その超常的な力は、シチュエーション・スリラーの設定に実に都合よく発揮されることになります。 その力はまず、決定的な瞬間(エレベーターの内部で人が死ぬ瞬間)において常にエレベーターの照明を断続的に切断することで、漆黒の画面の中に叫び声と不気味な物音だけを浮かび上がらせようとします。照明が戻ると眼前にとんでもない状況が映し出されるびっくり箱効果は、サスペンスのみならずコメディにおいても馴染みのもので、それは観客と登場人物たちに対する犯人隠しと猜疑心を煽るお決まりパターンである以上に、首や血飛沫がとぶような残酷シーンをことごとく回避することで、ストレートな視覚効果に頼ったホラー映画になろうとしない慎みとともに、超常現象に支えられながらも、あえて上質なスリラー、サスペンスとしての体裁をクライマックスギリギリまで保持することに成功しています。 そして悪魔の力はさらに、エレベーター内部の状況を外部(警備室)に伝える広角カメラの粗雑な映像と、外部からの音声を届けるスピーカーの機能を生かしながら、エレベーター内の音声を外部に届けるはずのマイクの機能だけをピンポイントで壊すことにより、情報(音声)の一方通行という、程よく(最低限)困難な状況を作り上げることで、程よいサスペンスを盛り上げようとします。 ![]() "じらしテク"として映画的旨みを理解した悪魔による、このようにサスペンスを盛り上げるためにしかあり得ない仕掛けといったものが、ご都合主義的とも言える開き直りっぷりを見せることで、早い段階からこの事件が超常現象であることを丸出しにしてしまうことになりますが、照明の途切れと復旧が浮かび上がらせる地獄絵図のコントラストにしろ、情報(音声)の一方通行が煽る事態解読の程よい混乱にしろ、これらはいずれもスリラーの常套手段と言えるもので、それを、アイディア一発のシチュエーション・スリラーとしての奇抜さとは異なる、どこか丁寧でクラシックな感触として上で書いておいたわけです。 つまり、もっと奇をてれえるはずのこの映画は、もう少し志の高い土俵で勝負しようとしている。 ...これは、シリーズと言いながらどれくらいの息の長さを見せるのかが幾分怪しい"ザ・ナイト・クロニクル"の基本ポリシーであると理解したい。そして、シャマラン・ファンは、このポリシーこそまさしくナイト・シャマランその人のキャリアそのものであることに気づくはずです。 クライマックスで唐突に挿入されるフラッシュバックでシャマランのテイストが全開になったりもする『デビル』で、原案と製作としてどの程度作品の仕上がりに介在しているのかは不明ながらも、やはりここでナイト・シャマランについて考えておく必要がありそうです。 ![]() 私自身は、彼のデビュー以来尽きぬイマジネーションに驚かされる一方で、尽きぬどころかむしろ苦悩と難産が透けて見えたりもしますし、実際は手クセが強く似たようなモチーフの変奏を繰り返しているだけのようにも感じられます。逆に言えばいまどき珍しく一貫した哲学を堅持する勇ましい作家だとも言えるのですが、早い段階で見限ってしまってすで眼中になかったりする人も多いだろうと想像します。 ここでは主題論に特化しますが、彼の映画の多くでは、"帰依"すべきシステムが大きく描かれており、その徴し(痕跡)と、それへの気づきと、それとの距離に応じて自らをアイデンティファイすること、によってストーリーが成り立ち、見せ場が構成されているように感られます。 "帰依"すべきシステムというのは、社会システムよりも大きい超越的なものですので、彼の映画は一応広義のSFに分類されることが多いですし、そこへの帰依といったときも、社会的な従属のニュアンスとは異なるものです。 そして、物語の構成要請である「徴し」も、「気づき」も、「アイデンティファイする」ことも、彼の映画ではそこに畏怖の念が常に伴い、その感情がそのまま映画の主要な題材になっていると言えるでしょう。 シャマランの作品には、以上のことを極端に単純化して「結局は宗教」、と切り捨ててしまえる危うさが常に付きまとっていますが、しかし、シャマランはやはり根っからの映画作家です。上述の"気づき"の過程をそのまま極上のサスペンスに仕上げることもあれば、アイデンティファイの達成がクライマックスを華麗に形成するものもありますし、また、現実的には帰依すべきものも、徴しも、全てが自らの主観の中にしか存在しないようなものもや、また、帰依すべきものの底が抜けており、それが実は超越的でもなんでもないにも関わらず(ヒロインの視覚障害ゆえに)畏怖の念とともにシャマラン的なアイデンティファイが達成されてしまうような仕掛けもあったりします。 ![]() いずれにしろ、主人公たちはそのような物語の過程で、ある程度は超越的なシステムの公理化を果たしながらも、畏怖の念とともに、引き続き"神"は参照されるべき存在であり続けているようです。 これらは、監督デビュー作『シックス・センス』(1999)以降どうしてもされがちな、"衝撃の真実"的な語られ方や期待というものに対して、時にたまたま相性の良いマッチングを見せることがあっても、基本的には質を異にするものです。 そしてシャマラン・ファンの多くは、悔い改めることで(" I’m so sorry ")、不可避と思われた死を免れてしまう『デビル』のクライマックスを観ながら、その展開に呆れたりシラけたりする一歩手前で、上述のようなシャマラン的な世界感が強固に貫徹されることに感慨を深めるのではないか、と想像します。 徴し(痕跡)への気づき = 神の意志を垣間見る、という、ごく小さいけれど人知にとっては僅かに残された大きい可能性にスポットが当たるシャマランの作品の中では、「悔い改めることで獲得可能な恩恵」(ルター)や、さらには、人の行いが神の決断を左右し得る、という可能性さえもが、払拭されることなく残っているわけです。 だからデビルというタイトルには、ゴッドへの置換可能性が含まれており、(似た意味は多少幼稚なセリフ回しで『デビル』のラスト・シーンにも置かれていますが、)それはなお参照されるべき存在であり続けています。 すでにSFが連れて行ってくれる"どこか"の魅力が、私たちの想像力のみならず現実と比しても乏しく感じられることがある昨今、シャマランの扱う主題、つまり"帰依"すべきシステムと私たちの関係というものは、「旧くない」に留まらず、ますます時代の要請に応えうるものであるような気がするのでした。 Tags:#M・ナイト・シャマラン
♪ 斜めから恋をしてる。♪ その秘密を解いて。 perfume 「シークレット・シークレット」 ![]() もしかしたら、"斜に構える"という恋愛に素直になれない複雑な心情を言っているのかもしれないけれど、しかし普通に考えればやはり位置の相関のことだと思われるので、その方向で秘密を解こうと思う。 おそらく、恋してる対象が、恋してる本人から見て、斜めに位置する場所にいることが日常的に多いのだろう。毎朝の通勤通学途中の車両内定位置のことかもしれないし、教室やオフィスでのことかもしれない。 また、歌詞の別の場所で「♪ キラキラで目が眩むけど ♪」とあることから推するに、恋している本人の斜め後ろに対象がいるのではなく、安定的に相手を視野に収めることができる斜め前に、恋してる対象がいると思われる。 問題は相手と本人が同じ方向を向いているかどうか。教室的なシチュエーションならほぼ同じ方向を向いていると考えていい。同じ方向を向きつつ斜め前に恋をしている対象を捉える...って、"黄金のポジション"!...しかし相手に気づかれずに一方的に見つめることが適っても、"黄金のポジション"の弱点は、相手の表情を正確に捉えることはできない点にある。しかしそれでも、つまり斜め後ろから見ても、「目が眩むほどキラキラしてる」なんて有り得るだろうか?...断じて有り得る。 私自身に照らし合わせると、相手に恋をしているならば、たとえ真後ろからであっても、後頭部、首筋、肩のラインだけで十分過ぎるほど目が眩む自信がある。...しかし、もしかしたら、講師と生徒の関係のように向かい合ってて、斜めとは言え十分その表情をとらえることができている可能性も一方にはある。 仮にそうした場合、講師と生徒の関係なのか?...飛躍かもしれないが、講師は既婚者と見ていいだろう。...となるとここに至って「シークレット・シークレット」という曲名が突然深い意味を持ち始めるのだが、 ...いや、ここで解きたい謎は「斜めから恋してる」なので、この方向の推論はいったん保留にして、実は、最大の問題が歌詞の別の個所にある。「♪ 触れる指先が切れそうだ ♪」、とあるのだけど、この詩句と、互いの位置との相関関係が解りづらい。...というのも、相手についての知識が深くない状態の片想いなのは間違いないだろうが、にも関わらず「指先が触れる」関係?...やはり、斜め前に恋してる対象がいて、その人が消しゴムを落とすなどして、斜め後ろの恋してる本人がそれを拾って、手渡す際に起こったシチュエーションなのだろうか?(やはりここで教室路線に立ち返る。)...とすると、消しゴムの転がる距離はたかがしれたものだから、斜めとは言え、わずか1~2席程度後ろ、ということになるかもしれない。...ここに至って、思わぬ急接近でなんかちょっとドキドキ。 しかし消しゴムの材質によって転がる距離を一概に決めることはでき....(この辺でやめます) ******************************************************* 夏が大の苦手で、仕事以外でPCに向かうことさえ億劫な状況。とは言えブログ更新ゼロ月を避けるため、急遽パフュームで幕を開けてみた。他愛のない話。 帰省の帰途、単身長距離移動の車中でWilliam Basinski「The River」と、Thurston Moore「Sensitive/Lethal」を鳴らす。「ジブリ・ソングス」や(まだまだ健在の)「プリキュア」が全開だった家族同伴の行きの道程と、同じハウイウェイを走っているとは思えない情景が車窓を流れた。 William Basinski「The River」 ![]() 別にインド音楽やラ・モンテ・ヤングが聴きたい、という意味ではなく、ドローンのようなものも躊躇しない、程度の意味。 短波ノイズを引き延ばしてループさせた「The River」が真っ先に想起させるのは、ホルガー・チューカイやシュトックハウゼンといった先達ですが、「The River」の恐ろしさ(素晴らしさ?)は、その極端な起伏の少なさが、90分という拷問に近いスケールで展開する点にあります。それをハイウェイ・ドライヴのBGMにするのってどうよ、という反問に対しては、ではいつどのようなシチュエーションにベストマッチなのかを問い直しつつ、ウェルカムの意味にはエニータイム,エニーウェアが含意されていることを勇ましく宣言しておきたい。 「Sensitive/Lethal」のほうは、もともとソニック・ユースにおいてもソロにおいても、ある程度レーベル会社を使い分けることで、コマーシャル性と前衛性を両立させてきたサーストン・ムーアのキャリアの中でも、特に情け無用の硬派な1本と言える作品でしょう。前半の「sensitive」こそ怪しげなギターが波打つ調子がループされてるものの、後半の「Lethal」ではそれさえ消えて完全リズム・レスの中ひたすらファズ・トーンのノイズが26分、吠えまくります。 Thurston Moore「Sensitive/Lethal」 ![]() 最初にドローンなどと過激なことを言いましたが、「The River」はミニマル・ミュージックとかアンビエントとか、いっそエレクトロニカなどにくくってしまっても文句は言われないだろうし、この際「Sensitive/Lethal」もひっくるめて音響系という都合のよい言葉にまとめてしまうことでなにやらスッキリするのかもしれない(実は余計に分かりにくいのですが)。 このようなジャンルとしての名付けは、確実にその作品を矮小化してしまう側面を持つけれど、得体の知れないものが不思議と見通し良くなる効果は確実にありますね。 いずれにしても、こういったものを不平を洩らすでもなく、skipさせることもなく、実に姿勢正しく、意識的に向き合って聴く、別に苦痛に耐えているわけではないけれど、そんな自分がどこか可愛らしくも感じられたり。 それはこういった作品を、瞑想的云々音宇宙云々などと表現してしまうことがすでにできなくなってる今の自分が、初めて"現在音楽"のジャンルに背伸びタッチした20代前半の頃の謙虚さのようなものに、立ち返っているような気がします。つまり今夏のエニータイム,エニーウェアな「ドローン、ウェルカム」は、童心と謙虚さが入り混じったニュアンスで構成されているようです。 ******************************************************* うたモノを一枚入れときます。The Antlers「Hospice」、これ、聴き始めのインパクトが強烈でした。 プロローグに続く2曲目の「Kettering」なんか、world's end girlfriendのオケをバックに、anthony & the johnsonsのアントニー・ヘガティがすすり泣きで歌うかのような、...って、主催者のピーター・シルヴァーマンも、ジ・アントラーズというユニットについても知識がありませんので、分かりやすいのか余計ややこしいのか判然としない例えをしてしまいました。 The Antlers「Hospice」 ![]() オープニングこそ強烈で非凡では済まない孤高を感じたものの、全体を通じた楽曲の展開が「え、そっち?」となりがちで、というのも、途中から轟音。歌詞の内容は不明ながらも、おそらくドラマ性が濃厚で大いに盛り上がってしまうのですね。それ自体は先に例に挙げたanthony & the johnsonsなんかもそうで、エモーショナルになることを恐れないというのはここにきてトレンドのひとつになっているとは思うし、The Antlersの世界感はユニークで見過ごせないのは間違いないけれど、轟音になると意外と"普通"な印象に収斂してしまう。 とは言え、久々に"前知識ほぼゼロで接する"、という、これまた20代前半のトキメキに、意識的に立ち返った結果の興奮と落胆といったものに、大いに満足させられた1枚でした。 ******************************************************* 話は変わって、先日ビデオでピーター・ジャクソン監督の『ラブリーボーン』(2009)を観ました。 ![]() 責任の半分はこちらにある...そんな既成楽曲を使用した映画音楽の恥ずかしい感について、ソフィア・コッポラ監督作品のサウンドトラックを例に、かなり以前に同じようなことを触れています。⇒「my bloody valentine」
京都市美術館で開催中の「フェルメールからのラブレター展」。
"日本人みんな大好き"フェルメールの絶頂期の作品3点を含んだ展覧会であるにも関わらず、平日のお昼時のせいもあってか人出はまばら。青衣の女を独り占めとはいかないけれど、かなりラッキーな方です。 ![]() ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer 1632年-1675年)の作品が日本の展覧会にかかると言えば、必ずついてくるのが"その他"17世紀オランダ絵画たち。主題の一貫性が意識されて、当時の主に室内風俗画が数多く来日します。それはそれで貴重な対面であるのでしょうし、ファンの方も多いだろうとは察しますが、やはり主役を前に"その他"は全部吹っ飛びます。 私の趣味の狭さを横に置いて言わせてもらうなら、こうして書いている今も脇役たちの記憶がほとんどない。それら諸作品はその場ではそれなりに感心させられても、よほど専門性の高いファンでもない限り、失礼ながら全く後に残らないのではないか。 一方の主役は、そのサイズ感と言い、パッと見で感じられる色彩の地味さと言い、主役としてのディスプレイのされ方に見られる威厳とは矛盾するような慎ましさ...といったもので、一瞬観客を戸惑わせます。しかし次の瞬間には、それが間違いなくフェルメールであるところのもの、(本展覧会ではフェルメールの作品が順路の最後にまとめて展示されていましたが)ソコに至るまで順を追って観てきたものから、それ(フェルメール)を差別化するニュアンスといったものに、たちまち魅了されるのでした。 そのニュアンスなるものについて、今回は特に分り易いと言っていいでしょう。フェルメールの真骨頂と言える1660年代の女性単独像、その中でも一般的に評価の高い2枚、「青衣の女」(1963-1964)と「手紙を書く女」(1965)が並んでいるのですから。 Woman in Blue reading a Letter ![]() A Lady writing a Letter ![]() 私は詳しくないけれど、絵画技法の観点から論じるならおそらく、脇役の"その他"の風俗画のほうにより感心させられる点が見受けられるかも知れない、そんなこの画を、"その他"から差別化するニュアンスとは何なのか? 差別化もなにも、そもそもフェルメールの諸作が室内風俗画というジャンルに括られること自体に対して個人的には大きな抵抗を感じ続けているのです。...これは明らかに風俗画のフリをした宗教画だろうと。...フリをして、などというと、この頃の風俗画にありがちな主題や被写体としての配置物に潜ませた宗教的寓意、みたいに感じられますが、もちろんそれもあるだろうけれど、なんというか、もっと大胆なものとして。 宗教画と言っておかしければ信仰心に突き動かされたものと言い換えてもかまわないけれど、とにかくここで唐突にスポットを当てたいのは、同時代のオランダ、場所はフェルメールの住むデルフトからハーグに移させてもらって、そこでレンズ磨きに精を出していたはずの哲学者、バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza 1632年 - 1677年)です。 このブログでも何度か登場してもらっているスピノザ。彼の一元的汎神論と、フェルメールの画に見受けられる「絵画技法に収斂されきらない独特のニュアンス形成」の関係については、こうして書くに当たって事前にググってみると、いくつかの指摘がすでに存在していました。 例えば、スピノザの研究者であるイヴォンヌ・トロスは、フェルメールの「小路」(1658)の細部を、スピノザの存在論・認識論に関連させつつ次のように論じているようです。 白色光は"無限の実体"(神)であり、光の波長に応じて分化した色彩は"有限の様態"(個々の存在)を示している、と。 私自身は白色光もひとつの様態だろうと思いますが、ここでスピノザの存在論を大雑把に要点だけ書いておくと、次のようになるかと思います。 自己原因で存在し得る"実体"は、ただ一つのみである。その"実体"の本性は無限であり、それが神である。"実体"であるところの神は、無限の属性を持っている。この世のあらゆる諸々のモノ(個物や有限なもの)は、様々な属性の様態として存在している。私たち人間が認知し得る属性の代表的な例が「延長」と「思惟」であり、人間の「身体」と「精神」はこの属性の一側面として理解される。 ...つまり、森羅万象の全ては、無限実体(神)の属性の様態として在り、よって神は、外在的な超越存在ではなく、万物の内在原因として把握され、当然古来の人格神は完全否定されることになります。 結局それって「神は自然に宿る」みたいな、「え?それだけ?」な表現に収まる論理なのね、...と言われれば、結構大声で反論できなかったりするのですが...(笑)、もう少し厳密かつ無理矢理に言ってしまうと、私たちのよく耳にする「神は自然に宿る」という表現が伝えるのは、人間にとっては外在的な超越神をイメージさせるもので、万物の内在原因としてのニュアンスにはまだまだ乏しい、と言える気がします。 ですので、「神は自然に宿る」においては、人の手による自然破壊という行為はかなり明確に「悪」ですが、これがスピノザにあっては、その破壊行為の根源もまた神、ということになるわけです。ちなみにそれは「悪」とは呼ばれず、「より完全な状態と比したときの欠如」として把握されます。このあたりがいつもスピノザ批判の最大の焦点になりがちです。 以上を踏まえた上でフェルメールに話を戻します。 "その他"の同時代オランダの風俗画が、レンブラントの明暗によるドラマ構成のエッセンスを、室内風俗画というモチーフによって卑近に縮減したようなコントラストを特徴とするのに対して、フェルメールのそれは確実に光の質が違っており、それは、"その他"風俗画と比べて、時にフェルメールの方がくすんでいる、とさえ見られかねない質のものです。 光源(フェルメールにおいては多くの場合向かって左手の窓)が描き出す陰影のみならず、被写体の全てを等しく包み込むような粒子群、ときに被写体そのものが発光体であるかのように、光の粒子を周囲に降らせるような全体のトーン、そういったものは、全体的にソフトフォーカスだったり、仔細に見た時に感知できる経年による細かいひび割れやくすみだったりといったものと、正確には判別し切れない類のものですし、そもそも「光の粒子」とか「神々しい」とか、とことん感覚的な話になってしまいがちではあります。 そしてフェルメールの画の独特のニュアンスを論理立てて語ったり技法を分析したりできない私は、感覚的な話に終始しがちな上記の状態を前に、真っ先にスピノザの存在論・認識論と重ね合わせることを思いついたのでした。 そこで描かれているものは正しく光の粒子としての諸様態そのものであり、それが意識されているがゆえの神々しさがフレームの中の全てに宿り、満たしている、...とイメージすることで、フェルメールの画の大枠にして仔細を解釈できた気になってきたわけです。 この理解に立てば、フェルメールの画をめぐってなされがちな諸々の謎解きの類を、ひとまずどうでも良い小さいこととして無視できる感じがラクだったりもするのですね。 しかし、"神々しい"などと片付けてしまって、フェルメールから得られる感銘を安直に表現してしまうことが、他からの明確な差別化につながるかどうかは甚だ疑問です。 例えばジャン=フランソワ・ミレーの「晩鐘」で夫婦を包む夕暮れの光、あれもやはり"神々しい"、わけです。題材に引っ張られているとは言え、おそらく誰がどう見ても神々しい。 そんな神々しさを、西洋絵画が好きな人は他にいくつも思い浮かべることができるでしょう。 L'Angélus (Jean-François Millet) ![]() このニュアンスの差異は微細なものです。しかし微妙だけど確実に感じられるもので、その差異はそのまま、スピノザの一元的汎神論と、それ以前の万有神論やアニミズムといった自然礼賛、との違いに対応できるだろうと思います。 客観的な事実性を欠いた感覚的な話のまま、私自身あまり詳しくない分野にドンドン話を進めてしまって、なんというか...かなりピンチなのですが、勢いついでにもう少し続けます。 この際強引に、フェルメールが描こうとしていたものが上に書いてきたようなものだったとして、敬虔なカトリック教徒としての立場から見ると邪教にさえ映りかねないスピノザの一元的汎神論に、フェルメールは密かに賛同していた、もしくは、たまたま同じ時期にスピノザに近い思考を獲得していた、のだろうか?... フェルメールの創作をめぐっては、カメラ・オブスクーラが使用されていたかどうかがよく議論されます。実際どうだったのか分かりませんが、私はぜひ使っていてほしいと考えます。 カメラ・オブスクーラを通じて捉えうる世界がどのようなものであるのかを私は知りませんが、聞きかじりで知るところの当時の光学的な効果が写し出す像は、時に、例えばモネが獲得しようとした純粋知覚のごとき倒錯した像に、多少なりとも近かったのではないかと思ったりもするのです。 [ 関連記事:「印象主義-強硬派 モネと対話してみる」] そして、フェルメールの画のソフトフォーカスとも言いたくなるそのニュアンスは、自身の知覚よりも、非中枢的な光学装置が組成した像に価値を置いた結果の賜物であり、そのような、人知が細部を補正してしまう前段階の像にこそ、大袈裟に言えば一元的汎神論の説くところの"実体"に繋がり得るものを感得することができてしまい、それを積極的にそのまま表現しようとしたのではなかろうか? それがボヤケやくすみの正体?...と自分でツッコミを入れつつも、そんなフェルメールの中にはすでに、モネや、セザンヌだって見つけることができる。19世紀や20世紀を待ちきれない画家だ。 さて、ここまで感覚的な話に終始してきましたので、まとめとして、もう少し話を論理立てる努力をしながら、実際のフェルメールの作品から見られる彼のキャリアと、その時代背景を考え合わせつつ、上に書いてきたようなこと、そのような思考を、なぜ絵画で表現するに至ったのか、その経緯について考えておきたいと思います。 フェルメールのキャリアを振り返ると、主題として、ズバリ宗教や神話に題材を得ることからスタートしていることに気付きます。初期の「聖プラクセディス」「マリアとマルタの家のキリスト」「ディアナとニンフたち」などがそれに相当します。 ![]() これが、1656年の「取り持ち女」で、突然主題が一般的に言われる風俗画のそれへと変化します。 ![]() これはつまり、宗教画の衰退、より正確に言うと、宗教画需要の衰退、というものに、画家が巧みに反応していると言えなくもありません。主題のみならず画のサイズひとつとっても、教会などの宗教的なコミュニティから、家庭向けへと需給が大きく変化したこの時代、画家として生計を立てるフェルメールは、時代のトレンドに敏感に反応することに、ひとまず躊躇しなかったのではないか。 結果としてトレンドに迎合すること、それ自体には何の罪もないとは思いますが、先にも触れたとおり敬虔なカトリック信者であったとされるフェルメールにとっては、信仰心が、疚しさから保護される折り合いのようなものが必要であったのかもしれない、とは想像できます。 隠れキリシタンではないけれど、職業画家としてある程度の顧客需要を意識しながら、風俗画を装いつつも、そこに潜ませずにおれない信仰心。それは寓意として機能する小物類を忍ばせたり、背景に飾られた意味深長な画中画が相当に雄弁であるかもしれない。...また「真珠の首飾りの女」や「恋文」から、遠回しな受胎告知のバリエーションを読み取ることも、あながち間違いだとは思わない。...しかし、フェルメールが付けた"折り合い"は、そんな細かい芸当とは質に異にする、もっと巧妙かつ大胆なものだったのではないか...というのが、上に書いてきたスピノザに引っかけた考察です。 つまり、ひとまず慣れ親しんだ人格神を、進んで否定・解体することで、見た目ストレートな宗教的主題からは完全に解放されつつ、尚且つ「神」をカンヴァスいっぱいに堂々と描く......という、捨て身の作戦だったのかもしれない。 スピノザは、レンズ磨きで生計を立てながら、ユークリッドの幾何学的手法を用いて、一元的汎神論を説いた。フェルメールは、絵筆を表現手段として、非中枢的な装置によって得られる像を、無限実体の諸様態として捉えた。 この良く似た話は17世紀のオランダでの出来事で、歴史的にも明確な成果物が、ともに遺産として後世に残されているのでした。
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